考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

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教えることと学ぶこと(補足したら長くなった)

2009年01月02日 | 教育
 教えることと学ぶことは、一般に、表裏一体、あるいは対であるとみなされるだろう。基盤にあるのは、「教える」「教えられる」という能動と受動の関係は常に同時に成立するという考え方である。つまり、誰かが誰かにものを教えれば、教えを受けた者は、自動的に教えを体得する、つまりは学ぶ、ということである。しかるに、人にものを教えた経験のある人なら誰でも思い当たるのが、人は教えられても必ずしも学ばぶわけでないという事実である。教員なら、ほら、授業であんなに一生懸命に教えたのに、試験をしたら全然できていなかった、である。ここでは「教える」と「教えられる」という態は、実質的に対となって機能していない。くどいようだが、人は教えられたからと言って実質的には学んだことにならないということである。即ち、教えることと学ぶことは、全く異質の別物であるということことだ。他に、「一を聞いて十を知る」という言葉を考えてみよう。聞いた内容は、きっと何らかの教えであろう。それで、ある言葉が存在するという事実そのものは、この言葉が示す内容が滅多にないからか、逆によくあることかのどちらかゆえだと思うが、この場合はおそらく前者であろう。それで、滅多にないことではあるものの、一教えたのにもかかわらず十を学び得たということは、これもまた、教えることと学ぶことが別物であることを示している。
 私が言いたいのは、教えることと学ぶことは、同じ座標軸に存在しないという事実である。両者は異次元の営みであるということで、「人が教えれば、人から教えられれば、教えを受けた人は学ぶことができる」という一般的な考え方は、真実から外れていると言うことである。

 昨今、教えることばかりが問題視されている。教員に対する研修などもそれである。この文脈で読み誤られると困るから書くが、この研修の目的が、教員に良い教授法やなんのかんのを学ばせることそのものを主眼としているはずがない。(当たり前だけど。)上記の一般論を鑑み、「教員がうまく教えられるようになれば生徒はよく学ぶようになる」と目論んだ手段として「研修」が位置づけられている。(教員は研修を受けても学ばない、と言いたいのではないからね、念のため。まあ、そういうことがあるかもしれないけど、私が言いたいのは、教員に学ぶ能力がないなら、教員に学ぶ力をつけさせることそのものが目的だというのではないからね、ということ。ことの本質を誤解しないでね。)子供が学ばないのは、教え方が悪いせいである、先生が良い先生であるならば、子供はもっとよく学ぶはずである、ゆえに、教員に十分な研修をさせ、教えるのが上手な、とにかく、先生として良い先生を作れば、子供はよりよく学ぶだろう、という考えが根底にあっての研修である。目的は、あくまでも、子供をよく教えれば、子供はよく学ぶ、という考え方から、教員に目を向け、質の高い教員の養成を求めるのである。
 
 ここまで書けば、もうおわかりいただけようが、良い教員を作れば子供はよく学ぶ、という考え方に全く欠けている概念がある。そう、「子供」という主体的存在そのものである。子供が主体として、どのような存在であるのか、あるいはあるべきか、という見方がすっかり抜け落ちて、教員にのみ目が行っているのである。よく教えれば学ぶ、つまり、よく教えられる、という能動と受動の考え方は、言い換えると、子供とは全く主体性のない受動的な存在であるという認識が「教員の質を高めれば子供はよく学ぶ」という教育観の根底にあるのだ。

 これって、ひどくない? だって、子供という存在の主体性を丸っきり無視してるのですよ。
 端的に言って、子供を信用していないのである。ぱっと見には、それこそ子供を大切にした考え方に間違われそうだが---だって、子供の周りに「テクニックだけでなく、子供の興味関心を引くことも含め、あらゆる点に関して教え上手だったり、人間的にも優れている良い先生」を置こうとしているのだから---、一皮めくれば、子供の学ぶ力、学び取る力を信用してないからできることなのである。

