考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / ただし、何らかの明確な「答え」を求める方や、管理人と異なる思考法をされる方には大いに不満が募ることと拝察します。そのような場合は、どうぞ、お立ち去りください。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / 文章に誤字脱字が非常に多く、読みにくいところが多々あります。言葉の使い方が下手なところもたくさんあります。つまり、「悪文」が混ざっているので、かなり高い読解力が必要かもしれません。言葉尻を捉えるのではなく、「主旨」を読み取ってください。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / コメントは、受け付けていない時期がありました。コメントをされる際には、管理人の基本的な考え方をご理解の上、お願いします。 / 管理人からコメントを遠慮してくださいと言われた方は、コメントをしないでください。また、当然のことですが、ハンドルネームは同じものを使ってください。他人と間違えられやすいハンドルネームは使わないでください。/なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

職人芸基盤社会(@内田樹先生)の意味するところ

2012年04月16日 | 教育
 簡単に言うと、「身体性に立脚する社会」ということだと思いました。
 「身体性に立脚する」とは、人間、生きていくには「衣食住」が必ず必要になります。これは、どんな善人であっても、逆に心がけが悪い人であっても、また、アタマが良くても悪くても関係がない人間の実態です。この意味で、「職人さん」がすることは、「衣食住」にもろに関わります。職人さんの仕事は、基本的に人間の身体性を支える仕事です。
 「カラダ」は要求するものには限りがあります。職人芸は、これを満たしてくれます。この意味で、「ちょっとした要求を満たす」という観点で「小商い」と相通じるものがあるように感じます。「ちょっとした要求」とは、「宇宙旅行がしたい」とかいう大きな話を含みませんし、お金でお金を買うような仕事を含みません。儲けが1円の商品を1億個売るような薄利多売の商売ではありません。(小商いは、そこそこ儲からないと出来ないでしょう。)

 ここで、「職人芸と行っても、必ずしも身体性に関わらないものだって、あるじゃないか」と思ったあなたは、思考法が少々邪道です。(おそらく学校時代の成績はちょっとは良くても偏差値55かそこらであまり良いとは言えなかったでしょう。)
 何事にも、おそらく数学以外に「例外」は付きものです。「何が本質で何が例外事項に当たるか」をその場その場に応じて思考することが重要です。(ちなみに、こうした思考が上手にできるのが勉強ができる生徒、というか、力を伸ばす生徒です。)
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料理と勉強

2012年04月04日 | 教育
 料理と勉強には似ている面と異なる面がある。(何だってそうかもしれないが。)

 おいしい料理を作るためには、「ちょっと一手間掛ける」ことが大事だったりする。だしの取り方、素材の洗い方から切る工夫、何から何まで、ちょっとした工夫や扱いやタイミング、温度、時間の置き方が大事だったりする。
 プロフェッショナルの料理人の料理は、たとえ町の食堂であっても、同じ素材を使うにも「ちょっとした手間」を重視する。(店の格によっては「大変な手間」だったりもするだろうが。)たぶん、そうした手間を省いて料理するという行為そのものを理解しないだろう。自分にとってはあまりに、「当たり前」の手間で、その手間を掛けないことは料理と思わないだろうから。おいしい料理をこしらえて食べる人に喜んでもらいたいと思って作ろうとすると、どうしても、手間を掛けない、なんてことはあり得ない。客商売なら続かない。
 ところが、料理下手は、プロの料理人が重視する過程をすっ飛ばす。見た目が変わらなければそれで良しとする。あるいは、食えれば良しとする。
 「そこまでこだわらなくてもうまいよ。」
 「そこまで丁寧にするなんて、煩わしい。面倒じゃないか。」
とか何とか、言い訳をして手抜きをする。しかし、気や手を抜いた分だけ味が変わる。

