明日死ぬかも

あなた自身が、この世で見たいと思う変化とならなければならない。byガンジー

2009年最後のブログ

2009年12月31日 15時09分57秒 | 日記



実はずっと考えていた。
2009年の終わりに何をブログに書こうかと。

実は私は結構「区切り」みたいなものを重要だと捉えがちな人間で
誕生日だの、1年の終わりや始まり
なんかのときには
よい区切りをつけたいとかよいスタートを切りたい
とかついつい思ってしまう。
そんなもん本当は
何の意味もなく、何の効果もない
ということを、わかってはいるのだけれど。


年が変わるといっても
1日が過ぎるだけだし、次の日が来るだけだ。
昨日や一昨日と同じように。
ただ時間が流れるだけ
それだけだ。

だから肩肘張って「今年の総まとめ」みたいなブログは
これっぽっちも必要ないんだと思い直した。


ああそれにしても
年末年始ってヤツは本当に気が滅入る。
なんだろうか、この重圧感や嫌悪感は。

特に嫌なのは、実家の母からの連絡だ。
「待ってるよ」
と言われるこのプレッシャー。


いや、待っててもらってもいいんだが
たぶん普通なら喜ばしいことなんだと思うが
「来るな」と言われるよりはずっといいんだと思うんだが
如何せん
あそこはいつまでもクソ親父のいる空間
というだけで
一向に居心地がよくならない場所であり
1年に何度も行くことがなくなってからは
年々“いたたまれない度”が
容赦なくアップしていく場所

になりつつある。
(マリオの1UPとかじゃないんだゼ・・・)

父親というものがいることによる精神的なプレッシャーはいうまでもないが
その抑圧された雰囲気に馴染めないせいだろうか、
洗面台もトイレも風呂場も部屋もベッドも歯ブラシでさえも
何もかもが使いづらいと感じる。
(歯ブラシなんて、新しいの使ってんだから関係ないはずなのに)
まるで「他人の家」だ。
(いや、友人の家にいるほがまだずっと居心地がよく感じられそうだ)

よくこんな中で生活していられたなと
今となっては過去の自分を不憫に思う気持ちしか湧いてこない。

あの家を離れて、私はどれだけ楽になれたんだろう。

それでもまだずっと苦しいだなんて
どれだけ不幸体質なんだろうかと、笑いたくなってくる。


母や祖母は、私や兄弟たちを迎えるのを楽しみしているけれど
実際に実家に一歩足を踏み入れて私が感じることは
「昔と何も変わっていない家族のありかた」

「昔とまるで変わらない見て見ぬ振りの不誠実さ」

「無言の拒絶」
あるいは
「見せ掛けだけの団欒」
そんなものばかりだ。

膨大な禁句リストの上に成り立っている危うい会話
に何の意味があって、何の面白さを感じるというのだろう。
1年に1度、無理やり家族を集めて一緒に食事をすることに
どれだけの意味があって、どれだけの安らぎを得られるというのだろう。

そんなもの、過去にいくらだってやってきているではないか。
今さら、何の目的が果たせるというのだろう。

もう随分以前からバラバラになっている家族なのに
どうして一緒に時間を過ごそうとするのだろう。

私は正直に、確実に
もう手遅れ

だと思っている、本気で。


では、なぜ私は呼ばれるまま実家に行くのだろう?

それはたぶんきっと、不安なのだ。
自分が、人生が、この世のすべてが。
どうしたらいいかわからないから、とりあえず向かうのだ。

もう手遅れで、何の意味もないと知っているその
不毛な時間と空間のために
金と時間を使って、私は故郷に向かうのだ。


だけど本当は
あの家が、まるで私が昔描いたような理想の家庭になって
私を迎えてくれる日が来るのではないか

と、いまだに心のどこかで
小さな少女のように夢見ているからなのかもしれない。

叶うことはないとわかっているけれど
捨てられない希望というものが、世には存在するもんだな
といつも思う。
年末年始には、そういうことをいつにも増して感じる。










バッカだなぁ・・・。







1年の終わりも1年の始まりもクソくらえだ。
別に何も変わりやしないのに。
一体何を終わりにして、一体何を始めるっていうんだよ。
終わってもいないし、始めようともしていないってのに。