 間違われそうだから繰り返し書くが、いくら上手にわかりやすく教えようと好かれようと、子供は十分に学ぶことはできないのである。この事実を忘れてはいけない。
 ほら、あなた自身、小学校や中学校に通っていたとき、テストは100点でしたか? それで、あなたが100点が取れなかったのは、全て先生のせいですか? この問いに「そうだ、先生がもっと良ければ私は常に100点が取れた」と言い切ることができますか?---ということである。(←新年早々、穏やかじゃない問いだなぁ・苦笑)それで、「いや、もっと良い先生なら、100点じゃなくても、80点くらいは取れていたと思うよ。」とおっしゃるなら、まやかしがある。その20点の差が何だったか、ということである。20点は、自分の能力不足だったのか、努力不足だったのか。能力不足なら、努力は十分にしていたということだろう。それで、「能力不足」なら、どんなに良い先生であっても、無理な話である。だって、能力がないのだもの、そんなの、どうしようもないじゃない、取れっこないではないか。「努力不足」なら、たとえ良い先生でなかったとしても努力で補えば100点を取ったかもしれないと言うことで、取れなかったのは先生のせいではなく、自分が悪かっただけだという話になる。明らかに、先生のせいではない、ということだ。---と書いても、「私は実は60点しか取れなかった。しかし、まあ、100点は無理だったとしても、先生さえ教え上手であれば80点くらいはできたであろう」という反論で、「私には80点程度の能力があったはずだ。しかし、先生が悪かったせいで、私はあんなに努力をしたのに60点しか取れなかった」と理由付けをされそうである。この考え方は、一見もっともらしく聞こえる。しかし、それならば、良い先生だったら自分が取れたであろう点数が何故に80点だと言えるのか、である。なぜ、70点ではなく、90点でもなく、80点なのか、である。多分に考えられるのは、「80点」が自分が理想とする点だったのではないのかということだ。「100点は無理にしても、80点くらいは欲しかったなぁ」という願望が、80点という「現実の60点プラス理想の20点分」を生み出したのではないか。それで、実は、こういった考え方は、イマドキの生徒の考え方なのである。「自分が理想とする程度に自分の能力は必ず発揮できるはずである。もし、出来なかったとしたら、原因は自分にあるのではなく、先生や学習方法などの外的な環境要因にあるのだ。」という考え方である。だから、もっと良い先生はいないか、もっとうまいやり方があるのではないか、と自らの環境要因を疑って腰を据えて勉強に励むことがない。端的に言えば、かけるべき努力のないまま右往左往しているだけなのである。そのせいで、学力も何も身に付かないという現実があるのに、気が付かない。それで、外的な要因を求め続けて、運良く30点上がれば喜ぶ。最初から努力していれば60点上がっていたであろう可能性の存在を全く知らないのである。

 簡単に言っちゃうと、「一般論として、先生が教え上手で頑張れば頑張るほど、生徒は勉強をしなくなる」という逆説が成り立つのである。 
 不思議でしょ? でも、ホントなんですよ、これが。

 生徒に必要なのは、良い先生ではないのである。必要なのは、生徒自身が学ぼうとする力が何よりも大切なのである。昨今の問題は、子供の学ぶ力が恐ろしく低下していることなのである。学ぶ力のない子供の前に、どんなに良い先生を持ってきたとして、効果があるはずがない。馬の耳に念仏、というやつか。
 こう書いても、反論を抱く人はいるだろう。「だって、スポーツトレーナーでも、家庭教師でも、このコーチ、この先生だから、私は伸びた、と言う話があるではないか」と。これは、前者に関してはおそらく、プロのレベルか何かだろうから、既に学ぶ力を持ち得ているということである。後者は、あくまでも個人のレベルの話である。私が言いたいのは、集団として見た場合の「子供の学ぶ力」なのである。今の問題は、子供が全体的に学ぶ力を落としているということだろう。だから、全国的に学力低下だのという問題が浮上してきているのだ。集団と個の扱いは異なる。「一人だけ」の学力を伸ばすには、「良い先生」を目の前に持ってきて、やる気を出させる指導をし、学力を高めれば良い。しかし、マスとして学力がなくなっているときに、この方法は有効でないのだ。(これは、暮れに書いた記事に関わるかな。)
 
