考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

作業が目的化する陥穽

2009年06月05日 | 教育
 病院での話。ある患者は、鼻から管を入れて栄養補給をしていた。その際、服用する薬があれば、水に溶かしてそれ用の注射器で吸い込み、管から入れる。薬によっては水に溶けやすかったり溶けにくかったりするが、いずれも最後にもう一度注射器から水を入れる。これで、所定の作業が終わる。
 その際、どうやら、水に溶けにくい薬だったようだが、最後の水を入れた後にも注射器に結晶状の薬剤が残っていることがあったようだ。薬剤が残っているか否かは、どうやら看護師によるようだった。看護師がその薬が水に溶けにくいか溶けやすいかに気を遣って注入したかどうかの問題ということである。
 
 敷衍化すると、なんであれ作業の目的が何であるかを作業者がどれだけ理解し意識しているかということだ。
 上記の例で言うと、薬を注射器に残したままにした看護師は、手順通り行うことを目的化し、実際に薬が全て注入されたかどうかの確認をしていないということになる。そうでない看護師は、薬が溶けにくい物であることを意識して、薬を注入することが一連の作業の目的であることを意識して何か工夫をしたはずである。

 作業には、常に「目的」と「手順」が存在する。それで、作業には、今どきのとこだから、一般に「マニュアル」が想定されるだろう。それで、「マニュアル」の多くは、作業の手順、「こういうときには、このようにする」と言う記述になる。その際、「これこれしないように」あるいは、「これこれになるように」という文言が付いたり付かなかったりするかもしれない。これは、作業の注意事項であるが、「目的」に関わる内容である。
 
 で、思うのは、人は、一般に、自分のやっていることについての「目的」をどの程度意識しているのだろうか。意外に、意識してない人がおおいのではないのかしら? ということ。
 作業手順としての「マニュアル」が完備すればするほど、上記の意味の「目的」を意識しにくくなっていくことはないのかな?

 言い換えると、ある作業---仕事でも何でもいい---をするとき、人の目的が「作業をすること」そのものになってしまいがちでないのかということである。
 薬剤を残したままの看護師のように、「薬を注入する」のが目的だったのに、「水に薬を溶かして注入するという作業」が目的になった。だから、忠実に作業を行ったにもかかわらず、薬の全ては注入されず、「作業」が「作業の真の目的」を叶えなかったということだ。
 「作業の目的」が「作業をすることそのもの」になることはめったにないだろう。ゆえに、「何のためにその作業をするか」という目的に関わる思考が必要になる。というか、作業には、常に、「目的」が基盤(あるいは、高いところ)にある。
 私は、この「目的を認識する能力」って、かなり相当に重要であると思う。

 ただし、実際の生活において「目的」がよくわからずに行われる作業や手順も多い。それは、「目的」が深遠すぎて普通の思考法では理解し得ないものだったり、その方が広く大きく見て円滑に人が生きていける、という目的を内在させていることもあるだろう。伝統的な儀式にこの類があるかもしれない。それで、ときに、容易に理解し得ないから「非合理的だ」「効率が悪い」などの理由で作業や手順が改変される。それでうまくいくときもあろうが、一見うまくいったように見えながら他の部分になんらかの不都合が生じてきたりすることがある。目に見えない部分で、改変する前の作業や手順が、他の部分の不都合を妨げていたのである。これに気がつく場合と、直接的な因果関係が見いだせないせいで、--なんてたって、深遠な目的だったのだから--それでも気がつかない場合もあろう。

 上記の看護師の場合、どうやら、詳しく話を知る分に、--実は、出身看護学校をタマタマ知ったのだが--職業柄、「なるほど」と思ってしまった。(もちろん、黙っていたけど。)

 俗に言うような「アタマの良さ」に関わるのがこれだろうと思ってしまった。(以下、顰蹙ものだろうけど。)
 「学歴」がどうのこうのという話があるが、学歴が「アタマの良さ」などの能力と関わるなら、ある作業でも手順でもが示された場合、「どこまで読み取るか」が能力の差異に関わるだろう。能力が高ければ、「書いてないこと」も読み取る。何のためにある作業は最初に行い、ある作業を最後に行うか、などである。近頃は「地頭力」とも言うのかな? 学歴が重視されるとしたら、そういった能力を欲しているということであろう。一般的に言えば、学校の勉強ができる、できない、は、この能力と相関することが多いから。