  これは、まさに、勉強をする際に当てはまる。
 「そこまでやらなきゃいけないの?」
 「そんなことまで気にしなくても、テストはそれれなりにできる。○○大学なら、その程度で受かる。」
 ちゃんとした勉強、応用力に通じる勉強は、おいしい料理の作り方そのものである。いい加減にやれば、いい加減な料理しか出来ない。食えると言えば、それでも食える。試験は出来ると言えば、まあ、できるだろう。でも、直ぐに忘れたり、ちょっと難しくなるとできなくなったり、あまり役に立たない。

 しかし、料理と勉強には大きな違いがある。
 この違いが、ひょっとしたら、おいしい料理を作ることに関心を持つ人はけっこういそうなのに、ちゃんとした勉強に関心を持つ人が少ない理由ではないかと思ったりする。(というか、ちゃんとした勉強に関心を持つ人が私はあまりに少ない気がしている。)

 おいしい料理は、多くの場合、ストレートに人を喜ばせることができる。おいしい料理を食わせてもらって作った人に感謝しない人はいない。「うまい」とか「ごちそうさま」と言いたくなるものだ。これは、料理は直ぐに善し悪しがわかるから食べた人の反応が直ぐに作った自分に返ってくるということでもある。
 翻って勉強は、どんなに自分がわかるようになって、できるようになっても、おいしい料理のように他人様が喜んでくれるわけではない。試験なら自分の点が上がるだけだったり、自己満足で「わかった、うれしい」と思えるだけである。つまり、けっこう自己完結的だったりするんである。人間が社会的動物であることを思うと、他人の反応がない分動機付けが弱くなると言える。
 もっとも、本来の勉強は「人のためになる」ものである。が、遠い将来の話だ。たちどころに直に自分に跳ね返ってくる反応は残念ながらない。だから、勉強の成果に「実感」が伴わない。ゆえに、おいしい料理を作ろう、という動機付けほどの魅力はない。

 また、料理は、味覚・嗅覚に通じる。つまり、古い能、大脳辺縁系に影響を及ぼす。身体性に強く関わるんじゃないかと思う。しかし、勉強は新しい脳、前頭前野に強く関わるだろう。身体とはちょっと離れたものである。その分、実体験的な感覚としての実感が乏しい。たぶん、人間の大脳の新皮質はまだまだ進化の途上にあるのだ。(養老先生も書いている。)

 とまあ、こんな理由で、料理に関心を持つ人より、勉強に関心を持つ人が、まだまだ少ないのではないか、と思ったり、勉強が得意になりたかったら、料理上手のように、「ちょっとした手間」を大事にすると、必ずできるようになるだろうと思った。
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学校と実社会がくっつきすぎ!

2012年03月27日 | 教育
 立教大学の吉岡総長による大学院卒業式の式辞は、大学は徹底的に考えるところだということ、「考える」という営みは本質的に反時代的・反社会的な行為である、と言う内容だった。内田先生のtwitter by平川克美さんから知った。

 私の感想としては、「考える」という行為の反社会性は、何も大学や大学院に限ったものじゃない。本当に「考える」ということをしたら、小学生であろうと、中学生、高校生であろうと、同じだ。ただ、私が思うのは、「反社会的」というより「非・社会的な営為」と言った方が良いように思う。
 そのそのも、一般の実社会では「前提を疑って徹底的に考える」などという非効率的なことはしない。「前提をそのままに対処する、その対処法」は、かなり真剣に考えるだろう。しかし、「前提」を疑ったり再確認することはないから、徹底的に考える行為は、「非」社会的であると思うのだ。

 しかし、学校の勉強というものは、そもそも、間違えずに行おうと思ったら、自分自身の思考の前提が本当にそれで正しいかどうかを自ら疑い、さらに、徹底的に検証をするというプロセスを踏まないと、間違えてしまうものである。で、生徒は、これをしないから、間違える。「出来る子」というのは、こうした手順を踏んで学習に取り組む生徒である。

