城郭探訪

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目加田城    近江国(秦荘)

2012年04月13日 | 平城

安土山があった目賀田城。本貫の地に戻り館を整備したのが目賀田城

目加田城

 お城のデータ

所在地:愛知郡泰荘町(旧秦荘町)目加田 map:http://yahoo.jp/KxWb0b

区 分:平城

現 状:目加田城跡公園

築 城:天正4年(1576年)

築城者:目賀田摂津之守貞政

初城主:目賀田摂津之守貞政遺 構:本丸・土塁・堀・門・堀(集落内)

城 域:100m×100m

目標地:目加田城跡公園・目加田公民館

訪城日:2010.9.20

お城の特徴

 安土山があった目賀田城から織田信長に従い、本貫の地に戻り館を整備したのが目賀田城

城といっても、じっさいは土塁と堀を巡らせた単郭の居館でした。現在、城址は公園として整備されており、分厚い土塁を見ることができます。また、本丸跡にあたる公民館前に石碑が立っています。

 目賀田城は、中世の典型的な方形の城館ですが、琵琶湖に注ぐ岩倉川を用いた水運を意識した城郭である。湖東平野の北東部、八尾山・高取山を源流とした岩倉川に隣接し、河川等の自然地形をうまく利用して築城されています。城館の特徴としては、現在は既に整地されていますが、城館北側の内湾部の存在があります。これは堀を経て岩倉川に通じる舟入(ふないり)と考えられており、河川を利用した水運が想定されております。

 目加田城は県下でも比較的類例の多い単純な方形構造を持つ平地城館です。現在の目加田集落が目加田城をその南西部分に取り込むように成立しており、ほぼ一町四方の城館主郭(しゅかく)内部においても今日、かなり宅地化が進んでいます。しかしながら、当城跡において残存する土塁は比高3mを有し、今回城址公園として整備を図る地区の遺存状態は良好と言えます。
  発掘調査では、目賀田城のの堀、土塁(どるい)、舟入り(ふな いり)が確認され、遺物として、緑釉(りょくゆう)陶器、室町時代後期の土師質土器皿、信楽焼すり鉢、瀬戸美濃焼平碗(ひらわん)などが出土しています。城が機能していたのは、主に戦国期頃であり、15世紀後半~16世紀の土器が出土しています。

 土塁は、幅約11~12m、高さ約2.9mの規模があります。堀は、本来は幅約7m程の規模であったと考えられます。深さは、最深部で約1.7m。廃城となった後、江戸時代中期頃から埋まり始めています。舟入りは堀を兼ねており、南北方向で約47mの規模があります。同様の縄張りは、周辺の城郭にも見ることができ、陸奥(りくおく)に立地しながらも、水運を意識した造りは、近江の特徴を良く表しています。

お城の歴史

目賀田氏は、藤原氏の出で鎌倉時代より御家人格として近江守護佐々木氏に仕えた。目賀田氏には分家も多く、周防岩国の吉川氏も目加田氏の出である。

『佐々木南北諸氏帳』には、

「愛知郡 目加田城主 佐々木旗頭隋一小倉源氏 元弘建文之乱四返筆頭 山岡目加田元龍ヶ鼻合戦野洲川一番備 目加田摂津守秀・同 越後守。佐々木隋兵 目加田文六、目加田伊予入道、目加田伯耆守、目加田女正。佐々木隋兵小倉源氏 岸本佐馬亮」と記す。 

 目加田氏は、戦国時代、観音寺城の支尾根の一つ(安土山)に支城目賀田城を築いて居城していた。(目賀田城があった支尾根は安土山)。 目賀田貞政は、天正4年に織田信長が安土築城の際、目賀田氏本貫の地に戻り、館を整備したのが目賀田城である。貞政の子堅政は織田信長に従った。

目加田城(愛荘町目加田) 戦国期、佐々木六角氏の重臣として活躍した目加田氏が築城したと伝えられる城館。

目加田堅政は、天正十年(1582)の本能寺の変において、目賀田氏は、他の多数の武士とともに明智光秀側についたため、豊臣秀吉の勘気(かんき)に触れに、知行を没収され一族は離散したとされ、城主の目賀田堅政は城の明渡しを命じられました。その後、慶長2年(1597)に目賀田城は廃城となりました。山崎の合戦で光秀が敗死すると堅政は浪人となり目賀田氏は滅亡した。

当地目加田は、メカタ姓発祥の地である。目賀田城が城としての機能を果たしていたのは、数十年の短い期間であった。

  

 

・・・現存している土塁。 ・・・現存している土塁。

 

  

・・・現存している土塁。

参考資料:滋賀県中世城郭分布、近江の城、淡海の城、滋賀県観光情報、愛知郡志、 

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