 大事なのは、生徒には「学ぶ力」をつけさせることなのだ。先生に教える力をつけるよりも、生徒そのものに目を向けて「学ぶ力の育成」を図った方が、どれほど効果的な学習が出来るか分からない。(で、ついでに言うと、学ぶ力がある生徒集団を教えるには、教える力が必然的に要求され、独りでに、先生の方もちゃんとやるようになるものである。研修よりずっと効果的であろう。)それが、子供の人生にどれだけ役に立つ真の力になるかわからない。なぜなら、「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。人生は誰に対しても眼前に開かれている。出来るのは、そこにいかにして能動的に対処するか、つまり、自分で自分の人生を能動的に引き受けることができるかである。子供の人生は全くの未知である。未知に対処するのは、こういった能動の力である。口を開けて人が何かを入れてくれるのを待っていたのでは、「何をやってもつまらない。もっと面白いことが他にあるのではないか。もっと自分に合ったものだって、他にあるのではないか」と、積極的に見えながら、実態的には「待ちの姿勢」でしかいられなくなるということになる。(「自分探し」も同じである。話はちょっと横に行くが、「面白さ」は自分の外にあるのではなく、実は自分自身の内部にしか見つけられないものだということに気が付かない不幸である。面白さであろうと何であろうと、あることを「面白い」と感じるのは自分だからだ。ついでに説明すると、「美しい花」も自分自身の中にしかない。「美しさ」が「花」の属性であるならば、花を見る者、人間であろうといかなる動物であろうとバクテリアであろうと、花は全てに「美しい」と感じさせるはずである。しかし、そのようなことは決してない。「動物がわかろうはずがない、バクテリアに美しさがわかるはずがない。ほりはアホだなぁ」と思った人がいるかもしれないが、同じ人間であっても、「美しさ」がわかる人とわからない人がいるのも実質的には同じ理屈なのである。と言うことは、美しさにしろ面白さにしろ、あるのは自分自分の中だということにならざるを得ない。私は能楽をものすごく面白いと思った。しかし、そのとき、そう思う人が少ないことを知った。ということは、面白さでも美しさでも何でも、主観は↑のようにしか考えようがないということである。)
 「教えられる」のように「~られる」という、言わば、受け身で待つ位置にいるのと、「学ぶ」という動的な位置に我が身を置くのとには雲泥の差があろう。学習、勉強は、そもそも受動的な性質を持つものである。それをもってして、更に受動的な態度を養っていて、一体、どんな人間が育っていくのだろうか。(お上の言うことだけを聞けばいい、という支配者層に都合の良い人間を作ろうとしているだけじゃないのか。そのくせ、ノーベル賞受賞者の数を云々、というのは矛盾も甚だしい。底辺が厚くないと上の方も伸びなくなるのは、スポーツの世界も学問の世界も同じである。)

 子供の「学ぶ力」をバカにするのは、もう、止めたらどうだ? 「イマドキの子はこうしてやらないと、しないから」と言って、懇切丁寧にやればやるほど、彼らは何も出来ない人間に育つだろう。

 ある禅宗のお坊さんが修行に出るとき、同じくお坊さんである父親が荷物の入った行李を用意してくれて言ったらしい。「行けば分かる。」父親は何も教えなかったらしいけど、教えなかったと言うことは、「学ぶ力」を試すことになるのではないのか。
 能楽の稽古でも、師匠は「真似をしろ」としか言わないのが普通である。教えない、ということである。「学ぶ」は、「まねぶ」「真似をする」から来ている。それで、否応なく、弟子は学ぶ力を身につけざるを得なくなる。だからこそ、弟子は師匠を超えることもできるのである。より多くを自ら学んだ者が伸びるのである。師匠がより良く教えたから弟子が伸びるのではない。
 こう考えると、日本には良い伝統があるわけだ。伝統、伝統というなら、こういった形にならない伝統を大事にした方がずっといいのにね。
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4 コメント

