「ひょっとしたら、これってあれと関係があるのではないのかな?」などという仮説を立てるのが好きである。正確に言えば、「仮説を立てる」より、「つい、思い付いてしまう」と言った方が良い。それで、思い付くと、そこから思索が始まる。正しいのか間違っているのかわからない。でも、それが何だというのだろう。
で、思い付いたことを言うと、「ほほう」と面白がる人と、「それって本当?」と訝しげな反応をする人が結構いる。で、ちなみに私の経験では後者が圧倒的に多い。
私としては、そんなの、本当かどうかわからないからこそ、「これってひょっとしたら、アレと関係があるんじゃないの?」と考え続けることが出来るのである。既にわかっていることだったら、わざわざ表明しなくていい。
この感覚は、わかる人にはわかると思うが、わからない人にはわからないような気がする。
わからない人は、アタマに留める価値があるのは「正しいこと」「本当のこと」だけだと思っているのだろう。実証されていないことなどは重要でないと思っているのだろう。
子供をある見方で見ると二通りに分かれる。(記事に書いたことがあるけど。)何でもいいから問題を出す。それで答えがわからないとき、早々に答えを聞きたがるタイプと、逆に、こちらが答えを教えようとしても「自分で考える。言っちゃダメ」と拒否するタイプである。
上記の「わからない人」は、子供で言うと前者であろう。「答え」という自明のものを得て安心するのであろう。「わからない」のは、ある意味で不安な状況である。
数学の問題を解くのもこれに似ている。正しいかどうかわからないまま、「この問題はひょっとしたら、こうしたら解けるんじゃないのかな」と最初に想定して解く。わかっていて解くのではない。近頃は何でも「対策」ばやりだから数学にしても「問題の解法」を暗記して問題を解くのが普通なのかもしれない。しかし、私が言ってるのは、そういうのではない。
幾何の証明などが典型だろう。それなりに「解法」はあろうが、補助線の引き方にしろ何にしろ、「これはまずこの三角形とこの三角形の合同を証明すると、なんとなく、これとこれが今度は相似になる証明になりそうだから、どうのこうの」と、行き先不明のまま、勝手に推論していかないことに話(というか、証明)が進まない。この段階では、「これは多分こういう風にすると解けるのではないか」という仮説でしかない。にもかかわらず、仮説のままで思考を続ける。答えに至れば仮説が正しかった、ということになるが、出来なければ方向転換を余儀なくされる。
このとき必要なのは「正しいかどうかわからない仮説のまま考え続ける」姿勢である。正しいと言うことがはっきりわかって考えるのではないというのが面白い。
ああ、そう言えば、問題を解いて果たして解けるかどうか、不安になったときだってあったなぁと思い出す。でも、その不安を乗り越えないと本当に考えることは出来ないと思う。否、「乗り越える」のではない。没頭して、不安が不安でなくならないと本当に考えることにならないということだ。これは、「勉強は、わかるから面白いのだ、知識を得るから面白いのだ」というのとは全く違う性質の面白さだ。
しかし、不思議なのは、「なぜ、思い付くのだろうか」と言うことである。これはもう本当に不思議でならない。自分で言っておきながら、なぜなのかを説明できないのだから。
数学にしても、なぜ解き方を思い付くのかわからない。最初思い付かなかったのが、勉強をしていくうちにひとりでに思い付くようになることが多い。(多かったと言うべきか。)しかし、「思い付く」のは意識の仕業ではないだろう。だって、わからない、思い付かないときはどんなに頑張っても本当に思い付かないのだから。
それでも、正しいかどうかもわからず考え続けることで、何か思考の回路がアタマの中に出来上がるのだろう。それで、こういった無意識的な過程に、具体的には「わからない状態に耐えて考え続けることに没頭すること」に価値を見いだすというか、まあ、とにかく、そういうことが実際にできる人とできない人に、人は分かれるのかもしれない。それが、わからないことを楽しめる人と、わかることで安心する人に分かれるのかもしれない。
私が徒然なるままに(って、そんなにヒマなわけではないんだけど・笑)よしなしことを書きつづるのも、「わからないから面白い面白さ」である。それで、疑問が次なる疑問を呼ぶ。疑問は今のところ、まだ絶えることがないようだ。(自分でもなんでこんなに書けるのかわからない。うん。ホント。)
