日本の翻訳を比較してみよう
わが国では戯曲「ハムレット」は、明治時代以後に13の翻訳がなされている。本論では5訳を取り上げる。
三神勲(シェ-クスピア全集Ⅰ) 筑摩書房昭和39年。
福田恒在 新潮文庫、 昭和42年。
小田島雄志 白水社、 1983年
野島秀雄訳 岩波文庫、 2002。
大場建治 研究社出版 2004
坪内逍遥 ザ・シェイクスピア 第三書館 1989年
福田と野島はウイルソン稿を基本とし、Q1,F1は参考として用いたと明記し、小田島、三神は何を原本として翻訳したかか記載していない。ト書きなどの内容から三神は、ウイルソン稿を翻訳したものと思われる。大場氏はF1を使用したと記している。小田島氏は、全ては会話・独白・傍白で語られているとする立場から、ト書きの多いD.ウイルソン稿を嫌っている。
Q2を彼の訳と比較すれば、D.ウイルソンには拠らずQ2そのものを基としている可能性がある。しかしQ2、F1にも傍白(aside)の指定はされていない。彼は何を自らの訳の原本としたのだろうか?
翻訳であるのだから、翻訳者はどの稿を用いたのかを最低限、読者に明らかにするべきだ。
「小田島雄志のシェイクスピア遊学」(白水社,1982年。以後「遊学」と略記する)においても、何を翻訳したのか記載はない。さまざまなハムレット稿本があるのだから、何を元としたのかについて、シェイクスピア学者で、東大教授である小田島氏は一言の言及があるべきだ。
用いられた稿本により翻訳は変わる。翻訳の一つでしか王子ハムレットに接することのない普通の読者に、劇ハムレットのすばらしさを「理解」しろ、といっても土台無理ではないだろうか?ハムレットという戯曲、ハムレットという「人間」に対する評価は、百人が百人異なるという「謎」に満ちた作品と人物であってみれば、特にそういえる。
翻訳者は「私の翻訳した“ハムレット”はD.ウイルソンの1934年の稿本による」、としなければならない。読者の感想は「D.ウイルソンの福田訳を読んでの感想」でなければならない。その上で何がすばらしいのかを語ることができる。
福田は、翻訳ハムレットでは、美しさの90%以上を失うとしている。戯曲ハムレットは、散文でなく韻文(詩語)で書かれているからだ。しかし福田が100%原語の韻文が理解できるか疑問だ。周知の如く、シェイクスピアの戯曲には掛詞、駄洒落、地口落ちが多く、特にハムレットにはそれが多いとされる。このため劇ハムレットには現代英語訳(インターネットで検索のこと。Hamlet textで容易に得ることが出来る.またQ2、Q1も検索して求めることができる)がある。母国語が英語である人にも現代訳が必要なシェイクスピアの韻文を、非ネイティブ(non-native)な福田が100%の鑑賞ができようもない。
「美しさ」の観点からすれば、翻訳では90%落ちるが、原文では95%は理解不能と考えて良い。非ネイティブの我々には、詩語の美しさを100%理解するのは永遠にできないだろう。
D.ウイルソンのQ2にも長い註(note)と「ハムレット辞書(glossary)」がついている。現代英国人にとってもハムレットを正確に、エリザベス朝英語で読み理解するのは困難だ。
とすると,翻訳本でしか接する機会の無い我々の読むハムレットとは、一体何だろか?翻訳とはなんだろうか?さらにハムレットだけの問題なのか、戯曲一般に言えるのか?美しさの90%を失った残りの10%でしかない糟を「名作」と崇めているのか?
ハムレットを享受できるのは、英語を母国語とし、しかも「教養」のある人間だけの特権と、言い切ってしまえばそれまでである。
註) CD(Anton Lesserによる)でハムレットを聞くことが出来る。また幸せな事にBDでブラナーの映画ハムレットは画面つきで、シェイクスピアを「聞く」ことができる。英詩の「美しさ」を味わうことは不可能にせよ、詩文劇はこのようなものかと知る事は可能だ。
註) Q1は安西徹雄訳で紀伊国屋書店から出されている。WEBで原稿を見る事ができる。現代訳はないので理解するのは困難である。Q2,F1に比して内容は、極めて「薄い」。翻訳が悪いというより元が悪いと考える。
訳者のハムレット観
こうして様々な劇ハムレットが日本語訳でも誕生する。
福田は、王子ハムレットを「演戯する人間」という前提から見る(演出家 福田の観点)が、これが何を意味しているのか。彼の文章はよくわからない(良く出来た文章に誤魔化されてはならない)。
小田島氏は「ありあまる動機がありながら、非行動という型の行動に留まったリ、理性的裏づけがないままに、感情に駆られて我を忘れて激情的行動に出てしまう」人間への共感であり、それを理解できないのは近代リアリズム劇に慣らされた「読者」が悪いとなる。ハムレットの言動を「バラの香」のように直接感じとるのが、ハムレットに対する正当な接し方であるという(「遊学」)。
二人に共通しているのは、リアリズム劇の「害毒」にたいする反発ではないか。
しかし、これは無理な注文である。我々はエリザベス時代に生きているのではない。心理的に合理的とされる現代を生きているのだから、近代リアリズム劇を基本とした「接し方」しか本来できないのだ。また行き過ぎた反リアリズムが、大きな害毒を流しているのが現在ではないのか。
非英語圏の人間にとって、90%の美しさを喪失した「翻訳」を読んで、「バラの香り」を愉しむ訳にはいかない。楽しめとする小田島らシェイクスピアの泰斗の言は、そのままでは受け取れない。碩学D.ウイルソンでさえ、過剰なト書きを書き加え、彼の思うシェイクスピアの「意図する」ハムレットを細かく設定している。状況をト書きで設定しなければ、現代人(英国の)にも理解不能と判断したからであろう。
野島は現実と非現実との間を揺れ動く、近代相対主義に陥った人間としてハムレットを理解する。
どの解釈が妥当かは判断できない。全てが誤っている可能性もある(筆者はそう思う)。
D.ウイルソン校訂は、小田島氏や野島が記すように、行き過ぎの感がある。細かく設定されるだけ、我々の「読む楽しみ」は方向付けされて窮屈となる。しかし20世紀にハムレットが生きるためには、D.ウイルソン校訂は受けねばならぬ解釈だ。
それを楽しめれば良いが、D.ウイルソンの考が誤な点もある(と言われる)から事はややこしい。