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今年もよろしくおねがいします (taketyann)
2009-01-04 14:28:43
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

以前、「客が飲み物をこぼしたら、黙って片付けるのがサービス業。子どもが牛乳をこぼしたら雑巾で後始末させるのが学校。」と書き込んだのを思い出しました。最近はサービスを向上すれば店は繁盛する、という理屈が教育界でも定説化してますので。


>昨今の問題は、子供の学ぶ力が恐ろしく低下していることなのである。学ぶ力のない子供の前に、どんなに良い先生を持ってきたとして、効果があるはずがない。

著名なスポーツ選手や劇団の主催者が教育関係の委員会等で自らの体験を元に発言していますが、非常に違和感を覚えます。だって、彼らが相手にしているのは学ぶ気満々で、おそらくは厳しい競争を勝ち抜いてきたような人物がほとんどのはずですから。

本来なら義務教育で半強制的に学校に通ってくる子どもを対象に、少なからず存在する意欲にかけた子をどうするか、という議論がなされてしかるべきでしょう。それが、教師の資質や技術の問題にすりかわってしまっている。


本来、どんな高級なレストランでも、客の食欲にまで責任は問われません。それが全て料理の味や接客の悪さのせいにされ、「料理がおいしければ、食べる気のない客も食べるはず」といった無茶を言われる。ここに悲劇があると思います。

「好き嫌いするな」とか「残さず食べなさい」と言うのは家庭の役目でしょうが、その機能が失われている現実がある以上、不本意ながら学校が「しっかり食べろ」と言わねばならない。(義務教育では特に)

でも、「しっかり食べろ」だけでは食欲が湧かないから、おいしく見せる工夫まで求められる。それが今の偽らざる現状です。(そういう子が高校生になって、迷惑かけてんだろうなあ…)恐らく今後もやり続けなければならないのでしょう。


私も今後、懇切丁寧は脱却していきたいと思う一方、「学ぶことの面白さ」や「知的な刺激」は授業に織り交ぜていけないかと模索中です。
というのも、以前高校で全く実験をしない化学など、酷い授業で教科が嫌いになった経験がありますので。

「もっといい授業なら100点がとれた」などとは言いません。(多分あまり変わらなかった)でも「もう二度と見たくもない」にはならずに済んだかな、とも思うのです。
「あのときは嫌いだったけど、もう一度食べてみよう」という気にさせるには、必要以上にまずく見せてはいけない。自戒もこめてそう考えています。

本年もどうぞよろしくお願いいたします (ほり(管理人))
2009-01-04 15:33:57
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

>本来なら義務教育で半強制的に学校に通ってくる子どもを対象に、少なからず存在する意欲にかけた子をどうするか、という議論がなされてしかるべきでしょう。それが、教師の資質や技術の問題にすりかわってしまっている。

この「すりかわり」に気が付かない現実があるんですよね。それで、ボタンの掛け違いのようなことが起こる。

>でも、「しっかり食べろ」だけでは食欲が湧かないから、おいしく見せる工夫まで求められる。それが今の偽らざる現状です。

義務教育の先生は大変です。世間がまず味方をしてくれないでしょうから、その影響で、いろいろまた。。。

以前、テレビで、食べることについては、自分たちで作った野菜を給食で食べるようにさせたら食べ残しが減った、などありました。
そこまでしないと、今の子はわからないのですね。田圃も畑も知らないから、想像力が働かないんですね。「お百姓さんのお陰です」なんて、想像できないのだろうな。(小さいとき、学校でもよく言われたものですが。)
ここには、「美味しい」「マズイ」の価値観はないんじゃないのかなと思ったりします。