で、思い付いたことを言うと、「ほほう」と面白がる人と、「それって本当?」と訝しげな反応をする人が結構いる。で、ちなみに私の経験では後者が圧倒的に多い。
私としては、そんなの、本当かどうかわからないからこそ、「これってひょっとしたら、アレと関係があるんじゃないの?」と考え続けることが出来るのである。既にわかっていることだったら、わざわざ表明しなくていい。
この感覚は、わかる人にはわかると思うが、わからない人にはわからないような気がする。
わからない人は、アタマに留める価値があるのは「正しいこと」「本当のこと」だけだと思っているのだろう。実証されていないことなどは重要でないと思っているのだろう。
子供をある見方で見ると二通りに分かれる。(記事に書いたことがあるけど。)何でもいいから問題を出す。それで答えがわからないとき、早々に答えを聞きたがるタイプと、逆に、こちらが答えを教えようとしても「自分で考える。言っちゃダメ」と拒否するタイプである。
上記の「わからない人」は、子供で言うと前者であろう。「答え」という自明のものを得て安心するのであろう。「わからない」のは、ある意味で不安な状況である。
数学の問題を解くのもこれに似ている。正しいかどうかわからないまま、「この問題はひょっとしたら、こうしたら解けるんじゃないのかな」と最初に想定して解く。わかっていて解くのではない。近頃は何でも「対策」ばやりだから数学にしても「問題の解法」を暗記して問題を解くのが普通なのかもしれない。しかし、私が言ってるのは、そういうのではない。
幾何の証明などが典型だろう。それなりに「解法」はあろうが、補助線の引き方にしろ何にしろ、「これはまずこの三角形とこの三角形の合同を証明すると、なんとなく、これとこれが今度は相似になる証明になりそうだから、どうのこうの」と、行き先不明のまま、勝手に推論していかないことに話(というか、証明)が進まない。この段階では、「これは多分こういう風にすると解けるのではないか」という仮説でしかない。にもかかわらず、仮説のままで思考を続ける。答えに至れば仮説が正しかった、ということになるが、出来なければ方向転換を余儀なくされる。
このとき必要なのは「正しいかどうかわからない仮説のまま考え続ける」姿勢である。正しいと言うことがはっきりわかって考えるのではないというのが面白い。
ああ、そう言えば、問題を解いて果たして解けるかどうか、不安になったときだってあったなぁと思い出す。でも、その不安を乗り越えないと本当に考えることは出来ないと思う。否、「乗り越える」のではない。没頭して、不安が不安でなくならないと本当に考えることにならないということだ。これは、「勉強は、わかるから面白いのだ、知識を得るから面白いのだ」というのとは全く違う性質の面白さだ。
しかし、不思議なのは、「なぜ、思い付くのだろうか」と言うことである。これはもう本当に不思議でならない。自分で言っておきながら、なぜなのかを説明できないのだから。
数学にしても、なぜ解き方を思い付くのかわからない。最初思い付かなかったのが、勉強をしていくうちにひとりでに思い付くようになることが多い。(多かったと言うべきか。)しかし、「思い付く」のは意識の仕業ではないだろう。だって、わからない、思い付かないときはどんなに頑張っても本当に思い付かないのだから。
それでも、正しいかどうかもわからず考え続けることで、何か思考の回路がアタマの中に出来上がるのだろう。それで、こういった無意識的な過程に、具体的には「わからない状態に耐えて考え続けることに没頭すること」に価値を見いだすというか、まあ、とにかく、そういうことが実際にできる人とできない人に、人は分かれるのかもしれない。それが、わからないことを楽しめる人と、わかることで安心する人に分かれるのかもしれない。
私が徒然なるままに(って、そんなにヒマなわけではないんだけど・笑)よしなしことを書きつづるのも、「わからないから面白い面白さ」である。それで、疑問が次なる疑問を呼ぶ。疑問は今のところ、まだ絶えることがないようだ。(自分でもなんでこんなに書けるのかわからない。うん。ホント。)
それは、点が並んでいるのを見て線を思い浮かべてしまうのと同じ理屈だと思います。
人間は、点の並びを見て線を 思 い つ く 。
仮説は幻影である。
だから、そう見えない人がいても不思議ではない。