たぶんこんな感じで、明日からもブログは続く・・・。
超暗いな・・・。

とりあえず、パソコン画面の向こうにいる方々には
私よりずっとずっとよいお年を迎えていただきたいもんである。

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「寂しくない」とうそぶく理由

2009年12月30日 22時27分15秒 | 私の心の中のゴミ箱



私は自営業の両親のもとで育ったせいか
(ほとんど両親と一緒に過ごすことがなかったという意味で)
「寂しい」
という気持ちを表現する術を知らないまま大人になってしまった。
というか
「寂しい」というのはどういう気持ちのこと
を言うのかも本当は今でもよくわかっていないのかもしれない。

だから私は実は
寂しいという気持ちを一番恐れていて、脅威に感じている。

寂しいなんて気持ちを真正面から受け止めてしまったら
際限がないではないか。

そんなの、苦し過ぎるし辛過ぎる。


でも
家族から大切にされ
旦那さんからも大切にされ
旦那の家族からも大切にされ
こういう年末年始には実家や旦那の実家に行き
一緒におせちを作ったり、あたたかく迎えられて過ごすのが
当たり前のような暮らしを送っている友人を見ていると

平日は仕事でほとんど家におらず、休日はパチンコで1日家におらず
一緒にいてもろくな会話がなく
数年も同棲しているのに両親に紹介もされておらず
自分の実家とは折り合いもよくなく年末年始は気が重くてしかたない
私の人生って
なんて冷め切ってんだろう・・・
と、ついうっかり「寂しさ」を感じてしまう瞬間がある。

同じ女なのに同じ人間なのに、なんじゃこの違いは・・・
と、神様に噛み付きたくなってしまう。
そんなもん、比べて口惜しがってもひとっつもいいことはないんだが。


だからそういうときは
事実じゃないってわかってても
本当の気持ちじゃないってわかってても

私はひとりでつぶやく。

「寂しくなんかない」
「寂しくなんかない」
「寂しくなんかない」

強がりだって役に立つさ~そのうちその気になる~♪
っていう曲がSMAPのむかーしのアルバムにあった気がするけど(笑)


だって、こう言うしかないじゃない?
私が寂しくったって、誰もどうにもできないんだから。

うーん・・・正確には
誰もどうにもしてくれないんだから
というべきかもしれないが。
(被害者っぽい言い方・・・)

結局、誰も私のことなんて気にしていないし
私の寂しさなんて、取るに足らないことだ。

自分の面倒は、自分でみなきゃ。
せめて生活養ってもらってる私としては
自分の精神面くらい自分でどうにかできなきゃ
それこそヤバい。

どんなに私の見てくれがよかろうが
(別にそんなによくないけど)
どんなにすごい才能が私にあろうが
(特別な才能なんてホントはないけど)
どんなに私の性格がよかろうが
(自慢できるほどよくもないけど)
幸せになる能力が欠如していると
一生こういうふうに生きることになる。

結局人間は
自分を幸せにする覚悟があるか
自分が気持ちよく過ごせる空間をどんな手を使っても作り出すことができるか
肝心なとき、誰よりも自分を優先して考えられるか

で、決まるんじゃないかと思う。

バカ正直に生きてても、正味な話そんなにいいことはなさそうだ。

かといって
ミスチルじゃないが
考えすぎて答えにつまる自分の不器用さが嫌い
それでも妙に器用に立ち振る舞う自分はそれ以上に嫌い

(by HANABI)
っていう人間は私みたいに
自分の感情に嘘つきながら、ひとりぼっちの部屋でうそぶきながら
なんとか心を強く持って、生きていかなきゃしかたない。

うん、がんばろ、ワタシ。


でも、こんなふうに友達の幸せを妬んでいるのは醜いな。
たとえその点に異議があって
神様に抗議するに足りうる理由が私に、あったとしても。

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結婚が人生に深みを与える? ~私の結婚観~

2009年12月30日 12時30分00秒 | ゴールなのか自殺点なのか~私の結婚観~



私は友人が少ない。
と言っても
私が自らの意思で減らしてきた
結果なので、別段どうとも思っていない。

年の瀬に性悪発言が許されるんであれば
“もう少しだけでいいから質のいい友人”
がもっといてくれたらこんなことにはなっていない

と残念至極である。
(これはそういった友達を作ってこられなかった私の責任であるが)


とか言ってても
たぶん連絡を取って会ったりだとか、交友を持とうとすればそうできる人はいるし
会いはしなくともメールや電話で連絡を取り合うことのできる相手もいる。
特別そうしたいと思わないのでしないのだが。