 ということは、世の中というのは、失礼な言い方だが、「元・出来る子」より「元・出来ない子」の集まりから出来ている。ということは、考えることについての訓練が不十分なままに人は世に出る。で、元来、「考えない」習慣で成り立っている社会に送り込まれるのが、また更に、考える訓練が十分でなかった人たちだから、考えるはずがない。
 しかも、これに追い打ちを掛けているのが、ここ数年来の「考えない子供たち」である。「ゆとり教育」の生徒たちは、「考える力」を身につけるための教育を受けてきたはずであるが、実のところは、学問的なことに関して考える力が非常に弱い。いわゆる世渡り的な「考える力」、その場巧く取り持つ力やプレゼンテーションの力はかつての世代より高いかもしれない。しかし、思考の根源になる力は、私はどう見ても弱いように思う。少なくとも、論理性に関して弱い。自分の趣味やその場限りの好みのような感覚的な判断力はあるだろうが、前提から論を構築してものごとを見極める力は弱い。あるいは、もの凄く偏狭だったりする。次元と言う言葉を使うと、非常に低いというか、何というか。
 時代がこんなのだから、大学の先生が、しかも、大学院ではじめて「考える」ということが問題になるのだろう、と逆説的に思う。小学校から、きちんと順序よく考える習慣を身につけた上で上級学校に進学していたら、何も、あえて大学院でこんなことを発言しなくて良いはずだ。いかに、「学校」が「考えること」を行わない場所になってしまったか、という証左のようにさえ思う。

 今の学校教育は、とにかく、「考えさせない」教育を施している。
 と書くと、やれ、ディベートだと小論だのの指導が、授業を双方向的にすべきだ、など、(あえて書くが)「見当はずれ」の発言が幅を来たし、ますます、考えることが阻害される。
 「考える」というのは、ちょっと友達同士で議論すれば身に付くような代物ではない。どこからか、マスコミでも、口コミでもなんでも、人さまの口から出た言葉をつぎはぎすればできることではない。学校のちょっとした勉強であっても、「考える」ことはとても難しい。でも、それをどこかで身体化して体得しなければ、学習事項は身に付かないのである。(だから、たいていの人は正しく身につけないまま卒業をする。)

 と、だらだら書いても仕方がない。
 小学校から1+1の計算から、「あいうえお」から、もっと丁寧にきちんと学習すると、「考える」力も、身に付く。
 面倒になったから端折るけれど、ま、そんなものだと思う。

 きちんと学習をすれば、時間はかかっても、だれでも、きちんと出来るようになる。それを端折って「効率よく」身につけようとするから、身に付くものも身に付かない。どこかの体操の指導者が言っていた。オリンピック選手の卵を育てている人だった。正しい方法で行えば、誰でもできるようになる。ただ、子供によっては時間がかかるだけだ、と言っていた。サーカスの人も、運動神経が特別良いわけではないらしい。子供の時からの訓練などで、育っていく。何か、そんなところが関係するのではないか。でも、今の学校の勉強のやり方は、違う方向を向いているのだろう。オリンピック選手やサーカスには「決して通用しない」やり方に違いないと、私は感じてやまない。

 なぜ、そうなってしまったかって?

 学校に実社会の価値観が入り込んできたからに他ならない。
 教育は、学校は今のままではだめだ、と言われ続けた。批判の根底には、一般社会における価値判断で練られた対策がある。しかし、そのあげくの結果がこうだったということだ。

 と、近年の高校生および学校の様子を見て、つくづく思うのであります。
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「学ぶ力」の欠如と育成

