北の国から 緑の風通信

北海道へ移住しませんか!!

北の産業

2012-03-13 | 北海道自慢

産業
 
平成20年度(2008年 - 2009年)の道内総生産は18兆3595億円である。
これはシンガポールやエジプトの国内総生産にほぼ匹敵しており、世界40位前後の「国」に相当する経済規模を有している。
 
北海道内総生産の産業別構成比は、第一次産業が3.3%、第二次産業が22.4%、第三次産業が76.7%である(2000年度。この他に控除すべき数値があるため合計は100%を超える)。全国平均と比べて第一次、第三次産業の比率が高く、第二次産業、特に製造業の比率が小さい。
 
第一次産業
 
農業・畜産業
 
北海道は、日本の食糧基地と自称するほど農業が盛んで、全国の約12%にあたる1兆579億円の農業産出がある(2003年(平成15年))。
 
麦や芋等の畑作も全国平均と比べて比率が高く、テンサイやジャガイモ、小麦等、生産量が日本一の品目が多い。
 
中でも産出額の内約45%を占めるのは畜産であり、特に乳用牛の生産額が大きい。
道内の生乳生産量も全国の約40%を占める。
また、日高振興局を中心にサラブレッド等の軽種馬の生産も盛んである。

農家1戸当たりの耕地面積は16.9ha(2002年(平成14年))で、他都府県の13倍にも達する。
これは単に土地が広いこともあるが、北海道の各地方の気候条件に対応した農業が発達し開拓当初から大規模化したこと、農村部で兼業の機会が少ないために専業農家が多く、離農する者が多かったことから周辺農家が離農地を吸収合併し規模を拡大してきたこともその要因とされる。
空知・上川・十勝・網走(北網)が北海道の四大農業地帯と言われている。
 
日本とオーストラリア間の自由貿易協定を柱とする経済連携協定(日豪EPA/FTA)に関する交渉が2007年(平成19年)4月から両国間で開始された。
同協定が締結され農産物の関税が撤廃された場合、オーストラリア産農産物の輸入増により北海道農業は大打撃を受け、新たな財源がまったく確保できないとすると、北海道経済全体で約1兆3700億円の経済損失が生じ、約8万8000人が失職すると、北海道は試算している。
 
これが現実となれば農業・酪農のみならず道内消費や他産業まで、北海道拓殖銀行の破綻をはるかに超える影響が及ぶとされ、道財政の破綻・財政再建団体転落の可能性も指摘されている。

宗谷総合振興局・釧路総合振興局・根室振興局は大酪農地帯。
気候が耕作には適していないため、亜寒帯湿潤気候を利用した酪農が盛んである。
 
釧路総合振興局、根室振興局では農家1戸当たり耕地面積は60.3ha(2003年(平成15年))にも達し、宗谷総合振興局に至っては99%が牧草地である。
 
大規模経営のため農家の所得水準は高く、北海道の農家1戸あたり農業所得は約580万円である。
特に鶴居村の約1370万円は全国最高である。肉牛の生産もしている。

稲作は主に空知総合振興局・上川総合振興局等の道央で行われている。
代表銘柄は、「ゆめぴりか」・「きらら397」・「ほしのゆめ」・「ななつぼし」。
特に上川中部(旭川市周辺)のコメは一等米比率が高く、品質の良さで知られている。

渡島総合振興局は比較的畜産が盛んで、後志総合振興局は、余市町・仁木町を中心に果樹の生産が盛ん。
羊蹄山麓はジャガイモの産地となっている。

空知総合振興局は稲作のほか、北部でソバ、南部でタマネギも生産している。
特にソバの収穫量は幌加内町が全国1位、深川市が第2位、音威子府村が第3位、旭川市が第4位で、日本を代表するソバ産地であると言える。

上川総合振興局は、日本を代表する野菜産地である。
タマネギ・ジャガイモ・ニンジン・トウモロコシ・アスパラガス・キャベツ・ダイコン・キノコなどの生産量が多い。
また、大豆・大麦・ソバ・小豆(アズキ)・テンサイ(ビート)等も生産されている。
名寄市はアスパラガスの、和寒町はカボチャのそれぞれ生産量日本一である。
コメも先述の通り生産量が多い。

オホーツク総合振興局では、タマネギ・ジャガイモ・トウモロコシ・テンサイの生産量が多い。
北見市はタマネギの産地として有名。酪農も大変盛ん。

十勝総合振興局は、北海道随一の農業地帯。
小麦・テンサイ・小豆等の豆類・トウモロコシ等の生産が多い。
近年ではニンジン、ナガイモ、ダイコンなどの野菜類の栽培もさかんで、音更町はニンジンの生産量日本一である。また、酪農も盛んである。