 「マニュアル」は、能力が乏しい人でも失敗が起こらないように作業させるためのものであろう。本当に間違いを防ごうとするためには、マニュアルはどんどん細かくなる。しかし、細かいマニュアルを習得するには、これまた高い能力が必要になるだろう。学校の勉強でも、どんなに詳しい参考書が与えられたとしても、出来る奴は出来るが、出来ない奴はできないのと同じだろう。これは、マニュアルは詳しければ詳しいほど良い、というわけにもいかないことを意味する。

 (話がビミョウにあっち行ったりこっち来たりしてると思うが、)マニュアルを読むだけで仕事をする人間は、決してマニュアルを作ることができないと思う。マニュアル作りには、「何のためにそれをするか」という視点が必須だからだ。
 上記の看護師の例だと、薬剤を残した看護師はマニュアルを作れない。全部注入した看護師は、マニュアルを作ることができるだろうということだ。

 果たして、今の学校、塾でもなんでもの受験の指導でも、「マニュアル」を作る側になれる人材の育成に努めているだろうか。

 持って生まれた能力によって制限が起こることもあろうが、私は、余程でない限り、「マニュアルを作る側」の人材を育てるように努めた方が、社会は豊かになると思っている。しかし、それなりのレベルの生徒を長年教えていて、果たしてそうなのか、という疑問を常に持ち続けている。彼らはすぐに思考を停止する。

 「作業」をさせた方が、見た目の学力は確かに上がる。猛烈に上がる。(私は高校生の話をしている。小学校などでは作業はかなり重要だと思う。自分もドリル学習はやった。)しかし、高校生にもなって、先生から与えられた「ドリル学習」で学力をつけてどうなるというのだろう?という疑問は常に持っている。10代後半になったら、「マニュアル」を作る側に立てる人間を育てようとすべきだろうと思う。

 まあ、でも、ちょっと勉強が出来てちょっと良い大学に行って実社会に出てちょっと経験を積んで「オレは能力が高いんじゃないのか。これでいい、わかる。」と目に見えるもの、見えそうなもの、自分が理解できるもの、できそうなものが全てだと思い込む人間が増えるのも困る。(今は、こういう人の方が多いかな? これだけ進学率が高いからには人口的にかなりの割合を占めると思っている。--「オマエがそうだ」という声も聞こえそうだね。)

 いろいろ考えると、学校の勉強ってのは、結局「広い世界(世間とか日本、外国などの世界という限局された意味じゃないよ)には、自分に知らないことがあることを知る」のが究極の目的だろう。知ることを目的としたり、知ることそのものを喜びとするようでは、まだまだ足りない。そんな中途半端では、世の中が悪くなるような気がする。

10 コメント

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お久しぶりです。 (執事)
2009-06-06 01:42:56
マニュアルを作れるまでに育て上げるかどうかは、使う側の好みと、素材ごとにかかる手間によるでしょうね。
私はマニュアルを作れる(それは後進へ継承する能力でもあります)部下が好きですし、自分もそういう部下であろうと心掛けていますが、言われたことだけを「素早く」こなす絶対服従の手駒、が好きな人もいるでしょうし。

また、使う側(マニュアルを書く側)からすれば、手段が目的化して目的が果たせていない状況は、マニュアルの不備であり自分の失敗です。
本文の例に引けば、溶けにくい薬剤に関するページを増やせば、見た目上の差異はなくなります。
全ての人材を高い水準に引き上げる手間、それに失敗することで引き起こされるミスの危険性を考えると、問題の解決を人の側で全て行おうとすること、そこまではいかなくともそれを重視することは、単なる精神論と堕する恐れがあります。

まあ、言わずもがな、ですけどね。
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マニュアルとは所詮「概念」 (ほり(管理人))
2009-06-06 12:46:34
執事さん、お久しぶりです。コメントをありがとうございます。

ラインの作業のような仕事だと、一般に、マニュアル通りが重要でしょう。もちろん、マニュアルがしっかりとしたものである必要はありますが。

生半可な理解や理屈がホントは一番恐いものでしょうが、「完璧なマニュアル」なんて存在し得ません。
如何なるマニュアルも、「前提が何か」によるし、前提は、状況次第で、読む人次第で、コロコロ変わるものですから。