2012年03月22日 | 教育
 内田先生の「教育の奇跡」で誤解を招くことになるのではないかと私が感じることがある。それは、「『教卓のこちら側』にいれば、それだけで役割を果たすことができる」というラカンの言説が、「言うべきではなかった」ことだったというところだ。
 これを読者に正しく理解してもらうには、教育には、そもそも、舞台表と舞台裏の双方からの見方があるという前提を明言しないと、どうしても、誤解を生むことになると思う。「教師が教卓の後ろに立っているだけで良いとは、自分自身の努力を放棄しているのではないか。何事だ!」という批判と非難を受けてしまうだろうということだ。
 教育に関する議論で食い違いが生じるのは、大半が「舞台面」と「舞台裏」をごっちゃにして論じるからだ。「舞台」には教師が立ち、見るのは子供だが、教師と子供の双方が存在する「舞台面」で重要なのは、「子供」である。「子供はどうあるべきか」が大事なのである。非常に間違えやすいのだが、「教師がどうあるべきか」では、断じて、ない。理由は、教育の目的たる対象は「子供」であって、決して教師ではないからだ。「教師」は子供の教育のための「手段」に過ぎない。「教師がどうあるべきか」という手段が目的化しているのが、つまり、舞台裏に関わる話が舞台面に出てしまったことが、近年の教育に関する議論の混迷を生んでいるのだ。
 舞台面にいる子供は舞台裏を知ってはならない。内田先生は、こうした「舞台面」の事実を議論している。が、かなりの人は「賛成しかねる」と思うだろう。理由は、ほとんど皆がこれを「舞台裏」の「教師のあり方」として読むゆえである。
 舞台面と舞台裏では、全くと言って良いくらいの「逆のこと」や、それこそ、トリガーが何かわからないような「ぜんぜん関係のないこと」が起こっている。でも、それがふつーである。私は経験的に思う。

 話は少々飛ぶが、今の教育不全の最大の問題は、とにかく、子供たちが学ばなくなったことである。自分たちは舞台面にいて舞台裏の教師とは全く別個の立ち位置にいること、つまりは自身が学ぶべき存在であると言うことを子供は忘れ、学ぶことを放棄していることである。内田先生はその原因を市場経済主義に置く。私も正しいと思う。しかし、正直言って、現場の人間としては、原因は何だって構わない。だけれど、大事なのは、とにかく、子供たちに「学ぶ」体験や経験を復活させなければならないことだと感じるのだ。
 
 しかし、私が不思議に思うのは、これを誰も具体的に論じないことだ。現場に近いほど、論じない。

 「学ぶ」とは体験することで、自分自身に何らかの変化が訪れることだ。そのために不可欠なものがあるだろう。私は、それは心を動かすことだと思っている。しかし、この努力は、教師、生徒双方でないがしろにされている。かすかな復権の萌芽があるとしたら、「銀の匙」の授業が話題になった事情だろうか。しかし、特定の学校の、しかも、大変に優秀な学校の生徒だからこそできたと考えられていないだろうか。

 私は、こうした学ぶ姿勢の育成は、どんな能力の持ち主であっても「学校」という場にいる限り可能ではないかと思う。私は比較的優秀な部類の生徒を教えているが、単なる大学進学目的だけで学習にいそしんできた生徒も、「おもしろさ」に気づかさせてやると、全く違う反応を示す。

 教師は、生徒の知性をもっと信じてやれば良いと思う。「難しすぎる」「この子たちには、こうした反復的な学習が適している」など、もちろん、一面の真実はあろうが、決してそれがすべてではない。一見出来の悪い生徒であっても、これまでのやり方や考え方が間違っていることを教えてやると、多少時間はかかっても、やがてはわかってくるものだと思っている。100%変わることは考えなくても良い。ただ、彼らが変わるだろうという見込みだけは心にかけておくと互いに気持ちよく、楽しく授業ができるように思う。それが、私は、子供たちの「学ぶ力」をはぐくむものだと思っている。
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大文字の認識が大事なワケ

2012年03月18日 | 教育
 私見である。
 英文をぱっと見たとき、大文字が目に入ってくることって、とっても大事だと思う。そもそも、大文字は「はっきりわかる」ことを目的にしているようだ。(と、ぐぐって、知った。)事実、私は経験的に、本を開けば大文字がぱっと目に入る。
 と、何でこんな「当たり前」のことを書くかというと、近頃大文字小文字の区別が軽視されているように感じるからだ。「外国人」である我々が英語を勉強しようとする限り、大文字小文字の弁別、区別の意識付けは非常に重要だと思うのに、生徒は、いい加減である。文の途中であっても、HeやIf、Itなど特定の語を大文字で書いて、全く、気にしない。気にならない様子だからだ。これで大量の英文を読むことは出来ない(厳密には、非常にしにくい)と思う。