水産業
 
明治時代までは日本海沿岸でニシン漁が栄えた。
その後カムチャツカ半島沖、ベーリング海沖での北洋漁業が飛躍的に伸び、太平洋沿岸で水産業が発達した。また同時に発展した水産加工業は北海道の工業の基盤ともなった。

1977年(昭和52年)の排他的経済水域(200海里水域)設定で遠洋中心の北海道の漁業は大打撃を受けた。
しかし依然として、北海道での水揚げ量は全国のおよそ4分の1を記録するなど、水産業は北海道の主要な産業のひとつである。またホタテやカニ、ウニ等の水産物を目当てに訪れる旅行者もいるなど、観光産業にも貢献をしている。

現在の水揚げ量は根室市が道内で一番多い。
釧路は1990年(平成2年)まで、13年連続世界1位の水揚げ量であったが、その後急減。
2006年(平成18年)現在、静岡県焼津市が水揚げ量全国1位である。

第二次産業
 
北海道の製造業は、太平洋側に面した大規模港湾のある、苫小牧市(苫小牧港)、室蘭市(室蘭港)、釧路市(釧路港)に発達している。
 
苫小牧市は人口規模で札幌市の10分の1未満だが製造品出荷額で札幌市を抜く。
この3市の製造品出荷額は北海道全体の実に4割を占め、北海道経済の機関車としての役割がある。
なお、道内最大の都市である札幌市は消費依存型の都市で、食品加工業以外目ぼしい製造業はない。
 
鉱業
 
明治から高度成長期(1960年代まで)にかけては、石狩炭田(三笠市・歌志内市・夕張市等)と釧路炭田(釧路市・白糠町・釧路町・厚岸町等)を中心に石炭産業が盛んであったが次々と閉山した。
 
国内で唯一の抗内採炭事業は釧路炭田で行われ、海外炭の高騰の影響を受け露天掘り採炭事業が石狩炭田で再開されている。

昭和に入り、鴻之舞鉱山(紋別市)の金の産出量が増加。
全盛期には「東洋一の金山」といわれるが、資源枯渇等を理由に1973年(昭和48年)閉山。
 
また、豊羽鉱山(札幌市南区)もかつて銀・銅・鉛・亜鉛で日本最大級の産出量を数え、希少金属であるインジウムの産出量も世界一だったが、2006年(平成18年)鉱量枯渇のため閉山となる。

イトムカ鉱山(旧留辺蘂町、現北見市)ではかつて良質の水銀を産出し、第2次大戦中に最盛期を迎えたが、1974年(昭和49年)に閉山した。
 
2011年(平成23年)現在は水銀含有廃棄物のリサイクルや精練を行っている。
 
工業
 
北海道の工業は太平洋沿岸の苫小牧、釧路の両地域に集約。
食品加工は苫小牧から札幌にかけての内陸の諸都市に集中している。

苫小牧市、釧路市は大規模な製紙、パルプ業が発達し、機械製造、飼料・肥料コンビナートを有する商工業都市。
 
苫小牧市単独で札幌市の製造品出荷額を上回り自動車部品製造が発達。
釧路港の貿易総額は石狩湾新港の4倍強もあり、釧路市では豊富で良質な水資源を背景に医薬品、コンビニ食材の主要な国内生産地になっている。

室蘭市は製鉄、化学コンビナートによる工業都市。
函館市は造船、食品加工製造。
札幌市は道内産の農水産品加工から発達した食品加工製造が盛ん。
旭川市は食品加工製造、製紙・パルプ業、電子機器、家具、酒造、出版印刷業。
帯広市は菓子などの食品加工製造。
 
建設業
 
明治以降の北海道は国策による開拓と開発が積極的に行われ、建設業は公共事業に大きく依存して発展を遂げた。現在でも北海道は公共事業への依存度が高く、道内各都市には年商100億円規模の建設会社が必ずあると言われる。しかし近年は公共事業の大幅な減少によって、建設業は大きな苦境に立たされている。
 
産業系特区
 
苫小牧東部開発計画、石狩湾新港地域開発等、国と道が一体となった大規模開発は何れも苦戦を強いられている。
 
現在、再建会社が事業を引継ぎ運営しており、一時期は物流関連、リサイクル関連企業の進出等が相次ぎ、堅調な成長を持続していたがコンビニ食材等の大規模な工場が釧路へ移転する等して再び苦戦を強いられている。

