考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

ふつーの場合の思考の落とし穴

2009年11月13日 | 教育
 「AならBである」と言う思考法は、しばしば「AでないものはBでない」というように解釈されるようだ。
 「褒めて育てよ」というコトバは、しばしば「褒める」の逆の意味の「叱る」について陰に「叱るのは良くない」という考え方を生み、「叱ってはいけない(叱って育てるな)」と解釈される。それで、「褒めて育てよ」の掛け声の下、叱られることなく育った子供は、ちょっと言われただけで凹む。褒められないことが既に、「オレの存在を認めてない」ということにもなる。
 「英語は必要だ」は「英語以外は要らない」と解釈される。「この問題は大事だ」は「他の問題は大事でないからやらなくて良い」となる。まだまだいくらでもこの発想は日常的に見いだせる。
 「猫なら動物である」は、「猫でないものは動物ではない」と言うことになる。犬も人間も動物ではないことになって明らかに変である。にもかかわらず、多くの人は、なぜこのような思考の落とし穴にはまるのだろうか。

 中途半端な一般化能力が、このような思考法を生むような気もしている。中途半端な勉強をして、パターン的な思考法を取ると陥りやすくなるような気がする。今の子供、若い人の学習方法はほとんどがこういう類だから、余程でないと危ないなぁと思う。

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6 コメント

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なるほど (madographos)
2009-11-16 07:31:52
こんにちは。この話,なるほどと思い当たります。
いわゆる論理で言うreverse(裏)ですね。ある命題が真のとき,「裏」と「逆」は真とは限らない,対偶だけが真であるというのは,確か,中学か高校の数学か何かで習ったときに「へぇー,そうかぁ」と思った覚えがあります。
なかなか,実生活には学んだことが定着しないのでしょうね。
困惑する判断 (わど)
2009-11-16 09:22:45
日常的に「AならBだ」といわれ、また考えられている事柄のほとんどが迷信に近いからじゃないでしょうか。貧乏なら不幸だ、という判断もそうです。夏はいいのですが、寒くなって鼻をすすりだすころになると、正しいかも知れないなーっなんて身にしみて感じるようになります。
季節によって変わる判断なんて、怪しいのに決まってるじゃないですか! といいながら冷たい風には逆らえなくて・・・。何がいいたいのか、わからなくなってきましたので終わります。
学校の勉強は学校だけ (ほり(管理人))
2009-11-17 00:14:09
madographosさん、コメントをありがとうございます。

>いわゆる論理で言うreverse(裏)

ああ、そうですね。思い出せなくて、ありがとうございました。
対偶だと真になるし、どうだったっけ?と思いあぐねていました。

>なかなか,実生活には学んだことが定着しないのでしょうね。

この観点、とても示唆に富んでいるように思います。
人間は、持って生まれた思考が未熟だから、--つまり、「裏」も真だと捉えてしまう傾向があるからこそ、正しい思考法を身に付けるために学問を修めようとしたのかもしれませんね。

道は遠いようですね。(笑)
時代による違い (ほり(管理人))
2009-11-17 00:17:56
わどさん、コメントをありがとうございます。

国により文化により、時代によって、真なるものが異なりますね。
それでも、普遍としての真が何であるかを求めるのも一つだろうなと思ったりしてます。

寒くなりましたね。インフル、大丈夫ですか?学校は、今、どこでも大変です。
わかっていながらやってしまう (徒手空腹)
2009-11-17 18:49:08
AはBだからBじゃないとAじゃない、なんていう詐欺みたいな説明は、新聞でもしょちゅう見かけますね。あんなとこに勤めているくらいだから、頭はわるくないはずで、自分で書いててわかってるんでしょう。一体どんな顔で、記事にしてるのやろうと考えたら、自分も時々日常会話でやっていることを思い出しました。

私が高校生だったか中学生だったかの時に、小学校の算数から、「集合」の時間が削除されて驚いたのを覚えています。あれは大事で、中学生になって逆とか裏とか対偶をする前に、ほとんどの基礎ができたのに、何ということするんだと。あの時愚民化政策が始まったという疑いはまだ消えていません。(もっと前からかいな)

そんなんで、自分の子供が小学校のときに集合だけは、こそっと教えました。あとはクイズかな。

しかし、なんで学校で習ってもああいう誤りを犯すかというと、あれは言う側と受け取る側のお約束みたいなとこもあるんですよなあ。少々難ありの考えでも主張したい側と、とにかく他人からもっともらしいお墨付きの説明をもらいたい側の協力で成り立っているというか。

でなかったら「もりもり食べて痩せる方法」がこんなに流行ったりしませんもん。
遊離 (ほり(管理人))
2009-11-17 23:15:53
徒手空腹さん、コメントをありがとうございます。

「私は嘘つきだ」のパラドクスがあったりするから、「論理」といっても、まあ、きっと、完璧なものじゃないなのでしょうね。ふつーの人はそういった「うさんくささ」を無意識的に感じているのかな、と無責任に思ったりして。うさんくさいなら、自分の感覚にしたがったほうがましだ、とか。
対偶が常に真になるにしても、意味しているところが違います。で、だまされた気になったり。
思考上の「錯視」みたいなものなのかな。なんとかの矢の長さを見間違えるみたいに。

「集合」は、私は移行措置で小学校で学びました。親が当時小学校教員で、集合は難しい、など、言ってましたが、そうでもなかったから、変な気がしました。(ん? トシがばれますね。)

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