元商社マン、いま何想う?

海外生活で体験したこと、想ったことなどをエッセイで伝えたいと思います。時には時局の話題も。

林爽文の乱(38)~林爽文刑場に死す

2012年08月30日 | 暮らし
 荘大田はじめ捕えられた者は台湾府城に移送された。同月、鳳山県の龍交地方に身を隠
していた厳煙も義民に見つけだされ捕まった。荘大田の末子、荘天畏は父親と行を共にせ
ず内山の梅仔坑に隠れたが、8月に到り官兵に見つかって捕えられ、北京に送られた。

 捕えられた者の処置は、北路は巡撫の徐嗣曽が、南路は常青が責任者となって当たった。
清代の刑罰は笞刑(むち、小竹板を使用)、杖刑(じょう、大竹板を使用)、徒刑、流刑、
死刑の5段階に分かれる。

 死刑は絞首刑と斬(首)刑があるが、極悪犯には凌遅処死という極刑が科された。生き
たまま身体を切り刻み、長く苦痛を与えて死に至らせ、そのあと首を切り、晒し首にする
という残酷な刑罰である。

 乾隆帝は、清朝に対する反逆に加担し官兵と戦った罪や官名詐称の罪は重く、死刑に処
すこと、そのうち首謀者は凌遅処死の刑にすると宣言した。また首謀者の係累は連座との
方針を示し、16歳以上の男子は斬刑、16歳未満の男子と母親、妻、妾、姉、妹、子の妻妾
は功臣の家に奴隷として与えられることとなった。また脅されて反乱軍に加わったが官兵
とは戦わなかった者は罪を減じ、死罪を免じられた。

 逮捕者の主だった者は尋問を受け、供述書を取られた。そのうち首謀者とみなされた者
は北京に護送された。残りの、官兵と戦うか、あるいは官名を受けた者は斬刑となった。
黄玉娘も首をはねられた。荘大田は首謀者の一人であり本来なら北京送りで凌遅処死の刑
となるはずが、衰弱が激しく長旅は無理と判断した常青は荘大田を直ちに処刑し、その首
を市に晒した。

 領隊大臣舒亮は林爽文、林躍興、何有志、頼達、李七、陳伝、林繞、林領、林玉、頼子
玉、頼敖、肖悟天、劉天賜、林良、石南、林祖など33人を護送して北京に向った。この中
には銀銭の徴収に当たった林水(元帥)や、糧米の管理をした戸部尚書の林候と林棍も含
まれていた。このうち何有志、頼達、林繞の3人は病気のため、途中で死刑を執行された。

 北路では別途、蔡福、陳泮、劉昇、厳煙、陳秀英、林勇、楊振国、頼樹、高文麟、林小
文、陳天送、蒋挺、劉懐清、林茂、林旧、何従龍らが北京に護送され、南路では荘大韭、
鄭記、簡添徳、許光来、連清水、金娘、林紅らが北京送りとなった。

 北京の刑部に引き渡された林爽文は再度尋問を受けたあと、3月9日、凌遅処死の刑を言
い渡され、翌日刑を執行された。反乱軍の首領であり、天運、順天という年号を号した罪
や官職を乱発した罪にも問われた林爽文に対する刑は残酷だった。

 林爽文は素っ裸にされ、じっくり時間をかけ、焼けた鉄具と生石灰で出血を止めながら、
3,600カ所も体を切り刻まれたという。薄れていく意識の中で何を思ったのであろうか。こ
こに林爽文は32年の生涯を閉じた。1788年(乾隆53年)3月10日のことである。

 林爽文を含め、合わせて数十人が凌遅処死の刑を受けたという。厳煙は台湾に天地会を
広めた罪は大きいが、直接反乱に加わらなかったため、斬刑を免れ絞首刑となった。林爽
文の父親と弟3人は斬刑となった(あるいは林躍興と林勇は凌遅処死とされたかもしれな
い)。母親と妻は功臣の奴隷とされた。

 福康安は一等公爵(嘉勇公)に任ぜられ、3年後には大学士となる。のち閩浙総督、四川
総督、雲貴総督を歴任するが、1796年、苗族の反乱の討伐に当たっている最中疫病にかか
り50歳で没した。乾隆帝はわが子(?)の死を嘆き悲しんだという。海蘭察(1793年没)
も公爵に任ぜられた。

 黄仕簡(1789年没)と任承恩(1797年没)ははじめ斬刑の判決を受けたが、やがて赦免
され、黄仕簡は本籍地にもどり、任承恩はのち副将となった。

 常青(1793年没)は和珅の取りなしもあり罪を許され、蒙古都統代行から礼部尚書とな
った。恒瑞(1801年没)は伊犁(いり)に流されるが、のち西安将軍となった。

 蔡攀龍(1798年没)は遊撃として林爽文の乱平定のため台湾に渡ったが、3階級昇進して
福建水師提督に任ぜられた。梁朝桂も総兵から福建陸路提督に昇進した。楊延理は海防同
知から台湾道代行に昇進した。

 哀れを留めたのは柴大紀である。台湾府城や諸羅(嘉義)県城を守りいちばん功績があ
ったにも拘わらず、福康安の訴えで罪を得た。福康安は、「柴大紀は兵営の軍紀の乱れを
放置し、それがために反乱を招いたこと、嘉義城を守ったのは義民たちで、柴大紀は一度
も兵を率い城外に出て敵と戦わず、また城を賊軍に明け渡そうとしたのを、義民たちが押
しとどめたのである。柴大紀の罪は大きく斬刑に処すべき」と奏上した。

 乾隆帝ははじめ、過失はあるが柴大紀の功績は大であるとして罰するつもりはなかった
が、その後の調べで、柴大紀が汚職に加担し私腹をこやしていたことなどが分かり、柴大
紀を免職とし北京の刑部にて罪状を調べるよう命じた。柴大紀は不服をならし抗弁につと
めるが、それがかえって乾隆帝の不興をかい、この年7月斬刑に処された。その子も伊犁
に流され奴隷とされた。

 清史稿は、「軍旅之際、・・・・功不成而死於敵、若功成矣、而又死於法。嗚呼、可哀
也己」と記し、柴大紀に深い同情を寄せている。
                           (つづく)


 今回もブログを読んでくださって、ありがとうございました。次は最終回です。

 


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