さっぽろベンチャー創出特区(札幌市)
ITビジネス特区(岩見沢市)
港湾物流特区(石狩湾新港)
企業立地促進特区(南幌町)
マリン・フォロンティア科学技術研究特区(函館市)
釧路・白糠次世代エネルギー特区(釧路市、白糠町)
 
 
第三次産業
 
観光関連産業
 
1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開催を機に、北海道開発庁を中心に新千歳空港や鉄道の整備が進み、観光産業が大きく花開いた。
 
夏は避暑やアウトドアレジャー、ドライブ、オートバイによるツーリング、冬はスキー、そして1990年代からはスノーボード等が楽しめる他、日本の農業基地としての北海道という側面から名産食品もあり、温泉の多さも手伝って毎年多くの観光客を集めている。また、観光客等を対象として小売業や運輸業が発達している。

しかし近年では海外旅行が安価で手軽になったことから北海道の魅力が相対的に薄れてきている。
北海道拓殖銀行の破綻後は連鎖倒産も相次ぐ等、観光産業の経営状況は必ずしも芳しくない。

道外からの観光客数は1997年(平成9年)以降2011年(平成23年)現在にかけて、年間600万人前後でほぼ横ばいに推移しているが、この間に外国人観光客は12万人(1997年(平成9年)度)から29万人(2003年(平成15年)度)へと増加している。
 
特に台湾、香港、韓国の3地域からの団体客数の伸びが大きい。
雪の降らない台湾や香港の人々にとって、北海道は手近でありながら雄大な自然や温泉が楽しめる場所であり魅力に感じられている。
 
また、倶知安町にあるニセコマウンテンリゾート グランヒラフには、2002年(平成14年)頃よりオーストラリアからのスキー・スノーボード客が急増している。
 
スキー場下のひらふ地区にある宿泊施設や飲食施設には、多くの外国人旅行客が訪れているため、街は海外のリゾート地を思わせる状態になっている。最近では富良野市周辺にも多くのオーストラリア人が押し寄せている。

バブル経済崩壊以前は、テーマパークや大規模な温泉街等がある道央地域が観光の中心であったが、近年は大自然の風景が見られる美瑛町・富良野市・知床や旭川市旭山動物園等が人気を得ている。
 
札幌市、旭川市、釧路市の3市が国土交通省の国際会議観光都市に指定され数次の国際会議が開催されている。2008年(平成20年)には洞爺湖サミット(後述)が開かれた。
 
情報関連産業
 
札幌には北海道大学の卒業生を中心としたコンピュータ関係のベンチャー企業が1980年代から継続的に発生している。
 
これは、1976年(昭和51年)に北海道大学工学部の青木由直教授が立ち上げた北海道マイクロコンピュータ研究会がルーツとされる。
 
これに関連した企業は主に札幌駅北口周辺に集積している。
2000年(平成12年)頃には「サッポロバレー」とも呼ばれるようになり、地場産業育成の成功事例として研究されている。
 
これとは別に、厚別区の札幌テクノパークにはビー・ユー・ジーのような札幌発の企業だけでなく、富士通や日本アイ・ビー・エム、日本ユニシス等の大手企業の拠点も置かれている。

また、ハドソンなどゲーム会社も創立され、これらの中には東京へ拠点を移した会社もある。
 
近年コールセンターの立地に札幌市、釧路市で積極的な制度整備を図っている。

寒冷地であることからデータセンターの好適地と目されており、中でも石狩市は積極的な誘致を進めている。
さくらインターネットは2010年(平成22年)、石狩市に国内最大級の大規模データセンターを設置することを発表した。今は完成している。 

 

 

 

 

北海道/世界との比較..