マニュアルは所詮「言葉」だから、概念という抽象の世界の産物に過ぎないわけです。
「伝統的な技」はマニュアル化できない。なぜなら、熟練者の「感覚」という具体の所産だから。
上記の看護師にしても、注射の中に薬剤が残っていることに気がつく「感覚」があったかなかったか。わかっていたのに、そのままになっていたのか、それとも、残っていることに全く気がつかなかったかで、捉え方が大きく変わるように思います。
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スタンスの再確認 (執事)
2009-06-07 02:25:33
ああ、そうですね。バイトや組み立てなど単純作業のマニュアルを念頭に置いてました。
医療や看護のように、専門性の高いものは全員が自分で判断できるようになるまで教育し、また個々人で勉強するべきでしょうね。
先のコメントをよりくだけた表現で言うと、よりよい手順を生み出し、それを皆で共有できたらいいよね、てなところです。
まだ仕事に慣れていない段階では、OJT(実地訓練)一辺倒よりも、マニュアルを併用して覚えていく方が速いでしょうし。

コメントするにあたっての私のスタンスですが、基本的にほりさんの意見に反対する気はありませんし、内容も理解しているつもりです。
納得し、面白いと思っているからこそ、コメントしているのですし、反対なら反対でもっとはっきり書きます。
ただ面白いとコメントを残すのも芸がないので、別の立場からの観点だったり、何かしらの気付きを提供できればいいな、と思って書いています。
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大事なのは、マニュアルだけじゃないということ (ほり(管理人))
2009-06-07 22:01:52
執事さん、コメントをありがとうございます。

>別の立場からの観点だったり、何かしらの気付きを

私の考えていることを敷衍化させたり、先の方向に発展させてくださるコメント、歓迎です。

>まだ仕事に慣れていない段階では、OJT(実地訓練)一辺倒よりも、マニュアルを併用して覚えていく方が速いでしょうし。

マニュアルを使うときに気をつけるべきことは、「マニュアルだけじゃない」ということだと思います。
あくまでも、マニュアルは「言葉」に過ぎないから、現実そのものを写し得ません。解釈する人が何を常識、当たり前だから、言うまでもないとするかなどの「前提」が共有されているなりしてないと、---もちろん、現場の状況も---マニュアルは機能しない。
でも、イマドキ、何かというとマニュアル、マニュアル、のようで、マニュアルを守ったから問題なかった、みたいな発言もちらほら聞くし、どうなのかなって。

「マニュアルに書いてない事項についてどうするか」という教育も必要じゃないのかな。それには、「なぜ、何のために、それをするのか、それがあるのか」の視点の認識は常に必要でしょう。

まあ、勉強の学習内容でも、理解が難しくて点差が付く問いなどがこれに関わるものですよね。

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合理的思考という信仰 (執事)
2009-06-09 17:31:54
業務の一般化のための道具でしかないマニュアルが、時間を経ることで一種の「聖典」となってしまうことが問題なのでしょうね。
合理的思考が「合理的思考という信仰」になってしまう。
そうした「合理的思考」を頑なに守ることによって、改善がなされなくなったり、特殊な状況への対応ができなくなる。

よりよいマニュアルを目指し、知識の共有を図り、適宜改正していく。
組織一体となってこれに取り組めるようであれば、マニュアル外の状況に自然と意識が向くようになるんじゃないかな、と思います。

一つ質問なのですが、ほりさんは、「マニュアルに書いてない事項についてどうするか」という教育とはどのようなものだと考えておられますか?

余談ですが「失敗の本質」という第二次世界大戦における日本軍の組織研究を行った本が、とても興味深かったです。
現代日本における組織にも共通する、「空気」によって物事が決まっていく様子がよく捉えられています。
組織における害悪が、外国から輸入した概念によるものか、日本的な体質によるものかを切り分けるために役立つかと思います。
割と古い本なので文庫になっていますし、よければぜひ。
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思考の短絡化 (ほり(管理人))
2009-06-09 20:51:51
執事さん、コメントをありがとうございます。

マニュアル一辺倒になる悪弊ですね。「マニュアルさえ守ればいい」みたいに。

ただ、日頃生徒を教えていると、これ、ありがちです。
「ああすれば、こうなる」「ああなら、こうする」の単純化、パターン化は、非常にわかりやすいからラクなんです。例題の解き方とかなんでも同じでしょう。
でも、そこに何か「異物」が入り込むと、やっかい。ちょっと応用になると、生徒が嫌がる。単純化できないからです。

