Can-Do List を作れという話があるらしい。
で、たぶん、リストの内容は、単語だったり、表現の数々だったり、場面設定の状況で、何々ができる、何々をする、というのが、ふつーの英語の先生が考えるこの類いのリスト項目だろうと、思ったりする。
でも、私は、こんなことをしていると、大事な物を見失うと思う。
今の生徒の学力があまりに低いから、たぶん、そのレベルの「底上げ」を図るために作成し、実行するように促されているのがこのリストだろうが、たぶん、この発想をする人は、申し訳ないけれど、数学が(少なくとも私より)出来ない人だ。
英語の先生は、特に、英語の達人のような先生は、非常に多く、数学ができない。
「英語を教えるのなら数学が出来なくても構わないじゃないか」とおっしゃるかもしれないが、そこんところはちょっと違う。
英語「だけ」がものすごくできる方は、たいてい、極端な語学の才能、言語学的な才能に恵まれて、どういうわけか「言語だけできる」のである。生徒でも、やたら英語は出来るのに数学がからきしダメだという生徒はよくいるから、先生や専門家だって同じだ。つまり、脳みその構造が、発想の仕方が極端に偏っているということだから、そんな人のやり方を平々凡々な人間に当てはめても、まあ、無理であろう。
私は、すらすら英語が頭に入ってきたわけでない。つまり、言語能力が高くて英語が(それなりに)できるようになったわけでは決してないから、特別な人の習得方法で誰でも英語ができるようになるとは決して思わない。それで、経験的に、出来ない人間ができるようになるためには、秘策?が必要なのだと思う。
ところが、この秘策?について述べているものはあまりない。
秘策?は、英語の基本中の基本だから、文法書などに載っているのは載っているのだが、たいていは軽んじられている。(場合によっては載ってない。)
言語は、特に、日本語話者が西洋語を学ぶには、めちゃくちゃな努力が、発想の転換が必要なのである。で、生徒を見ていても、そこんところが理解できるかどうかが岐路になる。
うん。
この壁を乗り越えない限り、まあ、決まり文句のホテルのレセプションの英語止まりだろう。
CAN-DOリストは、つまるところ、おそらくは、ホテルのレセプション英語を目指すところなのだろうな、と思ったりする。で、そういう英語を求めると、それ以上の英語能力はなかなか育たなくなる。「だって、英語しゃべれるから、これ以上、必要ない」が大半の反応である。
「うちの子は、小さい頃から英会話学校に行ってるから会話は出来るけれど、学校の英語の成績はてんでダメだ。」は、ちょっと頭の良い子の場合、実は、良くある話である。
で、たぶん、リストの内容は、単語だったり、表現の数々だったり、場面設定の状況で、何々ができる、何々をする、というのが、ふつーの英語の先生が考えるこの類いのリスト項目だろうと、思ったりする。
でも、私は、こんなことをしていると、大事な物を見失うと思う。
今の生徒の学力があまりに低いから、たぶん、そのレベルの「底上げ」を図るために作成し、実行するように促されているのがこのリストだろうが、たぶん、この発想をする人は、申し訳ないけれど、数学が(少なくとも私より)出来ない人だ。
英語の先生は、特に、英語の達人のような先生は、非常に多く、数学ができない。
「英語を教えるのなら数学が出来なくても構わないじゃないか」とおっしゃるかもしれないが、そこんところはちょっと違う。
英語「だけ」がものすごくできる方は、たいてい、極端な語学の才能、言語学的な才能に恵まれて、どういうわけか「言語だけできる」のである。生徒でも、やたら英語は出来るのに数学がからきしダメだという生徒はよくいるから、先生や専門家だって同じだ。つまり、脳みその構造が、発想の仕方が極端に偏っているということだから、そんな人のやり方を平々凡々な人間に当てはめても、まあ、無理であろう。
私は、すらすら英語が頭に入ってきたわけでない。つまり、言語能力が高くて英語が(それなりに)できるようになったわけでは決してないから、特別な人の習得方法で誰でも英語ができるようになるとは決して思わない。それで、経験的に、出来ない人間ができるようになるためには、秘策?が必要なのだと思う。
ところが、この秘策?について述べているものはあまりない。
秘策?は、英語の基本中の基本だから、文法書などに載っているのは載っているのだが、たいていは軽んじられている。(場合によっては載ってない。)
言語は、特に、日本語話者が西洋語を学ぶには、めちゃくちゃな努力が、発想の転換が必要なのである。で、生徒を見ていても、そこんところが理解できるかどうかが岐路になる。
うん。
この壁を乗り越えない限り、まあ、決まり文句のホテルのレセプションの英語止まりだろう。
CAN-DOリストは、つまるところ、おそらくは、ホテルのレセプション英語を目指すところなのだろうな、と思ったりする。で、そういう英語を求めると、それ以上の英語能力はなかなか育たなくなる。「だって、英語しゃべれるから、これ以上、必要ない」が大半の反応である。
「うちの子は、小さい頃から英会話学校に行ってるから会話は出来るけれど、学校の英語の成績はてんでダメだ。」は、ちょっと頭の良い子の場合、実は、良くある話である。










アハハハ。
と書いて思うんですが。いつもコメントする者が、おれとか50centさんばかり。ほり先生のブログを安売り用のワゴンに仕訳してしまうようで、申し訳ないです(50centさん、許せ)。だけど『わかって満足症候群』では、こちらのコメント直後に記事の内容に関心を持たれた方も現れたみたいです。おれの効果ありかもですよ、エヘン(大抵は逆効果・・・)。
気を取り直して。ここ一連の記事にコメントしたくてできなかったことあり、実をいうと。先生はときどき数学を対照にされますよね。この記事でも数学をあげられているので、その関連を述べやすい。
もともと「わかる」、「理解する」というのは、新しい事柄を主体の認識体系に繰り入れ豊かにしたり、それによって体系の枝を伸ばしたりすることですよね。そして大切に育てた体系が、根本から倒壊する出来事を「絶望」とか呼ぶのでしょうか。
この体系的な認識の方法は、数学的方法に同一だと思われます(watayan先生の出番ですが)。数学者にならなくても、数学が最良の訓練を与えてくれると思います。
その一方で英語の習得には、自分を指す場合は「I」とか「me」でいい、雪だったら「snow」、みたいな、認識の体系からは孤立(?)した知識も必要になります。そして体系をバラせば、やっぱり孤立した知識がバラまかれた状態になります。このバラバラな集合状態を、ほり先生は「羅列」とお呼びになったのではないですか?
Can-Do Listとは、目標をリストアップしたものですよね。文科省や指導要領がやってるはずなので、いまさらでしょうが、体系化を意図しない目標リストなんてほとんど無意味でしょう。一部の生徒以外、その羅列リストに基づく成長は望めそうにありません。認識の王道がベストでしょうか。
また体系化を意図するリストにも、あまり賛成できません。体系には、リストを強制して枝を払う行為ではなく、自由な繁殖が大切だと思うから。がんばってください、ぶっ倒れない程度に。(字余り)
英語の先生と話をするとき、数学の話を出すと、あまり好まれません。(経験談。)
というか、国語は国語、数学は数学、英語は英語、と言うとらえ方をされることがあります。でも、それでは、勉強はできません。本当のところは、教科の垣根を越えたところにあるからです。
>体系化を意図するリスト
文法は、まさにこれです。
文法は「自分の文法」を作ればそれでいいんです。ただ、初心者には、そのための「ヒント」を多少与えてやった方が良いだろうと思います。学校の文法は、その補助的なヒントです。