考えるのが好きだった

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政治の話題って

2012年06月21日 | 教育
 世の中の人はどうやら「政治」にけっこう関心があり、政治を好むようだ。だったら、世の中がもっと良くなって良さそうなのに決してそうならない。
 で、あることに気がついた。

 彼らが好んで話題にしたり関心を持ったりするのは、だれそれの政策やビジョンがどうのこうのという話題ではなく、人間関係、もっと言うと、勢力争いのあれこれなどの権力闘争であって、「今の世の中をどうしたら良くなるか」に関心があるのではないということである。つまり、「人気投票結果予想」の一種に過ぎない。
 その政策が国民や政党、党派でどのように受け取られ、どのように実践されるかには関心があるが、その政策などがもたらす効用その他に引きつけられるのではない。だから、、内田先生や他の真っ当な人たちが論じていることなど、てんで関心がないのである。その策が実質的に持つ意味とか役割などは関心を持てないのである。それより面白いのが、なんと言っても、「今度は誰が誰に勝つか」などである。(競馬の予想とかわりないのではないか。)
 
 なるほど、世の中が良くなるはずがない。
 
 この頃、「医者・病院もの」のテレビドラマも多い。その内容の実質は、これもまた権力闘争にかかわるものである。(白い巨塔なんて典型だったし。)だからこそ、誰にでも人気が出る。
 
 ある先生が生徒を指導する際に、「何よりも大事なのは人間関係だろ。」と諭していたが、危ないな、と思った。先生と生徒の関係を保つことは大事だが、人間関係そのものを第一に置く指導は危険であろう。変な意味での「和」を尊ぶことになりかねないからだ。目の前の人物の機嫌を取ることが、遠くにいる人たちーー未来の人も含めーーの幸せを損なうことだって大いにある。まあ、結局は、「とんでもない事故」を起こす引き金になりかねないからだ。おそらく、とんでもない事故の根源的な原因は、目の前にいる人たちとの人間関係を重視したことではないのかな、と思ったりする。

 なぜ人はこのように人間関係を尊ぶのか。(当たり前のことだけど。)
 古来人間は、か弱い存在として、多くの人が集まらないと生き残れず、人は力を合わせた。その成果が60億以上を計る人口である。しかし、「アリーナ」内の人間関係だけではゴジラの襲撃(@内田先生)を防げないのである。
 日本人は、人が増えすぎたせいで、ゴジラの存在をすっかり忘れてしまったのだろうと思った。

2 コメント

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まさに (ネコ型ろぼっと)
2012-07-02 13:04:29
はじめまして。
私も、ツイッターや書き込みで、人さまの意見を見るにつけ、「ああ、権力闘争」に興味があるだけなのね・・・そして投票するところも、勝つ可能性のあるところにしか目を向けないものなのか。。と、まさにお書きの事と同じようなことを考えていたところです。

結局、切羽詰った危機感を持つ人はまだまだ少ないということで、まずそこから知らせることが大事なのだと。「提言」等のチラシを配るより先に(というか同時に?)。
ということを、改めて思いました。

内田先生とは、内田樹さんのことでしょうか。たぶん。
この記事を、私のブログに掲載させてくださいませ。和を尊ぶことから生まれる危険性含めて同じ考えということで。(←文章ニガテ)

和を尊ぶことは人としての成長に繋がりますが、そこに留まってばかりでは、社会発展の妨げになる場合も多々あるし、主体的にもなりにくい。
習慣的にも人間、感情を優先して行動しがちなところが難しいですね。

ツイッターも、「知らせる」よい面と、「人間関係に追われる」悪い面があるように思います。
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ようこそ (ほり(管理人))
2012-07-04 00:28:57
ネコ型ろぼっとさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

内田先生はお察しのとおり内田樹先生です。

記事のご紹介をありがとうございます。
(太字部分はネコ型ロボットさん、と注を付けておいてくださいね♪)

政治を含め人間関係は相対的な問題です。対して、「今年は米が豊作だ」「熱中症で危ない」などは、実はゴジラの世界です。
政治は本当は、ゴジラの襲撃に備えるためのものだったはずなのに、どうしたものでしょうね。


原点に戻って欲しいものです。
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