考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

人の話を聞く力

2012年02月14日 | 教育
 イマドキの生徒は、授業を聞き取れない。昔は、先生が大事だと言ったことを生徒は自分で聞き取ってメモしていた。でも、イマドキは、黒板に書いたことを写すだけでそれ以上のことをしない。だから、先生たちは、一生懸命にわかりやすく板書をする。板書ですべてがわかるようになる授業が「生徒の学力を付ける授業」だったりする。
 だから、板書は大事だ、と。

 でも、思う。
 生徒が板書しか写さないからなるべく板書を利用するとなると、その教科の学力はそれなりに付くだろう。しかし、人の話の要点を聞き取る能力は果たして養われるのだろうか。この能力を十分に身につけなかったら、彼らが社会に出たとき、彼ら自身も、それに、周りの人たちも、困ることにならないのだろうか。

 私は、謂わば「高校生を定点観測」をしているわけだが、親からもらった能力はさして変わらないと思うのに、聞き取る力は(「も」というべきか。)随分と落ちている。それなりに高い能力を持つ生徒たちであるにもかかわらず、この有様である。この先、十年後の社会であっても、どうなるのだろうか、と思う。

 板書で教えようとする指導は、ある意味、とても「理にかなっている」。実に、時代に即応した教育である。教育は、相手を見ながらなすべきものだ、という原則の通りである。
 しかし、教科の学力は付いたとして、「自分で聞く力」が培われずに「教育」と言えるのだろうか。教科指導の観点でだけ生徒の学力を述べて良いのだろうか。ただ手を掛け、生徒に合わせて学力を付けることは「目先の教育」にならないのだろうか。なるほど、定期試験や、やがては模擬試験で良い成績を取ることはできるだろう。しかし、社会に出てから重要な力は、確かに、学力もそうではあるが、たかが英単語の100や200、300や400を余計に学んだところで、もっと基本的な能力がなかったら、どうなるのだろう。また、学校時代に身につけずして、そうした根本的な能力は、一体、いつ培われるのだろう。
 学校の授業は、何のためにあるのだろう。

 と、つらつら思って、ほりは、「つまんない」「ねむくなる」「あまり板書をしない」、大昔さながら授業を続けるのである。(もちろん、その代わり、「自分で気づく重要性とその方法」は事あるごとに述べている。)
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