城郭探訪

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長光寺城(瓶割山城) 近江国(八日市)

2016年10月10日 | 山城

お城のデータ 

所在地:東近江市(旧八日市市)上平木町    map:http://yahoo.jp/7jWM-p

別 名:瓶割山城

現 状:山林

築 城:鎌倉時代中期

築城者:佐々木四郎政堯

初城主:佐々木四郎政堯

区 分:山城

遺 構:一の郭・二の郭・三の郭・米倉・古井戸・大石垣・堀切・土橋

城 域:150mx150m

標 高:234.5m      比高差:120m

目標地:御澤神社

駐車場:御澤神社に駐車

戦 い : 応仁2年(1468)  ○六角高頼(西軍)  VS  ●六角政堯(東軍)

      元亀元年(1570)  ○織田信長     VS   ●六角承禎 

訪城日:2016.9.18

お城の概要

 長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

瓶割山の山頂を主郭の一の郭とし、南西に二の郭、北西に三の郭、東に東郭が、それぞれ尾根上に伸びる構造となっている。一の郭は南北55m、東西65mの規模であり、その西面の南側端部に石垣が存在する。

登り口は、東近江市上平木御澤神社から、山頂までは約30分程度。城址へ。

主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の大石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

お城の歴史

長光寺城の戦いと瓶割り柴田

野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事記』が初出であり、事実ではないと見られている。

『武家事紀』によると、元亀元年(1570年)6月に六角義賢父子は長光寺城を囲んだ。義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取ったという。ここでは、これより勝家を俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。

この話は次第に尾ひれがつき、『常山紀談』では、六角側が水源を絶った後、平井甚助が和平の使者に立って城内に入った。対面の後手水を請うと、勝家は缸(かめ)に水を入れて小姓二人で担いで来させ、甚助が手洗いを済ませると、残った水を庭に捨てさせた。甚助が帰って城内には水が豊富だと報告し、六角側は困惑。勝家は最後の宴をして水を皆に飲ませると、缸を眉尖刀(なぎなた)の石突で砕き、夜明けに六角側を急襲して大敗させ、800余の首を上げた。信長は勝家に感状を与え、これより勝家を世に「缸砕り(かめわり)柴田」と称したとなっている。

「絵本太閤記」の瓶割り柴田

『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日(1570年6月24日)に六角軍は兵800余人の籠城した長光寺城を攻撃するが落ちず、六角側に多数の死者がでた。義賢は家老三雲新左衛門と図り、城中への水源を止めた。義賢は平井甚助を使者とし勝家に士卒の助命を条件に降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した。甚助が部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助は帰って城中には水が充分にあると報告した。一方、勝家は残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと、誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分水を飲ませると、もはや蓄えは無用と長刀の石突きで瓶を砕いた。6月3日早朝、勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人を討ち取り、義賢は石部城へ落ち延びた。信長は勝家を称えて手ずから感状を与え、これより世人は勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。鯰江城落城もその年で、実際には佐久間盛正・蒲生賢秀・丹羽秀長・柴田勝家によって落城。

シリーズ「淡海の城」(19)より

瓶割山城(かめわりやまじょう)(近江八幡市長光寺町・長福寺町・武佐町、東近江市上平木町)

 瓶割山城(長光寺城)は湖東平野に存在する独立丘陵である瓶割山(長光寺山)に位置する城郭遺跡です。山の名は元亀元年の六角勢の攻勢の折、この城に立て篭もった織田家の家臣、柴田勝家が城の中に備えた水瓶を割って士気を鼓舞し城を出て、戦いに勝利を収めたという故事に由来しています。勝家はこの戦いの後、「瓶割柴田」の異名をとったと言われていますが、実際にこのような戦いが起こったどうかは記録に残っていません。ただし、『信長公記』には「長光寺に柴田修理亮在城。」という記述があるので、実際に布陣はしていたと考えられます。

 発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していませんが、現在のところ山上部には、帯郭が周囲に構築された最大規模の郭(『蒲生郡誌』の図で本丸と命名)を中心として大小多くの郭が残存しています。「本丸」から北および東に延びる尾根上には郭が連接して郭が構築されています。北側の尾根上には縁辺に土塁が構築されている郭があります。東側に延びる尾根にも本丸よりも少し規模の小さい郭が北側尾根と同様に連接して構築されています。

 一方、南西へ伸びる尾根上では2箇所大規模な郭が構築されています。これらの郭は大規模な堀切によって区画されており、本丸と隣接する郭の間(『蒲生郡誌』では「二ノ丸」)は土橋で連絡されています。また、山上部の郭の各所には竪堀が配されています。山上部の郭には複数の石垣が構築されています。最も大規模なものは、本丸南西部に位置するもので比高差約6mを測ります。城内に見られる石垣は埋もれている部分が多く、『蒲生郡誌』に掲載された平面図には現在では確認できない石垣が書き込まれていることから、実際には石垣が他にも存在しているものと考えられます。この山上部に残る遺構以外に瓶割山山中には郭と考えられる遺構が残存しています。山麓東側には根小屋とされる土塁で区画された遺構が残ることから、瓶割山全体が城郭として使用されたものと考えられます。

 瓶割山城縄張図(振角卓哉氏作成)

二ノ丸南側の堀切・土橋

 本丸南西部の高石垣

 応仁の乱の際に「長光寺」に城を築いたという記録があることから、この時期に瓶割山城の歴史は始まったと考えられていますが、現在山上部に残る遺構は郭に高石垣が構築されていること、本丸、二ノ丸の南西部に枡形虎口とも解釈できる部分を持つことから柴田勝家の布陣によって構築されたものではないかと考えられます。もともとの長光寺城の遺構も取り込まれているかもしれませんが、はっきりしません。また、東に延びる尾根の南斜面には連続して小規模な郭が構築されている部分があり、城郭としては珍しい構造となっています。この付近には石仏・一石五輪塔が散在していること、山や麓の集落の「長光寺」という地名から、寺院に関連した遺構の可能性もあります。

 瓶割山城へは麓の近江八幡市長福寺町、東近江市上平木町から山頂に向かう山道があります。自動車利用の場合、御澤神社&草の根グランドに駐車。

 公共交通機関の場合、近江鉄道平田駅からは約20分で東近江市側の登山口、約30分程度で城址。

 瓶割山城では、平成20年度に東近江市側で里山森林と遺跡整備を兼ねた事業が実施され、山麓から山上部の遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。

注)山および城の名称は「長光寺「瓶割」の両方が用いられていますが、今回は行政上用いられる名称に拠りました。

御澤神社より北へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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