>私も今後、懇切丁寧は脱却していきたいと思う一方、「学ぶことの面白さ」や「知的な刺激」は授業に織り交ぜていけないかと模索中です。

懇切丁寧と知的刺激は、どう言ったらいいかな、逆に作用するときがあったりもしますよね。
単なる思いつきですが(ホントに今思い付いただけなので)、「懇切丁寧」は「現在」に関わる仕業で、「知的刺激」「学ぶことの面白さ」は、時空の広がりにのっているんじゃないのかな?「基本はどこか、行き先はどこか」というような。それこそ、小学校の1,2,3が難しい理論物理学に通じるような。今やっていることが、何に繋がるかという未知を教えると子供は面白がるような気もしたり。。
広い空の向こうに何があるのか、とか、私は不思議でした。
まあ、今だとインターネットで「一応何でもわかる気分」にさせるから、だれだっけ?書いてましたが、ネットによる既視感が若者の行動力を失わせている。それと同様に、子供から学習意欲を削いでいるのかもしれません。

「既視感」も、考えてみると「現在」に関わることだから、うん、やはり子供には、「今、ここにないもの」という「未知」に目を向けて欲しいなと思います。
高校生も同じですね。
「先生はえらい」のさきにあるもの (heisan)
2009-01-04 18:22:56
注1)以下の<本文>の内容は、ブログheis.blog101.fc2.comになされた次のコメントへの返信を兼ねています。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-54.html#comment78

注2)以下の<本文>とほぼ同じ内容のものを、次の二カ所のURL内に記載します。
http://heis.blog101.fc2.com/blog-entry-55.html
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/d8064c0453cb0b75fcc9a591c51cefe4




<<<本文>>>

ほりさん、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

新年早々、コメントを頂け光栄にございます。


私は、私自身の解釈には、特段大きな誤解はないと存じております。

私が記事中で示した見解は、確かに「ほりさんが力説せんとされたところ」からは若干ずれている可能性はありますが、私はそれを「誤解」などとは呼びたくありません。

こういうのは、「誤解」ではなく、「相手の意図するところを読み解こうする試みから、図らずも、全然別の、新しい問題を発見し、それを解決していた」と言うのです。

新しい問題が日の目を見、それが解決されることは、これは人類の遺産(財産)に一つの、小さいけれども確実な、方便の一つを付け加えることですから、これは決して、無意味なことではありません。

(え? 無意味でなくても有害かもしれないって? ふむ、確かに否定はできませんね。しかし、有害かもしれないものを野放しにしておくことの公益は、計り知れないものがあると思いますよ。「推定有罪」がいかに無益であるかは、ほりさんご自身が実感なさっていることではないかとお察しします。)




ほりさんは、ご自身のブログにて

> 「学ぶ力」はいかなる環境をも選ばずに挑んでいける力だからである。

とお書きになっています。

私はこの「いかなる環境をも選ばずに」という部分が、とても大切なのではないかと思いました。

これはすなわち、「どんな先生に当たろうとも、文句一つ言わずにちゃんと生きていける力」のことです。

このことからは、

「先生にいいも悪いもない」
「いい先生も悪い先生もない」

ということが、言えそうな気がします。

実際、内田樹著『先生はえらい』は、そのことについて何百ページも割いて叙述されているのだと思いますし、内田氏やほりさんが何度も言及されている「大石先生」についても、事の本質は同根であるとお察し致します。

また私自身、この『先生はえらい』なる書物を、なんども首肯しながら読みましたし、自分のこれまでの行ないや考えてきたことに照らして不整合がないことを何度も確認しながら、実感しながら読みました。

また、かつその叙述がほりさんのおっしゃることと不整合がないこともまた、何度も確認しながら、実感しながら読みました。

はい。




さて、ここからが問題です。

私は、 そ の う え で 、「さて、ではいい先生とは何でしょうか?」と問うてみているのですね。

分かります?