2012-03-13 | 北海道自慢
北海道の人口550万人とはどれくらいの人口規模なのでしょうか?
世界の国々と比較してみましょう。
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デンマーク 5,550,142,
スロバキア 5,462,119,
フィンランド 5,364,5,46
キルギス 5,334,223,
エリトリア 5,253,676,
シンガポール 5,086,418,
トルクメニスタン 5,041,9,95
ノルウェー 4,883,111,
コスタリカ 4,658,887,
アイルランド 4,469,900,
クロアチア 4,403,330,
中央アフリカ 4,401,051,
ニュージーランド 4,368,1,36
グルジア 4,352,224,
レバノン 4,227,597,
コンゴ共和国 4,042,899,
パレスチナ 4,039,192,
リベリア 3,994,122,
ボスニア・ヘルツェゴビナ,3,760,149
プエルトリコ 3,749,009,
モルドバ 3,572,885,
パナマ 3,516,820,
モーリタニア 3,459,773,
ウルグアイ 3,368,786,
リトアニア 3,323,611,
アルバニア 3,204,284,
アルメニア 3,092,072,
オマーン 2,782,435,
モンゴル 2,756,001,
ジャマイカ 2,741,051,
クウェート 2,736,732,
ナミビア 2,283,289,
ラトビア 2,252,060,
レソト 2,171,318,
マケドニア 2,060,563,
スロベニア 2,029,680,
ボツワナ 2,006,945,
カタール 1,758,793,
ガンビア 1,728,394,
ギニアビサウ 1,515,224,
ガボン 1,505,463,
トリニダード・トバゴ 1,3,41,465
エストニア 1,341,140,
モーリシャス 1,299,1,72
バーレーン 1,261,835,
スワジランド 1,186,056,
東ティモール 1,124,355
キプロス 1,103,647
 
皆様のご存知の国々もたくさんありますね。
考えようによっては道州制でも 連邦制でも 北海道は一国として人口があるということですね。
 

北海道の人口推移

2012-03-13 | 北海道自慢
道内の人口が全国1位になったことがあるとはあまり知られていません。
実は終戦時の1945年、それまで全国3位を続けてきた北海道の人口が352万人で東京都と大阪府を抜いて1位になったことがあります。
 
理由は疎開により北海道に人が集まったこと。しかし戦後は徐々に減少し、現在はトップ5にはいることはありません。1888年には全国最下位でしたが、これほど変動の激しい都道府県は北海道だけでしょう。
 
 1701年   20,086人(道南 和人限定)
 1869年   58,467人(開拓使設置・道南中心)
 1884年  227,900人(全国最下位)
 1890年  427,128人(以降開拓期に人口大量流入し急増)
 1900年  985,000人
 1908年 1,322,400人
 1912年 1,739,090人
 1920年 2,359,183人
 1925年(昭和元年) 約2,500,000人(全国3位)
 1935年 約3.070.000人(全国3位)
 1945年 3,518,389人(全国1位)戦争疎開があった。
 1955年 4.770.,000人(全国2位)樺太満州東北から戦後の流入
 1965年 5.170,000人(全国3位)
 1970年 5,184,287人
 1975年 5.340,000人(全国5位)
 1985年 5.680,000人(全国6位)

 1995年 5,692,321人
 2005年 5,627,424人(減少)
 2010年 5,500,000人(減少)
それでも 1910年からの100年間で 390万人増えたことになります。
 

北の歴史-北海道庁

2012-03-13 | 北海道自慢
近代行政機関の設置 

開拓使を置き換えるように北海道全体として初の近代行政区画・近代行政機関である函館県、札幌県、根室県の3県が設けられたが、当時は人口も少なく非常に偏った分布(特に道北の開発が困難)で3県体制が機能していないことから、1886年(明治19年)には道内全域を管轄する北海道庁が置かれた。

 
 
明治政府の政策により多くの人が移住し、道内各地に開拓の波が押し寄せた。
これにともない鉄道や国道が建設されたが、網走刑務所に代表されるように、懲役刑の一環として行われた面もある。石炭が産出されることから、数多くの炭鉱が開発され、輸送するための鉄道が縦横に張り巡らされた。もっとも、
 
和人の「開拓」はアイヌにとっては土地収奪と強制移住を伴うものであり、「日本による侵略」であったとする歴史もある。
 
現代
 
第二次世界大戦の後、1950年(昭和25年)、北海道を開発するため、
調査・立案及び実施に関する事務を担当する
北海道開発庁が総理府の外局として設置された。
 
その為、
北海道内には他県とは違い、北海道庁の北海道開発と 政府の北海道開発局と各地方に開発建設部が置かれ、二重の開発の仕組みがあった。
 
人口は第二次世界大戦の復員兵や、
旧植民地からの帰還者の受け入れ先として
北海道が注目され、人口が急増した。
 
私の記憶では石炭がエネルギーとして注目され 炭鉱がたくさん開発されたと記憶する。
それと四海の為、北海道の各港での豊漁が【缶詰などの水産産業】を興し、その働き手としての東北からの移住も盛んになった感じ。

集団移住3-会津藩と余市

2012-03-13 | 北海道自慢
余市町と会津藩

会津戦争、そして斗南移住

会津藩は幕末、京都守護職を拝命して過激攘夷派の取り締まりに当たっていたことから薩長の恨みは深く、城下はことごとく蹂躙され、藩士の家族の中には自刃するものまでいた。特に、会津藩筆頭家老・西郷頼母(たのも)一族の集団自決は有名である。さらに、白虎隊士中二番隊の飯盛山での自決、と、会津戦争はまさに日本の内戦中、一番悲惨な戦いだった。