それに、私にはとんでもなく素敵なSという友人がいて
彼女との友情があるだけで今は満足なのである

という事実もある。

少ないけれど、友人と呼べる人はいる
というのが
冷静に考えてみれば今の私の正確な現状なんだと思う。


さてと、余計な前置きしちゃったな・・・。
今回は友人関係についてちょっと結婚と絡めて書こうと思う。
2009年は、ぶった切った交友関係が結構あったしな。
まぁそんなわけで
ぶった切った友情や今も続いている友情などいろいろあるけれども
2009年を振り返り
既婚の友人たちに会って今年私が思ったことを今日も気ままに綴ろう。

で、そのついでに新しいカテゴリーを追加してみた。
「ゴールか自殺点か~私の結婚観~」
である。
これ「ハッピーエンディングなのかバッドエンディングなのか」
よく言われる「結婚は人生の墓場なのかどうか」ってことを
サッカーに例えちゃっただけなんだけど・・・。

よろしければ、今後もお付き合い願いたい。


では本題に入るとして
今年会ったり連絡を取ったりした友人(知り合いとも言う)たちは
思い返してみりゃもうみんな人妻になっている
ではないか。
(おお、こりゃ驚きだ)

すでに子持ちの子もいれば
子供など欲しくもないと切って捨てる子もいる。
うまくいってんだかいってないんだかわかんない夫婦関係の子もいれば
なんていい夫を持ったんだと羨ましく思う子もいる。

とまぁ、世の中の「既婚女性」の中に仲間入りした知り合いの子たちは
当然のことながらそれぞれの環境で生きている。

結婚して幸せそうに見える子もいるけれど
その結婚、本当にしてよかったの? 
と疑いたくなる子もいた。


昔、叔母さんがこう言っていたのを最近よく思い出す。

「やっぱりね
一度結婚ってもんはしといたほうがいいと思う。
離婚したとかしてないっていうのは別としてね、

結婚したことのある友達としたことのない子って、違うんだよ。
結婚したことのある子のほうがいろいろ経験してるから
人生に幅があるっていうか、人間性に深みが出てると思うの。
してない子がわからない話も、わかってくれるもの」

たぶんこの言葉を聞いたとき私はまだ学生で
きっと高校生とか、たぶん大学生ではなかったと思うんだが・・・
まぁとにかく、若かったわけだ。

で、結婚なんてもんを最強に嫌っていた私はただ
「へぇーそういうもんなんだ」
と答え
『じゃあ、やっぱ1回くらいは結婚ってしたほうがいいのかな・・・』
なんてことを、でも結構真剣に思った。

だって、無知って結構危ういもん。
結婚経験して身につけたほうがいい知恵みたいなもんが
思ったよりも結構たくさんあるのかもしれない、と思ったのだ。


が、今回も例のごとくだがしかし、である。

結婚はそりゃ大変なことも多いんであろう。
結婚して幸せだと言う友人でさえ
「でも、子供がどうしても欲しいとか
そういう気持ちがないなら結婚なんてしなくていいと思う。
いろいろとやっぱり大変だから」

と、何度も言っていた。
だから、きっと結婚して学ぶこともとても多いのだと思う。
(ちなみにそう言っていた彼女とは今も友人関係を続けている)

でも、果たして結婚している子たちが叔母の言っていたように
人生の幅が増したり人間性に深みが出たり
というようなことがあるのだろうか?
と自問してみると
如何せん今のところはそういった兆しすらも見えない子はいる。
逆に
結婚して“傍若無人に拍車がかかった子”のほうが
私の周りでは増えていたりするので困ってしまう。
(お姫様のように旦那に大切にされているからなのだろうか・・・)

たぶん叔母の発言していた年齢を考えても
もう少し時間が経たないとわからないことなんだとは思う。
結婚の苦労だって、まだ新婚の延長みたいなことをしている時分では
経験していそうでしていない程度のレベルでしかないのだろう。

だからきっと
叔母の発言に賛成する人間にこれから私がなるかどうかは別として
叔母が言っていた意味を知るかもしないときというのは
私にとってはまだ先のことなのだろう。


今のところ、私自身の見解としては
人間性も人の器の大きさみたいなもんも
結婚してから変わるというよりは「もともとそういう人」だったかどうか

ということのほうがより大きく関わってくるんじゃないだろうか
という感じである。

だって
優しさや配慮というものを非常に心得ていて
自らを主張し過ぎることもなく、かつ柔軟で芯のある女性である

私の愛する友人Sは正真正銘の未婚女性である。
でも、私が過去親しくしてきた友人の中で
間違いなくもっとも自立し良識を持った人
であることは、たぶん間違いないと思う。