 大文字がぱっと目に入ってくると良いことがある。
 一つは、文頭がどれかすぐに理解できることだ。
 これは相当に重要だと思う。「次の文がここから始まる」ことを知らせてくれるのが大文字である。ピリオドで文末は示せるが、ピリオドはちっぽけな点に過ぎないから存在感が薄かろう。ならば、「大文字」である。でかでかと存在感をアピールすることで文頭を示す。これは単なる「偶然」ではない。おそらく英語では、その必然性がある。この点で日本語と好対照をなす。
 古文をみるとわかるが、仮名交じり文なんぞは、そもそも英語のピリオドに当たる句点すらない。日本語は、おそらく、言葉をつないで、とにかく直線的に読んでいけば助詞の助けで意味が取れる。(ホント、「助詞」だね・笑)ところは、英語は、助詞がないから文意を取るために、「語順」が重要になる。この観点で、日本語と英語は「文」の読み取り方が全く異なる。英語において「順序」が大事なら、「どこから文がスタートするのか」という「文頭」に注意を向ける必要が重要であろう。これが、英文の始まりが人の目を引く大文字で始めるようになった理由ではないかと思う。

 もう一つ、英語で大文字が使われるのは固有名詞である。固有名詞を大文字で始めるというのも、やはり重要性の一つとしての特殊性を鑑みてのことではないかと思う。変わった綴りがあったとして、普通名詞ではないことを示す必要があるだろうし、また、motherも、myやtheなどが付かなかったら、固有名詞化したものとして大文字を使ったMotherの表記になる。大文字を用いることで同じmotherであっても特別な「特定のmother」であることを示すというわけだ。
 この大文字表記の陰には、私は定冠詞theとの関わりがあると想像する。通常、固有名詞にtheを付けることをしない。私見だが、おそらく、「大文字」にtheの延長線上にあるような機能が含まれるのではないかと思うのだ。
 病気を表現する場合、通常はtheを付けない。病気とは、空中に得体も知れず漂っている捉えにくいもの、という認識からである。(これは、「aとtheの底力」という本で知った。)よって、choleraにはtheが付かない。ところがcholeraが流行病になると、「ほら、あなたも知っているあの恐ろしいコレラ」というイメージでtheが付く。同様な考え方でインフルエンザは、なんと言っても「流行性感冒」だから常にthe fluと表記される。(ここまでは本の受け売り。)theには、こうした「他でもない、あの〜」というイメージはあるわけだ。よって、固有名詞という「それしかない存在」を表記するには、敢えて「他でもない、あの〜」の意味のtheを付けるとおかしなことになってしまう。the motherにtheが付くのは他のmotherと区別するためだという前提を取ると、もし、「アンさん」をthe Ann/ann と言うと、他にAnn/annが存在するという変なことになる。それでは困る。Annは「アンさん」ただ一人だからだ。この意味で、Annという大文字表記はMotherと同じ感覚なのである。これは、「大文字」を使った特殊性、唯一無二であることを示す理由にならないだろうか。私はこれで十分に説明が付くと考える(だって、整合性があるもの。)が、いかがだろう? 
 もちろん、同じ固有名詞でも海や川にはtheが付く。これは、前述の本にあるが、「そのすべては見えないもの」の一部分を指すための「ほら、あの〜」のtheである。(the Tone River は、利根川の上流から河口まですべてを見渡せるわけでないから、「あなたが知っている(範囲の)〜」という意味でtheが付く。逆に言うとtheを付けることによって、川が遠いところから発症し、遠いところに流れ行くものだということを暗示するのである。)the Smiths(スミス家の人たち) は、Smiths(アカの他人の複数のスミスさんの集団)との区別である。「あの(つまり、特定の)スミスさんたち」である。