1ヶ月に及ぶ篭城戦の末、会津藩は維新政府に降伏。松平容保ら藩主一族は終身謹慎、藩士らも東京移送、また在地にての謹慎となり、会津藩は取り潰されてしまった。

お家再興の申請を政府に対して何度も行った。その結果、1869(明治2)年9月に家名再興の許可が下り、1870(明治3)年には新たに下北半島、さらに陸奥三戸郡、二戸郡、後志の瀬棚郡、山越郡をあわせて3万石ということで斗南藩の設立が認められ、2800戸の藩士一族と藩主(藩知事)、松平慶三郎らは下北へ移住した。

だが、そこは農耕には不適な土地で、移住した藩士たちはここで辛酸をなめることになる。一方で、降伏した会津藩士の処遇についても政府内で意見がいろいろと出され、参議・木戸孝允らは会津士族たちを北海道開拓に使おうともくろんだ。そこで、当時兵部省の支配地だった札幌に移住させることにし、その準備に取り掛かった。

余市の誕生

1869(明治2)年9月に兵部省は会津士族100戸を小樽に連れてきた。これは当初、札幌を開拓させようという目論見があってのことだった。だが、札幌には開拓使が設置されている。おまけに当時、政府機関でありながら兵部省と開拓使の仲は険悪だったそうで、仕方なく兵部省は当別開拓に会津士族を投入することにした。


だが、翌1870(明治3)年、政府施策により兵部省は北海道支配から撤退。
そこで新たに設置された樺太開拓使に救済を嘆願した。当時、樺太開拓使の次官は黒田清隆で、黒田はいったん余市で待機させたのち樺太へ移住させて開拓に当たらせようと考えてこれを受諾。
一同、余市で樺太へ移住する日を待つことになったのだが、1年半後には樺太開拓使自体が北海道開拓使に吸収されてしまい、この話は立ち消えになった。

そこで開拓使では会津士族を余市に定住させることにし、以後開拓募移民ということで保護、指導を受けて余市の開拓にあたることになる。

さて、北海道に移住した会津士族の数だが、1869(明治2)年の時点で700人ぐらいで、戸数にして211戸だった。余市移住が行われたのは1871(明治4)年4月のことで、211戸中169戸が小樽から移り住んだ。翌1872(明治5)年には11戸が小樽から移住している。

当初、会津士族たちは慣れない農耕に苦しみ、脱落して札幌や小樽へ移住する者が続出した。そこで開拓使では男1日20坪、女1日8坪の責任開墾を奨励したがこれも効果なし。そこで、1873(明治6)年に開拓使は新しい開墾機械の導入と会社組織による農耕開拓の指導に入っている。
これを受け、黒川・山田の両村から札幌へ技術研修に向かう者が出て、更に黒川村農会社という会社が誕生。
これが会津士族にとっての組織的まとまりの根幹となったのは言うまでもない。


更に1875(明治8)年には、リンゴ、ブドウ、梨、スモモといった西洋の果樹の苗木が交付されたが、農耕技術が未熟な上に全く経験がない果樹栽培に、会津士族は大いに戸惑ったという。この苗木、会津士族だけでなく付近の漁民にも交付されたが、成果は黒川・山田両村がはるかに良かったらしい。

1880(明治13)年の農業仮博覧会にリンゴを出品。これが好評で、それ以降、余市町をはじめとする余市郡一帯では果樹栽培が盛んになっている。

また、かつての会津藩と同様に士族子弟の教育にも力が入れられ、余市移住後間もなく、藩校日新館が黒川村に1871(明治4)年に開校している。この日新館、学制公布後も続き、1873(明治6)年に郷学所と改称し、1877(明治10)年には沢町小学校として新たなスタートを切った。
会津人の朝敵、逆賊の汚名をそそぐという積年の思いは北の大地に結実していったのだ。

現在、余市町は人口2万人を数え、農漁業の町としてだけでなく宇宙飛行士・毛利衛さんの故郷として有名になり、多くの観光客が訪れるまでになった。さらに、ニッカウイスキー発祥の地でもあり、こちらに訪れる観光客も多い。また冬季札幌オリンピック・日の丸飛行隊:笠谷の金メダルは、冬季では日本人初の栄冠であり この地の者達の誇りである。


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