結婚しても彼女のそういうところは変わらないと思うし
かといってもし彼女の人柄に深みが増したとしても
それは結婚が彼女をそうさせたというよりは
もともとの彼女がそういう人であったから結婚から学ぶことが多かった

というだけのことのように思う。
(先のことだから断言はできないけど)


Sは私と違って「結婚したくない症候群」ではまったくなく
どっちかっていうと「早く主婦になって子供産んで育てたいわ」という子だが
過去も未来も
いい加減な人間が子を産み育てるということに非常に大きな危惧を抱いている
私のような人間が
「この人ならば未来を託す子供を産んでもらっても構わないな」
(超上から目線で申し訳ないんだが)
と、思えるSのような人というのは
なかなかそういう道に障害が立ちはだかって進めなかったりするので
本当に世の中ってやつは不条理だ。

お前みたいな人間が親になってどうする?
これ以上私の頭痛の種を増やしてくれるな
(別に世界の心配なんて本気でしちゃいないけど)
と思うような人間のほうが
無計画に結婚し
ホイホイ簡単に子供作って出産というリスキーな壁をひょいと乗り越えて
子育てなんて開始しちゃうんだから
未来も何もあったもんではないなと常日頃から私は思っている。


推測だが、いつの時代も
賢いというか人生の見通しを気にするだけの知性を持った人ほど
結婚というものを高いハードルにしていて
慎重に行うもんだという気がするので
この現象は何も私の身の周りだけに起こっていることではないとは思うが
嘆きたくなってしまうよなぁ。

結婚の誓いなんて守れんのか?
結婚の誓いの上にあぐらをかいて、伴侶にそんな態度でいていいのか?

という人に限って、しっかり結婚していたりするのだから
もう結婚制度なんていっそなくしてしまえばよかろう
と非常に感じるのだが
世間というのは簡単にそういった方向へは進んでくれないのである。


って、話の中心が何なのかまったくわからない状態に陥ってるぞ
と気づいたときにはときすでに遅し。


とりあえず、無理やりまとめると
叔母が言ってたことってもしかして
「1度は結婚」じゃなくて「1度は子育て」
っていうほうが、もしかしたら当たってんじゃないか?

この記事書いててちょっと思いました。

結婚だけでは、それほど人間性に深みを与えはしないんではないかと。

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29歳最後の日に私は生きているだろうか

2009年12月29日 09時22分02秒 | 私の心の中のゴミ箱



まぁ、毎年のことなんで、別に気にしないけど
今年(2009年)もひでぇなと思うことがたくさんあった。
(あ、コレ世界のニュースとかじゃなくて私個人に起こったことの話ね)

つっても、ここ数年は本当に精神的にキツいことが多くって
それに比べたらそこそこ安定していた1年だったのかもしれないけど
でも
あれまぁ、そうなるか私の人生(;´∀`)
と思うことはあった。


1番の収穫(?)はアレだよね。
やっぱ同棲してる恋人に
「私と結婚する意志はない」
みたいなことをはっきり言われたことだよね。

だからって別れるってわけでもないから
きっと
“一生結婚しないで一緒にいるという超プログレッシブな形態”
を維持するというのが彼の理想なのだろうと思う。
(我らはフランス人か・・・てゆーか、先進的な形態でもなんでもねーか)

ま、別にいいと思うんだよ。
私だって「死ぬほど結婚したいか」って言われると
“生活力がないから恋人と一緒にいないと今のところ生きていけない”
っていう打算的な部分だって正直あるわけで
結婚なんてもん、崇拝もしてないしどっちかっていうと嫌悪しているからな。

今はもう考え方を変えたので
逆に結婚しないでいてくれて助かっている
という気持ちのほうが強い。
強がりが2割くらい入っていることは否定できないかもしれないが
“この男と結婚できたとしても、それはそれで幸せじゃねーな”
という思いも実際にある。

結婚しても幸せになれねーと思っている男と一緒に暮らしているなど
私流に言うと
「頭おかしーんじゃねーのか?」
の極みなんだが
「頭おかしいんです。
だからこうなってるんです」

と、この異常さも自分の馬鹿さ加減もわかっての行動なので
とりあえずあと数年はこの状態をキープということになるのだと思う。

急ぎ過ぎてもまた失敗しかねないので
今回はじっくり地に足つけられるだけつけて入念に
自立の道を進みたいと思う。
もう向こう見ずに突進してって壁に激突してる場合でも歳でもないんで。


