城郭探訪

yamaziro

五番領城 近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 平城

天満宮。城の北東隅にあたります。

お城のデータ

所在地:高島市安曇川町五番領字西良240

現 状::天満宮・信広寺・中村氏邸

遺 構::土塁・空堀

区 分::平城

築城期:室町期 応永2年・正平24年(1369)

築城者:山崎兵庫頭

目標地:天満宮

訪城日:2014.7.6

お城の概要

 五番領城は、安曇川南岸の平野部のなかにあります。高島郡を南北に走る街道と、安曇川沿いに朽木谷へ向かう街道の交差する場所にあり、交通上も重要なところにあったと思われます。

信広寺および天満宮一帯が城址とされています。『郡誌』の記述によれば、天満宮は兵庫頭により城の鬼門に守護神として祀られたということなので、天満宮が城の北東隅であると考えられます。また、信広寺の西方には「西良(にしら)」の小字が残っているということですが、『日本城郭大系』によれば「西堀」の字が「西浦」→「西良」と転じていったものとされています。寺の西側にはその堀跡と思しき、緩いカーブを描く耕作地があります。

角が2本共ありません!

天満宮の西側の耕作地。堀跡か。

お城の歴史

 高島七頭の1つ山崎氏の居城とされる。『高島郡誌』に、「応安二年(1369)佐々木氏の麾下山崎兵庫頭 此地を領有し 城郭を築きて」とある。山崎氏は他の七頭と異なり、同じ佐々木姓ではあるが、高島氏流ではなく愛知氏流とされる。
 元亀三年(1572)の織田信長の高島攻略により、五番領城の山崎氏も他の高島の諸城と同様、信長に屈服した。

応安2年・正平24年(1369年)山崎兵庫頭によって築かれたと云われる。 山崎氏は高島七頭の一人であるが、唯一西佐々木家の末裔ではなく、愛智氏系の一族である。

元亀年間(1570年~1573年)山崎左馬介が城主のときに織田信長の軍勢との戦いで兵火により焼失し廃城、子孫は帰農し中村と姓を改めた。

『日本城郭体系 11』によりますと、創築年代は「応安二年(正平二十四、一三六九)」、創建者は「山崎兵庫頭」、形式は「平城」です。

 城の歴史は「(中略)五番領城に関する唯一の文献ともいうべき『近江輿地志略』には「五番領村に在り。平城也。山崎兵庫頭居住の址なり」と記されているのみで五番領城が具体的に村の中のどういう所にあったのかは、今日までほとんど知られることはなかった。

 『高島郡志』にも城のことは書かれていても、その位置については触れられていない。ところが江戸中期から明治初年にかけての「五番領村絵図」(区有)をみると、その中に城の一部と推定される堀が描かれたものが二点ばかりあるのである。一つは享保十七年(一七三二)に五番領村が幕府の直轄地になった際に作られた絵図を、元文五年(一七四〇)に再度写して役所へ納めた時のもの。もう一つは、寛保三年(一七四三)に作られたものである。それによると、信広寺と中村新右衛門(現在、中村壬子三氏)の屋敷地の裏側に南北に細長い「西堀」があって、その堀はさらに東へ折れてL字形を呈している。この西堀は、江戸時代全般を通じて灌漑に利用されたと思われ、水をたたえていることがわかる。しかし西堀は、天保十三(一八四二))の絵図には載っておらず、おそらくその大半は土塁をもって埋め、寺域と屋敷地の拡張を江戸時代末期頃に行なったのであろう。とにかく、これらの絵図によって、五番領城は西堀と東側の道路とに挾まれた、信広寺・中村新右衛門および天満宮などの敷地一帯にあったものと推定される。したがって、五番領城は六〇m×六五mのやや南北に長い方形プランの平城であって、空堀跡をいれると七四m×七九mの規模を計ることができる。(後略)」とあります。

信広寺。

土塁

築山に残る五輪の塔

中村邸の水瓶

信広寺西側の耕作地。堀跡か。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、高島郡誌

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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