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虎が雨

2014年05月27日 04時37分52秒 | 伝承・伝説


虎が雨とは・・・
陰暦5月28日に降る雨。
この日曽我祐成が斬り死にし、それを悲しんだ愛人の虎御前(とらごぜん)の涙が雨となったといわれております。
曽我の雨。虎が涙。《季 仲夏》「寝白粉香にたちにけり―/草城」

仲夏
虎が涙/虎が涙雨/曾我の雨は、陰暦の五月二十八日に降る雨のこと。
曾我兄弟の兄、十郎が新田忠常に切り殺されことを、愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言伝えに由来します。

しんみりと虎が雨夜の咄かな  路通 「秋しぐれ」
 妹殊に哀がりけり虎が雨 嘯山 「葎亭句集」
 川留めの伊東どのやな虎が雨 太祗 「太祇句選後篇」
 恋もなき草刈共や虎が雨  石井露月 「露月句集」

曾我兄弟の仇討ち
 虎御前が涙を流す元となった曾我十郎はその弟曾我五郎と共に父親の仇を討った「曾我兄弟の仇討ち」の主役です。
 曾我兄弟の仇討ちは建久 4年 5月28日(1193年)。
現在使われるグレゴリウス暦に換算すると7/4となります(ユリウス暦では6/28)。

 仇討ちというと「江戸時代」とつい思ってしまいそうになりますが、曾我兄
 弟の仇討ちは鎌倉時代も初期の頃。大分古い時代の仇討ちです。

 曾我十郎の父親の河津祐泰は他人の所領争いのとばっちりを受けて死んでし
 まいました。その時、十郎はまだ 5歳。弟五郎は 3歳だったとか。
 曾我兄弟が仇討ちを実行したのはその17年後のことでした(十郎22歳、五郎
 20歳)。仇自体は討てましたが、その後二人は取り押さえられ、十郎は斬り
 死に、五郎は捕縛され後に処刑されています。

 この曾我兄弟の仇討ちは後に「曽我物語」として物語として描かれ、広く知
 られるようになりました(日本三大仇討ちの一つとされています)。

虎御前と虎の雨
 虎御前は大磯の遊女で、曾我十郎の内妻(十郎は仇討ちを実行して死ぬつも
 りだったので正式な嫁取りをしなかったとか)。
 十郎が念願かなって仇討ちを成し遂げ、そして亡くなったこの日に降る雨は、
 十郎の死を悲しむ虎御前の涙だとされています。

 ただ、考えればわかるとおりこの時期は梅雨時。ほとんど毎日のように雨が
 降る時期ですから、雨が当たり前。
 三年に二度は雨が降るとか。江戸時代に書かれた本などにはわざわざ、
  虎の雨の史実に拘はる事なかれ と注意していますが、言うまでもありません。

虎御前
虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、鎌倉時代初期の遊女。
曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれております。
富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』で、
この物語を色づけ深みを持たせる役割をしております。
『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされます。

経歴
『吾妻鏡』における虎
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、
6月1日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されております(建久4年6月18日条)。

『曽我物語』における虎
出自
虎女の出自については諸説あるが、『重須本曽我物語』では、
虎女の母は平塚の遊女・夜叉王で、父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされております。
虎女は平塚で生まれ大磯の長者のもとで遊女になりました。
虎の母の夜叉王がいた平塚の遊女宿は現在の平塚市の黒部が丘あたりにあったと言われております。
大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)であるので余り離れた場所ではありません。
花水川が間にあるが歩いても一時間は掛からない距離関係です。
生涯
十郎祐成と弟の五郎時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻妾を持つことを考えなかったが、五郎の勧めもあり妾を持つことになった十郎は、自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだといわれております。

虎と十郎は会ってすぐに恋に落ちる。虎17歳、十郎20歳の時でした。
虎が19歳の年、建久4年(1193年)5月28日に源頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取りますが、十郎はその場で新田忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後、頼朝直々に取り調べられて処刑されました。

十郎の死後、兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社の別当の手により出家しました。
その後十郎の供養のため信州の善光寺に参る。
大磯にもどった後、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく、『曽我物語』の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じます(虎女の生涯は嘉禄3年(1227年)2月13日没、享年53といわれてきたが、最近の研究では没年は嘉禎4年(1238年)とされる)。

名前
寅年の寅の日の寅の刻に生まれたので三寅御前と名づけたと『曽我物語』にあるが、実際には虎女は未(ひつじ)年の生まれである。なぜ虎という名前をつけたのか本当のところはわからないが、柳田國男は『妹の力』で、虎御前を引き「嘗てトラ トウロ トランと呼ばれた、仏教、道教を修めた巫女がいて、トラ石と呼ばれる石のある場所で修法をしていたのでは」と推測している。虎が生まれた場所は近くにもろこしが原があり、その向こうには高麗寺山があるという異国の面影があった。唐(もろこし)の枕詞は虎であるがその為かどうかも判らない。虎御前の御前は当時、遊女や白拍子などにつけて呼ぶ呼称であり、静御前、巴御前などと同じです。
当時の呼び方として「ごぜん」ではなく短く「ごぜ」としたようで、後の瞽女(ごぜ)に通ずる。
山本吉左右は『日本架空伝承人物事典』で、「トラゴゼ」という瞽女がいたのではという説を唱えております。

俳句などでは虎御前と書いて「とらごぜ」と読ませることもあります。
俳句の季語に「虎が雨(とらがあめ)」という言葉がありますが、旧暦の5月28日に降る雨に後世の人びとが虎女の悲しみを重ねたものです。
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