とか言って、私は29歳最後の日に
(つまり30歳の誕生日を迎える前日ってことなんだけど)
“自分を幸せだと思えなかったら死のう”
と数年前に決意したことがあって
もしかしたら来年死んでるかもしんないんだけどね。

ま、たぶんこれも実行できずに醜く生き長らえてたりする確立の方が高いけど。

思うんだよね、私そもそもが30歳前に死んでておかしくないし
てゆーか30歳過ぎてまで生きてるなんてそっちのほうがおかしい
と思って生きてきたおバカさんなわけで
29年この世界にいたのに、それでまだ人生を好きになれないなんて
もう生きているのに向いていないのは確実
なんじゃないかって。

死ぬほど嫌だと思いながら(いやまだ死んでないけど)
ここまで生きてきたんだからもういいだろ
ここまでやってきてもダメなら、もう無理だろ
と、いうひとつの区切りとしては
29歳最後の日っていいよな
という結論に達して立てた目標みたいなもんで。

19、20歳とかでやってりゃこういうのももっと美しいんだろうけど
中途半端な私らし過ぎると言えばこんなにピッタリなもんもない。


29歳最後の日に、果たして私はどうしているだろうか。
考えたら、ちょっとワクワクしてきたぞ(笑)
自殺ってものすごく大変だから、できれば回避していたいもんだけど
そのためには来年、ベクトルを別の方向に向けて生きないとな。

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いい人って、やっぱり損して生きてるなぁ

2009年12月28日 09時00分57秒 | 日記



「いい人」の基準なんてもんはわからない。

どういう考えで、どういう振る舞いをしているか
どういう話し方で、どんなことを口にするか
人を判断する材料はいろいろあるんだと思うけれど
「どういう人」が「どういう人」かっていうのは、非常に微妙なところだ。
個人個人の主観に頼ってる部分だからな。

でも
「ああ、こういうことちゃんとわかってる人っているんだ」
とか
「こういうこと、できる人ってすごいなぁ」
とか
私は自分がそう思える相手は
心の中で「いい人」という括りに入れさせていただくことにしている。

「どんな人になりたい?」
と訊かれ
「いい人間になりたい」
と答えたら
「いい人っていうのはね、どうでもいい人のことなんだよ
と、いつぞやにキャッチにひっかかって行かされた
美容器具販売店にいたチャラ若いネーちゃんが自信たっぷりに言っていたが
“お前は文脈っつーものを考えたことがないのか?”
といまだに思い出して思うことがある。

いい人の定義は様々だ。
実際、あのとき私はどんな「いい人」になりたかったのか?
と考えてみると、ちょっと言葉に詰まってしまうかもしれない。

しかし
男女関係でよく使われそうな(?)
「イイヒト」
つまりたぶんきっと
優しいし、楽しいし、一緒にいるのも嫌じゃないけど
恋愛となると違う
みたいな、そういうニュアンスの「いい人」を想像して言ったわけではもちろんない。

「いい人」「どうでもいい人」だなんて、とんでもない暴論だ。


というわけで
私はこの世に「いい人」という人種は存在すると思っている。
「どーでもいい人」という人種とはまた別に。


で、なんで「いい人」の話かってことなんだけど
私がランキングに参加してるというか、バナーをはっている
ブログ村
なんだけど
今日そのブログ村の私も登録しているカテゴリにいらっしゃる方々の
いくつかのブログを読みにまわっていた。
みんな、どんなこと書いてんのかなー
っていう軽い気持ちで。

ベスト5とかじゃなく、もう少し下におられる方のところを見ていたんだけれど
いやぁ、すごい人っているんだな
と、思わず読み入ってしまったブログも中にはあって
「もっと上位にくりゃいいのに、このブログ
そうしたらもっと読んでもらえるのに」
と思った。

私のブログのランキングはとりあえず置いておくとして
ブログ村のアダルトチルドレンとかのカテゴリを見に行くと
「ACかもしれない」と悩んでいる人にはすごくいいかもしれない。

なんか、いいブログ、ホントあるね。
私みたいな中途半端者のブログじゃなくて、ホントのブログが。

ブログ村でググって入っていってみるといいかも。
私のとこからボタン押していくと、無意味に票が入っちゃうから。
もっとちゃんと読んでもらう価値のありそうなブログが上位に来るべきと思うので。

機能不全家族で育った人って世界中にたくさんいると思うけど
声をあげるのって本当に大変な作業だと思う。
ブログってもんが普及してよかったってばよ・・・
と思う瞬間ね。

