「わかりやすいから良い」「とてもわかりやすくて良かった」とまあ、「わかりやすさ」がもてはやされている。授業もわかりやすいと良い評価を受ける。「よくわかった」が最大の評価か。
授業評価は、授業が終わって直ぐに行われるから、「わかった」という気分が重視される。「この授業を聞いて自分は何が出来るようになったか」とか「自分のどこがどんな風に変化したか」は問われない。「評価」が単なる印象評になっているだけだ。
というわけで、先生は「生徒が(とにかく)わかるように」、生徒は「わかればそれで良い」とばかりの授業になる。
その結果、生徒は、授業はわかることが最大限に大事だと考えるようになった。で、授業を聞いて、「わかった」と思ったら、それで満足してしまう。
本来なら、「わかってからこそが本物の勉強だ」のはずなのに、そうならない。「わかる」のと「体得する」のは全く異なる次元の異なるプロセスを辿ることなのに、せっかくわかったことであってもそれ以上の習得を目指さないから、直ぐに忘れる。学習事項が上っ面になる。それでも、「わかった」という気分は味わっているから、ご本人たちは十分に満足している。「だって、わかったもの。」出来る、出来ないは関係ないのである。覚えているかどうかも関係がない。人の話を聞いて、「あ、聞いたことがある」となったら、「=覚えている」と解釈して、再生や再認が出来なくても、「知っている」ことになる。
しかし、これでは試験はできない。それでも、彼らは頑固に「わかっている」と思い込んでいるから、あえて、それ以上のことをする必要はない。そんな効率の悪いことはする必要がない、と思っている。
この先、日本の社会は、どうなるのだろう?
日本製の物品は、大丈夫なのだろうか?
と、ついつい心配になる私の気持ち、わかるよね。
根拠のない話ではないのですよ。
授業評価は、授業が終わって直ぐに行われるから、「わかった」という気分が重視される。「この授業を聞いて自分は何が出来るようになったか」とか「自分のどこがどんな風に変化したか」は問われない。「評価」が単なる印象評になっているだけだ。
というわけで、先生は「生徒が(とにかく)わかるように」、生徒は「わかればそれで良い」とばかりの授業になる。
その結果、生徒は、授業はわかることが最大限に大事だと考えるようになった。で、授業を聞いて、「わかった」と思ったら、それで満足してしまう。
本来なら、「わかってからこそが本物の勉強だ」のはずなのに、そうならない。「わかる」のと「体得する」のは全く異なる次元の異なるプロセスを辿ることなのに、せっかくわかったことであってもそれ以上の習得を目指さないから、直ぐに忘れる。学習事項が上っ面になる。それでも、「わかった」という気分は味わっているから、ご本人たちは十分に満足している。「だって、わかったもの。」出来る、出来ないは関係ないのである。覚えているかどうかも関係がない。人の話を聞いて、「あ、聞いたことがある」となったら、「=覚えている」と解釈して、再生や再認が出来なくても、「知っている」ことになる。
しかし、これでは試験はできない。それでも、彼らは頑固に「わかっている」と思い込んでいるから、あえて、それ以上のことをする必要はない。そんな効率の悪いことはする必要がない、と思っている。
この先、日本の社会は、どうなるのだろう?
日本製の物品は、大丈夫なのだろうか?
と、ついつい心配になる私の気持ち、わかるよね。
根拠のない話ではないのですよ。










うえの引用は代表的とみなした部分にすぎませんが。こうした”風潮”にたいしては、以前に内田樹先生も少し一般化させた形で警鐘をならされていたと記憶します。
こちらの高校時代とは、ずいぶん変わってきているのでしょうか。と申しますのは、これと定めた先生の授業をひとことも聞き漏らさない構えで、それこそ必死になって理解しようと努めたからです。「これと定めた先生」の部分に、ほり先生は眉をひそめておいででしょう。だけども当時の自分と数少なかったかも知れない仲間たちには、やむを得ない事情もあったのです。
「必死になって理解しようと努めた」理由は単純でした。自学自習しても理解が及ばない大きく大切な部分を、いつも裏切らず飛び越えさせてくれたからです。このあたりの事情は、ゴテゴテと細かなことばかり(受験技術)議論して、話題になっている問題の本質を掘り下げない、偉いかどうかわからない参考書の筆者や出版社にも原因があったでしょう。
しかし、それ以上に、上にふれた先生(たち)の授業は素晴らしかった。話題となる問題の本質を指摘し、あっという間に「わかりやすく」理解させてくれました。そんな先生に出会えた自分が、その授業とは関係なく、ご気楽にタクドラをしているのは、100%自分の選択によるものです。
さて、こうなりますと、授業の「わかりやすさ」に種類があるかもしれないと思えてきます。ひとつは、わかりたいと足掻きまくった上で得た理解と、その結果としての「わかりやすさ」。もうひとつは、別に理解したくもなかったのに、なんだか聞いていると使う言葉も平易で例も平易で練習問題も平易で、ときどき笑いを交えたりするので、スルスルっと理解できた気持ちになる「わかりやすさ」ですか。