教育とは、先人と同じ幻影が見えるように、子どもたちを誘導する営みである。
そのうち大半は、誘導によって、先人と同じ幻影が見えるようになる。
そのうち何人かは、いくら頑張ってみてもなかなか見えず、苦労する。
また別の何人かは、先人たちが見た幻影とは異なる幻影を 見 て し ま う と言って、教師たちに投げかける。
そのように訴えられた教師たちのほとんどはいぶかしむだろうが、そのようにして子どもたちが見た一部の幻影は、実際に、次世代の教育内容として取り入れられることもあるのである。
これがおそらく(人類の)進歩であろう。
私の疑問は、なぜ幻影を見るのか、ということです。
>人間は、点の並びを見て線を 思 い つ く 。
養老先生は、脳細胞の並び方でこの説明をしてますね。
まあ、「天才」は(どこかに書いてるけど)脳の中身を外界に取り出せる人でしょう。
脳細胞が集まって線になって並んでいることに気が付く人はいませんから。(養老先生が天才だという意味ではありません。点の繋がりを線と考え出した人たちです。)
>また別の何人かは、先人たちが見た幻影とは異なる幻影を 見 て し ま う と言って、教師たちに投げかける。
子供とは限りませんよ。子供でも、アタマの固い子供はたくさんいます。(その方が多い。)
大人でも異なる幻影を見る人は見ますから。これは、子供の時からの訓練がないと出来ないでしょう。で、訓練とは、最初から異なる幻影を見させようとすることではなく、先人の見るものを見せることでしかなし得ないでしょう。
「異なる幻影」でも、肯定できるものとできないものはあるでしょう。近頃は、それがごっちゃになってる気もしてます。(反抗的・笑)
それから、単なるコトバの問題ですが。私は「幻影」という用語を好みません。ヘンな意味での「妄想」を連想させるので。
それは、「なぜ人間は『分かる』ことができるのか」という問いと似てますね。
#この世の中でもっとも分からないことは、それが分かるということだという言葉を思い出しました。
いろいろな説明ができますね。
たとえばわたしたちが、2次元に過ぎない写真を見て、3次元的なものを見てしまうように。
経験知が、現在の知覚情報を補完している、というのはどうでしょうか。
> で、訓練とは、最初から異なる幻影を見させようとすることではなく、先人の見るものを見せることでしかなし得ないでしょう。
仰角ですね。
> 私は「幻影」という用語を好みません。ヘンな意味での「妄想」を連想させるので。
あら、そう? (私はなにも連想しませんが…。)
じゃあ、「幻想」のほうがいいかな。「共同幻想」という言葉にも通じるし。
でもなんかちょっと違う気がするな。幻想は3次元的、幻影は2次元的、というか。
本筋から外れることですが、ほりさんは、言葉のことを「コトバ」と片仮名で書かれますね。これはなんかこだわりがあるのでしょうか。それともなんとなくでしょうか。
> 生徒を見ていると、偏差値73位の壁だなと思う。75くらいあると大体は通じるかなぁ。
具体的すぎる数値ですね(笑)。
そんなに「偏差値による分類」が有効なのですか?(例外がどれくらい居るかがちょっと気になった。)
養老先生は、「脳に戻せ」で説明してますよね。身体無くして「考え」は存在し得ないわけで。
で、脳の中の構造をソトに出すことに通じる。お金が脳の信号とか。(で、意識的に出来るのが天才。)
私には、全てが根源的にこれに通じるというか、これ以外の説明はないような気がするけど。
heisanさんの「経験知が、現在の知覚情報を補完している、」も根源を遡ればここに至る。
>それともなんとなくでしょうか。
なんとなくです。(笑)自分で区別してるような気もするけど。「言葉」と変換されて出てきたとき、わざわざ「コトバ」に変えたりすることがあるから。めんどーだから、ま、いいか、と、そのままにしてるときもあるけど。
何か相違があるのかもしれません。(笑)
>具体的すぎる数値ですね(笑)。
「原因」と「目的」が区別できないと、英語の偏差値は50(48の壁)にならない。50を超えても、It is because とThat is why を間違えることはあるけど、でも、「あ、しまった」と気が付く。
「リンゴ蜜柑は果物」の程度の抽象化がわかるのは50台、でも、抽象の抽象は58を超えないと、60以上でないと読めない。