 で、実は、ここからが言いたかったことだが、イマドキの生徒が大文字小文字の区別を明確にしない書字は、上で述べた英語の本質と相反するわけだから、彼らは決して本質的な英語の理解に到達しないのではないか、と危惧するのである。現に音読をさせると、文の切れ目関係無しに読む生徒がいる。こうした生徒には書字に問題を抱える生徒が多い。こうした生徒はどんなに単語を意味だけで覚えても、道は遥か遠いだろう。
 非常に多くの生徒が持っている「綴りのアルファベットの順番さえ出来ていれば良い」という考え方は大きな間違いである。(ま、そもそも、文字の書き方が変な生徒は出来が悪いことが非常に多い。)
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政治的な正しさ

2012年03月16日 | 教育
先日の内田先生のツイッター

>政治的に正しい社会って、最高ですね!(^^)/

どういう文脈かよくわからない(と言った方が良いだろう)が、政治とはそもそも「人間関係」だから、人間関係が正しく、日常的表現では「うまく行く」のはすばらしいことである。
しかし、この人間関係というのは、「どの範囲内か」というのがけっこう難しかったりするのではないのかなと思ったりする。
目の前にいる人だけなのか、もっと見えないところにいる人も含めてなのか。
未来の社会の構成員も含めるのか。(←教育ってのは、そもそもそういうものだろうから。)
このあたりで「政治的な正しさ」についての見解は、けっこう分かれてくるのではないかと思う。ある人にとっての「正しさ」はそうでない人の不正になるだろうな。

と、当たり前のことを思った。
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最先端

2012年03月13日 | 教育
 私は学校英文法に関して時代の最先端を行っているらしい。(自分でもそんな気がするけど。)

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問題集

2012年03月11日 | 教育
 問題集を作っている。(だれか本にして。)
 とても、それこそホントにinterestingだが、けっこう苦しい。具体的な問題を作るのも難しいが(今までストックしてきたわけでないし。)、これは、時間が掛かるというだけの問題である。
 それよりむしろ、自分が何をどのように考えてきたかを掘り下げるのが難しいのである。無意識的にやってきたことを意識化する難しさかもしれない。でも、「気がつく」と、大きな発見であるように思ったりする。
 文科系の「発見」とは、無意識に知っていることの意識化なのだろうな。
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学年別の指導

2012年03月10日 | 教育
 こんなだと、「使いこなせる英語の習得」という観点でけっこう効果的に勉強出来るようになると思っている。まあ、やってくれればの話。今はこんな風にやってないから、ついつい書いてしまう。(笑)

1年生・・・徹底的に授業重視。教科書の表現、単語等を含め、全部覚える(努力をさせる)。習得すべき事項にえり好みさせない。全部覚えきれるわけがなくても構わない。(というか、「全部出来る」という幻想を取り除かせるのは早いほうが良い。)
      文章読解(論の流れ)の基本を捉えさせる。(3年生まで、すっと。)
      英文は主語+動詞の重要性、動詞の用法に目を向けさせる。
      構文集を持たせ、例文を覚えさせる。というか、英語の勉強では文を意識することが大事だという認識を持たせる。(なかなか覚えない。)
2年生・・・ライティングの授業を大事にする。文法問題をさせてお茶を濁すのではなく、教科書の例文を構文集の文と関連させて覚えさせ、作文は必ず板書させて、自分が書いた英文を自分の力でどのように添削していくかを具体的に教える。英作文を丸暗記で終わらせない。
      自由英作文を書かせる。文法的に正しい文を書かせることが目的と言うより、文章の論の展開を意識させることが目的。(読解に通じるから。)
      昔は、2年生は速読の指導がけっこう重要だと思っていたが、今の生徒は基礎力がぜんぜん足りないから、早期の速読指導は読解の悪いクセを付けそうな気がする。(だいだい、中三の教科書だって、きちんと理解できてない生徒が多いのに、速読は無理。)
      2年3学期くらいに頻出問題集、読解用の自主教材を持たせる。
3年生・・・センターも気になるが、センター練習は春は小出し。夏休みからトレーニング。
      通常の指導は徹底的に二次対策というか、記述問題ができるように、1・2年生の延長で読解の基本に立ち返る読み方を指導する。センターに振り回されない。
      単語集を持たせる。