このうち一方は、能動的な理解を通じた「わかりやすさ」。他方は、テレビのバラエティー番組で話題を理解するような「わかりやすさ」かな。
ただし当時の自分が、全体として、それほどの生徒ではなかったことだけは確かです。これじゃ、ほり先生と内田先生を理解したといえないかもしれませんね。残念です。
いかがお過ごしですか。お元気そうで何よりです。(←と決めつける。)
>このうち一方は、能動的な理解を通じた「わかりやすさ」。他方は、テレビのバラエティー番組で話題を理解するような「わかりやすさ」かな。
イマドキの「わかりやすさ」は、後者です。なるべき努力をしなくてもすらすらわかる、できる、容易さ。
でも、そんなんで出来るようになることなんてしれています。
わどさんがこれぞ感じる先生にたいして抱いた「わかりやすさ」は、「自学自習」と言う努力の上に培われたものでしょう。価値あることです。
でも、イマドキは、勉強をするのは「悪」なんですよ。内田先生がお書きになっているように、なるべく勉強をせずに、高学歴を得ることこそが価値あることになってしまった、まあ、勉強が「手段」でしかないわけです。だから、手段は手軽な方が良い、というわけです。
私は、誤った方法で勉強させられてきたイマドキの子に、勉強をさせる最良の方法は、知的好奇心をくすぐることだと思っています。「面白い」と思わせるのは、私の能力では難しいですが、英文を読み、書きすることに関しては、「わからない」ときにどんな風に読むとわかるか、書けるようになるかについては、ちょいと、一家言?を持ってるつもりなので、がんがん、教えてます。(笑)
「試験さえ出来れば良い」「赤点とらなければ良い」という奴らは興味関心を示しませんが、そうでなければ、けっこう、おもしろがりますよ。かなり、理路整然としているから。たぶん、生徒の評判は、悪くない(はず)。
>なるべく勉強をせずに、高学歴を得ることこそが価値あること
>勉強が「手段」でしかない
>手段は手軽な方が良い
こう書かれますと、嘯いて格好付けていた自分たちと同じです。恥ずかしい思い出ですが。テスト中の教室をバタバタと15分で出て行ったり(70点だったので大恥かきました)、解答をボールペンで書き込んだり、答案用紙にわざと大きく「裏へ→」と書いて採点に手間をかけさせたりと、散々な生徒を演じる悪童(たち)でした。後ろに席をとって、10時ごろに早弁とるのは日常茶飯事、必修科目でも気に入らない教師には、大声こそあげませんでしたが横向いたまま、揚げ足とって授業を混乱させる瞬間を虎視眈々と狙ったり。
まだまだありますが、悲しくなったでしょう。好きになった人に意識してもらいたくて、意地悪ばかり仕掛けた勘違い君とちょっと似ていたんじゃないかなあ。田舎者の思春期でした。
しかし、イマドキの生徒たち(の多く?)は本気なんですね。そこが驚きで、20%くらいは信じられません。第一、
>なるべく勉強をせずに、高学歴を得る
など不可能です。スキー場みたく雪山の頂上まで楽々に運んでくれる、ロープウエイもリフトもない、と書いて気が付きました。学習塾かあ!
公立高も、週一回の帰宅を除いて全寮制にしないとダメなのかな。離島を利用して、全寮制の高校を運営するケースをテレビで見ましたが。都会でやってみる高校はないのかな。
「知的好奇心をくすぐる」方法のご成功を、心よりお祈りいたします。皮肉じゃなく。ちょっと皮相的なコメントになりました、いつもですが。申し訳ありません。
外してたら・・・ごめんなさい。
しっつれいしましたぁ〜
う〜ん、イマドキの子は、若かりし日のわどさん&ご友人とは、ちょっと違うんです。
たぶん、その昔の生徒たちは、スノビッシュだったと思うんです。そこには、少なくとも、知的に優れていることは格好いい、みたいな感覚はあったと思うんです。でも、それを表に出すことを恥ずかしがる、みたいに。だから、ガリ勉したとしても、隠している、みたいな。
でも、イマドキの子は、知的に優れてることにたいすうる「あこがれ」がないんです。
かなり出来る生徒が「英語はわからなくて良いから点だけ欲しい」と言ったことがありました。この言葉に、「知性に対する憧憬」は、全くありません。
同じように、勉強にたいして真っ当に向き合っているわけではないけれど、両者の精神は、全く違うと思います。
勉強が出来ること、というか、物をたくさん知っているとか、高校生には難しい本を読む、問題が解ける、みたいなことに対する価値を認めない。逆に、試験にでもしないことを知っているのは(試験に出ないことに労力を掛けるヤツは)バカ、みたいな感じ。
労力をかけることをただただ厭うんです。
「知」とは、何であれ、難しいものに向かうときほど、「基本」が重要だと思います。体操選手でも、何のスポーツでも、一流とそうでない選手では、基本姿勢が全く違うみたいな面白さ。
そんなのを教えてやれたらいいなと思ってます。汎用性があるから、面白いと私は思っています。
正しい思考の方法は、ある意味、「パターン」です。でも、単なる「AならB」みたいなパターナリズムではない、極めて汎用性の高いものです。この習得は、けっこう難しい。徹底した訓練が必要だと私は思います。(スポーツと同じ。)だから、取得できた段階では、完全に、「自分のもの」になり得るので、応用が利きます。で、「忘恩」とは関係ないんじゃないのかな、と思います。