ACなんて自分がそうじゃないかって気づくことすら難しいんだから
本当はもっとずっと楽でいられたかもしれない
莫大な時間を
阿鼻叫喚で過ごしてきている人がどんだけいるか

そういうこと考えると背筋が凍るよ。

なんて辛い人生を歩まされてきたんだろうね私たちは・・・
と、気づいて声をあげるべきなんだと思う。


いやね、ACの線引きも難しいとは思うよ。
ACだとか胸張っちゃって逆に周囲の人を苦しめてるような人もいるからね。
なんでもそれで済まされるとかそういうんじゃなくてね。

ただ、一番苦しんでいるであろう
隠れAC
みたいな人たちでね
人を傷つけないようにって真剣に生きてる人たちもさ
本当は結構な数いるんだよってことをさ
やっぱ認識していたいじゃない。

そういういい人たちって
人に利用されても人に裏切られても人に見下されても
しょうがないや、しかたがないやって諦めてきた過去があってさ
そういうのって、大人になってから自己認識すると
ものすごいショックなことだったりしてさ。

でも、そのショックを乗り越えて
もっと楽に生きたい、人生を楽しみたい
そうすべき価値が自分にもあるはず!
って、ヘコみながらも前向きに頑張ってる姿って
同じように生きてる人にとってはこの上ない励ましになるよ。

この人たちのいいところっていうのはさ
結構今まで望むように生きてこられた人たちが身につける
「自分を幸せに導く方法」とか「自分が心地よくいられる方法」
とはまた違ったやり方で生きようとしてるっていう点で
(みんながみんなそうではないだろうけど)
誰かを傷つけたりないがしろにしても平気
っていうある種の身勝手さをすごく嫌う性質なわけだから
相手を尊重した上で
自分も相手も楽でいられたらそれが一番

みたいな姿勢を、なにより大切にしてくれそうな気がするんだよね。

もしかしてものすごくよい育ち方をした人の中には
身勝手さとは無縁のこういう姿勢を意識せずに身につけてて
自然にできちゃう人もいるのかもしれないけど
そうじゃなくてこういうことを心がけてる人っていうのは
自分があまりにひどい扱いを受けてきたが故に
他者にはそういう思いをさせたくないって意識のもと
この辺をもうなによりも重要視して意識的に行ってるわけで
そういう人って、やっぱり「いい人」だなぁと思う。

でも、大概こういう人は
辛い思いを乗り越えてはまた乗り越えてそんでまた乗り越えて・・・
って強くなっていくしかないわけで
そのあいだに損してること、というか、被ってる被害はすごく多い。
人よりも自分を優先することが、難しいんだよなきっと。

でもこういう人たちがいて影で傷ついているおかげで
笑えている人たちは世の中に大勢いるわけで
感謝すべきだよなぁ、こういう人たちにもっと・・・
なんて思ったりする。


大袈裟な話だし、論理はちょっとオカルトっぽくてへんちくりんだけど
どーしようもない親のもとに生まれた人っていうのは
別にその人じゃなくてもよかったかもしれない可能性もあるわけで
てゆーか
その人がその親のもとに生まれてなかったら
他の人がその親の子供になっていたかもしれないわけで
まぁそんな話をし出したらキリないけど
誰かが被らなきゃいけなかった災難を担ってくれた
と、受け取ることもできなくはないわけで

アニメの「ファントム」で殺し屋という仕事のことを
「レイジがやらなくても誰かがやってた。
レイジは誰かがやらなくちゃならないことを変わりにやってるだけ」

みたいなことをキャルが言っていたのと同じ意味なんだけど
(出生前、出生後のことだから、同じ意味にはなんねーか)

私はいい親のもとに生まれてラッキーだった♪
と思える人は
(本当にラッキーな人はそんなことすら考えないで済むんだろうが)
その影にどうしようもなく悲惨な家庭で生き延びる子たちがいるということを
ある程度の年齢になったら、やっぱり意識していてもらいたい。


親がそんなにひどい存在なわけない
とか
親のことをなんてひどく言うの
とか
そういう「自分の知らないことは否定しとけ的」な発言が
この世界から早くなくなってくれたらいいのにな。

あんたが私みたいに育ってても、同じことが言えるのか?
っていうことを
もっと人としてちゃんと考えないといけないような気がする。
じゃないと、いつまでたっても
いい人が損をして生きる世界のままだ。

そういうのは、よくない。

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