これ、学校の勉強だけの問題ではないでしょう。生徒のときに、こういった思考でやっていて、社会に出て、社会に出たからといって複雑な思考が出来るようになると思えませんから。

「思考の省力化」は、エネルギー保全のための生きる知恵の一種なのかな。

「よいマニュアル」を目指すというのは、「何を持って良いマニュアルとするか」という問題に関わるでしょう。分厚い参考書で、みんなが勉強できるようになるわけでないのと同じですから。

>「マニュアルに書いてない事項についてどうするか」という教育

身体を使って面倒くさいことをさせるに尽きる。(笑)
身体を使うことは、意外に単純ではないから、様々な発見が生じたり、意識化できなくても、身体全体で理解してくれるものがあるんじゃないのかな。
「自分でやってみたら、わかる」は、マニュアルの持つ言語や概念といった特性とは全くべつものだから。

でも、「マニュアルに書いてあることだけ大事にする」には、別の意図があることがあるでしょうね。その作業内容の「真の目的」を明らかにしたくない、明らかになっては困るような場合だって、なきにしもあらず、かもしれません。何となく。
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Unknown (執事)
2009-06-11 00:12:56
>「思考の省力化」は、エネルギー保全のための生きる知恵の一種なのかな。

良くも悪くもそうなんでしょうね。獣に襲われた時に重要なのは「私は逃げるべきかどうか」ではなくてまず逃げること、とか、発音はしやすいように変わっていく、とか。
意識は行動した後に発生する、なんて話もありましたっけ。

身体を使う、ですか。そのことの意味が分かっていない人にやらせても、理解しないのではないでしょうかw

マニュアルを墨守するのは、組織内の集団の人間関係に波風を立てたくないから、というのが考えられますね。組織の使命(理想)は、しばしば現実と衝突するものです。それを通そうとするなら、他者とぶつからざるを得ない。けど、再就職がしにくく、職場内での立場を悪くするリスクが非常に高いため、よほど意志の強い人でないと難しいのですよね。

これは戦後に限った話ではなく、戦前からです(教育ばかりが原因ではない)。特に旧日本軍。指揮官や幕僚たちの人間関係を維持するため、何千何万の兵が犠牲になっています。問題は、もっと根深い「日本的」なものなのです。
うん、やっぱり「失敗の本質」お勧めです。しつこいですけどね。
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そうですねぇ。。 (ほり(管理人))
2009-06-12 00:20:29
執事さん、コメントをありがとうございます。

>身体を使う、ですか。そのことの意味が分かっていない人にやらせても、理解しないのではないでしょうかw

上っ面な理解が許されますから、というか、大方がそうだから、理解しない人の言が重視される、ということだと思います。

マニュアルは、よく言えば、人間関係を希薄化させる効用があるかも。これも、上っ面ですね。

執事さんには、以前から本の紹介をいただいているのに、全然、本が読めなくて、申し訳ないです。面白そうですね。

今読んでいるのは、鹿島茂の「勝つための論文の書き方」とかいうハウツー本ですが、鹿島さんは、「子供より古書が大事と思いたい」でしたっけ? あれ以来、面白いとおもってるので、読み始めましたが、鹿島さんらしくておもしろいわ。ははは。。
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Unknown (執事)
2009-06-13 01:01:06
科学技術や理論なども、広まるには十年以上かかったり、そもそも理解されなかったりしますからね。個々人で考え、また教えていくしか方法はないのかも知れません。

本のお勧めは、お気になさらず。書店で見かけた時に、聞いたことあるタイトルだな、と購入の一助になれば、それで十分です。私にしたって、読むべき本より、面白い本が優先ですしね。
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時間がかかる (ほり(管理人))
2009-06-13 16:34:07
執事さん、コメントをありがとうございます。

>科学技術や理論なども、広まるには十年以上かかったり、そもそも理解されなかったりしますからね。

日本人はこれでもお上に従順だと思うので、まあ、「長いものに巻かれろ」ですから、進めれば、結構早くないのかな。「禁煙」にしても、凄いスピードですね。
それでも意外に、学校教育が影響力をもってたり。内容によるのかもしれまぜんが、食事について、今の40代以上は「栄養が重要」と考えますが、30代以下?になると、「楽しく食べることが重要」だそうで。これは、家庭科の授業で教える内容が変化したからだそうで。
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