「48と58の壁」は模試業者が言ってたけど、私の現場感覚では上記の感じ。
論理的な文章構成を筆者の思考として読解できるのは、やっぱり、70くらいないと無理みたいね。70でもちょっと足りないかな。で、思考の流れを俯瞰しながら子細まで理解するのは(って、そこらの受験レベルの文章だけど。)、75くらいからかなぁ、それくらいないと読み切れないようです。
といか、ホントのところは、そういう理解がないとその点数は取れないと言うことです。で、勉強をして、それぞれの「壁」を乗り越えると、点は取れるようになる。
I studied English in the library yesterday.を、「私は昨日図書館で英語の勉強をした」を、具体的事例として飲み捉えているか、「主体者、行為、場所、時」と読み取っているかどうかの境目が成績の違いになる。これは「具体例」として出しただけだけど、小難しい文章においても、このような捉え方で読み取れるか。
筆者の言いたいことの観点が、ときに「主体者」だったり、時に「場所」だったりする違いに気が付くどうかです。それには、具体的に「私がどうのこうのした」と言うだけの情報の読み取りではできないのですよ。より抽象的な「主体者」とか「場所」などの上位概念での読み取りができないと全体はつかめない。で、これが出来る子は、少ないです。もちろん、これは簡単な例ですよ。でも、長い文章を、常に上位概念に照らし合わせながら、階層性で捉え、検討を加えて読むことは難しいみたい。逆に言えば、これが出来るようになれば、それなりの点は確実に取れるのです。
マジョリティの理解を得るのは、52くらい。「オンリーワン理論」がちょうどそれくらいに見える。「なんとなくもっともらしく論理的に見えるけど、正確には違う」というのに人は騙されやすいと言うことだと思う。
しかし、私の文章においては、「定義」に関わらない言葉は少ないなぁ。
「あの人の言葉遣いは美しい。」「言葉には言霊が宿る」なんて言うときの「言葉」は、絶対にカタカナ書きしない(と思うけど、少なくとも最近は)。
この区別も一種の「抽象化」に関わるかな。「分類」の一方法ですから。
学問とは、須く「分類」です。
> 言葉の「定義」に関わる意味合いが強いとき、「コトバ」とカタカナ書きにしているような気がしている。
> しかし、私の文章においては、「定義」に関わらない言葉は少ないなぁ。
> 「あの人の言葉遣いは美しい。」「言葉には言霊が宿る」なんて言うときの「言葉」は、絶対にカタカナ書きしない(と思うけど、少なくとも最近は)。
ほりさんのおっしゃる「コトバ」は、私の言葉で言うとそれは、「用語」(ターム)ですね。
正確を期するために「言葉」と「用語」を使い分ける必要のあるとき、私は「用語」という用語を用いますが、その必要のないときは、「言葉」と書いているのだと思います。「言葉」という言葉で、「用語」の意味を代用させているのだと思います。
たしかに、実際問題「用語」とか「ターム」にしようかなと思うときもあるのですが、なんとなくね、固くなり過ぎるような気にもなって、「コトバ」になっちゃったのだろうけど、かえってわかりにくいかな。
それは確かにあるかも。
でもぼくはどちらかというと、「用語」という用語を回避するのは、固いからというよりかはむしろ、音韻的な強烈性の少なさにあるんですよね。yougoだと、「養護」とか「擁護」なんかも同時に連想されうるけど、kotobaの場合はそういう心配がない。
> 「コトバ」になっちゃったのだろうけど、かえってわかりにくいかな。
ぼくが「コトバ」と片仮名表記しないのは、片仮名表記することはなんとなく言葉に対する冒涜のような気がするからなんですよね。大袈裟かもしれないけれど。「ちょwwおまえ、ふざけすぎだろww」みたいな(笑)。
別言すれば、それは、言葉の持つ言霊性を軽視しているように感じることから来る違和感なのかもしれない。
ま、主観的な好みの問題といっちゃえばそれまでなんですが。
片仮名表記する人口も現に一定数いるわけですし。
ああ、そういう見方もあるんですね。意外に共通してるかな。
このブログの記事の中でも、比較的?真面目に書いてる文章ではあまりカタカナ遣いはしてないつもりもありますが、実際はどうだろ?(調べる気ないけど。)
カタカナだと、ちょっとおふざけ的なムードも漂って来るような気もして、読みやすいかなとか。その意味では意図的かも。(笑)
なるほど。ふむふむ。