 そもそも、受験だ何だ言って出来ないのは、高校1年の教科書、文法の副読本のテキストを習得していないから出来ないだけの話である。1年生から単語集を持たせるのは愚の骨頂。
 もう一つ。
 上記を「遅れている」とおっしゃる方もお見えだと思うが、英語はどんな英語であっても主語と動詞で出来ている。この認識がない限り、英語は上達しない。今の生徒ができないのは(理由は多々あるが)、出来ない生徒はとにかく主語+動詞の認識が足りないからである。(だから、覚えたことを使えないのである。)
 口語英語の欠点は、you're も、yourも同じになること(など)である。で、間違えて、わからない、となる。theyも、they'reも、theirも、thereも、themも区別しない生徒は意外に結構存在する。(一応、聞いて知ってはいるが、意外に、いざとなると、間違える。)だって、耳で聞けば日本人の耳には全部「ぜ(ぁ)」だもん。それで、区別しろ、というのは土台無理である。易しい旧帝大合格してしまう子でも、us とour で間違える。
 近年、所有格と目的格をごっちゃにする生徒が多い。私は理由はわからない。
 形容詞と名詞をごっちゃにする生徒も多いが、これは、中学で国語の口語文法をきちんと習ってないからではないかと疑っている。
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形態だけが新しい授業

2012年03月08日 | 教育
 「英語の授業が英語で」など、授業を変えることが推奨されているようだ。若い先生が頑張って、本人も受けたことがない積極的な活動が豊富な授業を行った。形態的には新しい授業である。
 「良い授業」だと言えば言える。生徒も活発である。定期試験も、おそらく彼らは(それなりに勉強をすれば)出来るだろう。
 
 しかし、と思ってしまった。
 
 やっている内容は、文法項目に関わる事項の予習プリント、内容読解、それも主としてQandAに関わる読解である。新しい物は何もないのである。見方を変えると、活動が重視されているせいで、生徒が間違えやすいところなどの教授がおろそかになっている。唯一新しいのが「やり方」だけだというものだ。

 疑問に思った。新しいカリキュラムは、授業形態が変わることをだけを求めているのだろうか。それとも、教えるべき内容を変えようとしているのだろうか。(どっちも同じだという人は、論外。また、活動することそのものを求めているのはわかるが、活動すれば英語ができるようになるというのはおそらく違う。だって、今の中学英語がそうである。しかし、中学生の英語は力が落ちている。)
 「他になにがあるんだ? 新しい口語表現か?」とおっしゃる人が多いだろう。が、私は、教えるべきことは5年10年経てば死語になる表現でもなく、教えるべきことは他に大いにあるのではないかと思うのだ。「聞く」「話す」という純粋の技能は表層的なものである。「何を聞く」「何を話すのか」「どう聞くのか」「どう話すのか」は教えられていない。言葉だけを聞き、言葉だけで話すことではない。(あー、ここんところは表現が難しい。)
 念のため書くが、「どう聞く」「どう話す」というのは、発音がどうとか、身振り手振りがどうのという話ではない。具体的な語彙的な表現ではない。そうではなく、「発話」に至る思考の根源に関わるものである。

 実は、長年授業をしてきて、非常に多くの授業者が問題にしていないのが、意外に、読みにしろ聞くことにしろ、書くことにせよ話すことにせよ、根源に位置する思考の方法ではないかと思っている。ほとんど全く教えられていないと思うのだ。というか、教えられていても、非常に甘い、と言うべきか。
 最も教えにくい部分ではないかと思ったりもする。しかし、本当のところはこれ抜きに勉強は成り立たないだろう。

 その部分を教えられないか、と思うのが私の課題である。
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