いや、たぶんお分かりにならないのではないかと思います。

人によってはこれを、

「おい、いや、ちょっと待て、いま、良い先生も悪い先生もないって言ったばかりじゃねーか。」

とか

「おい、いや、ちょっと待て、それって、『先生はえらい?』の内容について、おまえ、全然理解してねーんじゃねーの?」

という風に切り返す御仁もさぞかしたくさんおられることでしょう。

それは承知しています。

承知していますよ。

承知しています。

しかし、それでもなお、やはり、私は、なんとなく、「そのうえで、では、いい先生とは何でしょうか?」と問いかけなければならない気がするのです。

気がするのだから仕方がない。

私のこの「気がする」に、ほりさんが共感されるかされないかは、私の知ったことではないです。

また、「おまえがそのような『気がする』のは、それはおまえが『分かってない』からだ。」と英断なさるのは自由です。

ただ、私自身は、「そのような判断からは、なにも生まれないのではないか」と案じております。




話を元に戻します。

「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」というのは、確かに、ほりさんの記事に対する解釈としては誤りなのかもしれませんが、
ほりさんの記事に私自身が勝手に触発されて、「教えるつもりで学ぶ者==>本当に学ぶ者」なる考えを発想したのだとすれば、これは誤解でもなんでもありません。

私は現に、「教えようとして学ぶ者はほんとうに学ぶことができる。」ということを、ほりさんの記事を読むことで、思いつく乃至は思い出すことができました。

また、私はその考えに着想を得て、

「子ども」に焦点を当て、「子どもの学び」について追求していった結果としての「先生はえらい」説



「先生」に焦点を当て、「先生自身の学びと成長」につい追求していった結果としての、「先生はえらい」説への懐疑

が、これは単に「扱っている主題の違いゆえの背馳」ということではなく、
もっときちんとした仕方で止揚可能であるのではないかということに思い至り、

「良い教師とはなんじゃらほい?」

という、この単純なしかしながら傍証の豊富さにおいては盤石の強さを誇るこの「先生はえらい」説への挑戦

を試みるに至ったのです。

(でありますからして、こういう背景をたどることなくなされる、私の「『先生はえらい』説への挑戦」の試みへの批判は、すべて無効であると考えております。)



確かに、ほりさんのおっしゃる通り、「先生はえらい」説、つまり、「良い先生かどうかということは、子どもの学びとはなんの関係もないことだ」とする説は、「教えるのが上手な先生、下手な先生」というような物言い自体を禁止します。

ほりさんがこの観点から、すなわち、「先生はえらい」説に立脚した視点から、

> 「「教えるのが上手」という言葉の意味を、「子ども自らが、誰かに教えるということを念頭に置いて学ぶようにし向ける教師は教えるのが上手」という風に理解するならOK。」ではありません。

という風におっしゃるのは理にかなっています。

がしかし、「私の言いたかったこと」「私が気づいたこと」はそこではなかったということを、どうかご理解いただければと思います。


さしあたっては言葉を尽くしたつもりでございますが、不足ないしは不明な点、お気づきの点があればいつでもご指摘くださいませ。



追伸:

唐突すぎて理解されないかもしれないけれど、実を言うと、
「Psyche氏のとある意見」と「madographos氏とほりさんのとある意見」の対立に対する止揚を私が書きしぶったことのツケが、ここに来ているのですね。

思いついておきながらそれを書いてみたりすることをせず放置するのは、これは怠惰と呼ばれるものでしょう。

やっぱり、思いついたことはすぐに書くべきであるなあとひしひしと感じます。

私の怠惰が、今回のような「小さな波乱」を呼び起こしてしまいましたことをどうかお許しくださいませ。




あ、これ、消さないでね。

消したら ○ンデレ認定くだします(笑
「先生はえらい」への挑戦は、陥りやすい落とし穴なんです (ほり(管理人))
2009-01-04 18:55:44
あくまでも「先生はえらい」のです。

heisanさん、ごめんね。
やっぱりコメント、控えて下さい。

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