もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

我先

2011-09-17 08:54:00 | ブログ
いつからだろう?
表に出て、自己主張をするのが苦手になったのは。

思えば、今よりももっと若い頃は、数百人数千人の前で喋ることは全く平気だったはずなのに。
当時は、「これは自分しか出来ないことなんだ。自分は特別な人間なんだ」という圧倒的な自信を持っていた。
その自信はもうとうに消え失せ、今では、自分の小ささ、無能さを実感する日々である。

それもこれも全て、様々な人が「自分とは違う他者」であることを認識出来るようになったためではなかろうか。

これは「自分は特別な人間」と認識することと同義のようにも思われるが、実は全く違う。
「自分は特別な人間」と思う際には、その裏側に、「自分ではない(以外の)人間は、特別ではない人間」という考えがあるのであり、それは他者の存在の独自性を無視しているといえる。

本来ならば、自分とは違う存在であるから、当然、自分とは違う経験や思いをしてきているわけで、その神聖な過去には本人以外誰一人として、干渉することはできない。

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私はずるい人間だ。
自分が「大した人間ではない」と知っているゆえに、かなり素のままで居られるからだ。
その逆「私は大した人間である」と思える人は、よほど気力が強いか、気付いていないかのいずれかではないか。
私なら自分を保つことは出来ず、苦しい日々を送ることであろう。
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音楽

2011-09-16 05:32:00 | ブログ
音楽というものは、「時間」の概念が無いと存在出来ない。
更に言うと、「時間」に「変化」という要素が合わさらなければ、存在出来ない。

その要素なしで、それが音楽であるということを証明することは出来ないのではないか。

もし「無変化」であったなら、それは絵画であり、建築であろう。
しかし、「変化」を備えているのなら、それは生ものであり、まさしくその空間そのものの変化を全身で味わうものなのだ。

これだから音楽はやめられない。
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欠伸

2011-09-10 09:35:06 | ブログ
「欠伸」と書いて、「あくび」と読みます。

ふと気づきました。
あくびの「ふぁ〜ぁ」には、実はまだ文字化しにくい部分が隠れているのではないでしょうか。

「ふぁ〜ぁ……(むにゃむにゃ……んふー……)」

この後半の、「(むにゃむにゃ……んふー……)」はいったい何なんでしょう?
何も食べていないのに、なぜだか口の中で「むにゃむにゃ」してしまう。

・余韻を楽しむため?
・筋肉の緊張をほぐすため?
・あくびの一連の儀式?

これをしないと、あくびし終わった気がしないのではないでしょうか?
ということは、この「むにゃむにゃ」は、「あくび状態」と「非あくび状態」の境界に位置づけられるものとも解釈できます。

何なんでしょう……むにゃむにゃ……
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痛痒

2011-09-08 18:10:16 | ブログ
痛痒という言葉があります。

「痛み(いたみ)」と「痒み(かゆみ)」のことです。
例えば、小さい子がワーっとやってきてぽかぽかたたいたりしてきた時などに
「ふん、何の痛痒も感じぬわ!」というふうに使用します。

痛みは、感じなければ、死に関わる為、絶対に必要な感覚であろうと思います。
しかし一方で、痒みは、正直感じたくはない感覚です。

なぜなら、痒いと、ぽりぽりかいてしまうためです。
そのせいで時間も無駄になるし、動作も無駄になります。

もちろん、痒みを感じなければ、身体に起こった些細な、微細な不具合に頓着しなくなり、
その結果、不具合が悪化して、手がつけられなくなる、ということになってなりえます。

頭ではわかっています。
痒みだって、必要があって今日まで残ってきた感覚なのだ、と。
淘汰されてきての、選りすぐりの感覚なのだ、と。

でもとにかく、痒みは感じたくないのです。
「痒みを感じることができない身体」になるということではなく、
追求すべきは、「痒みの原因が発生しない身体」になるということではないでしょうか。

私はこのような結論へとたどり着きました。
さて、どうしたものか……
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広がり

2011-08-29 14:09:28 | ブログ
自らの可能性を求めて、出来る限り選択肢を多く持っておきたい、もっともっと広い空間がほしい、と望む気持ちは解らなくはない。
むしろそれは、人の欲求としては自然な流れであるとも、私は思っている。

しかし、こと自分と向き合う作業のような場合には広い空間や多い選択肢は無意味である。
さらに言うならば、そのようなものは自分の可能性を潰しかねないとさえ思っている。

思索や創作をする場合には、広い空間は必要ない。
狭い空間、その制限性からこそ、切迫感や、広がりが生じてくるのだと私は思う。
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準備

2011-08-28 07:37:27 | ブログ
イベントも、授業も何でもそうですが、準備が8割。
残りの2割は現場でのアレンジ。

それくらいしないと、舞台には立てないのです。
入念な準備をして、それでも本番は予期通りにはならないものです。

予期通りにならない部分を、現場でのアレンジでカバーするのです。
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紙切

2011-08-26 07:25:13 | ブログ
たった紙一枚が、法律的に効力を持ったり、一転して持たなくなったりしてしまう。
そんな恐ろしいものが契約書です。

言った、言わない、ということでもめるのはよくあることですが、これが仮に契約書の形になっているとそれだけでもう「法律」の庇護(表現を変えると「拘束」)を受けることになります。
しかしながら、見方を変えると、「法律」は往々にしてその国の「国民」である場合に適用されるものですから、その国とは全く関係無い人が、その書類を見てもそれはただの紙切れにしか思えないでしょう。

社会が、その紙切れに意味を持たせているのです。
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共有

2011-08-11 10:39:23 | ブログ
共有の無きところに共感はありえない。
情報でも、環境でも、あらゆること然りである。

感覚は、最終的には自分個人しかそれを味わうことは出来ないけれど、それでも想像力や過去の似た体験から共感をすることはできる。
情報や、過去の体験という、言わば「種」が無くて、想像力だけでどうしてその感覚を共にすることができようか?
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打消

2011-08-10 16:30:53 | ブログ
「〜ない」という認識をすることが出来るようになって、そこから人の思考は深まってきたのだと私は思う。
文化も科学も技術も今我々を取り巻く「社会」は、この「〜ない」の認識を基底に据えた思考により発展してきたといっても過言ではない。

目の前にある現実はただ厳しいものであり、その現実はいかに念じても、祈っても、思い通りに変わるものではない。
そんなことが出来るのは超能力である。
(その能力は我々一般人のそれと比べてはるかに超えているから「超」能力と呼ばれるのであって、超能力を持つ人と、我々一般的な能力しか持たない言わば凡人とを、同じステージに立たせて為されるいかなる議論も私は無意味と考える)

事柄の一面だけを究極的に見つめ続けることで、そのものの真価を発見する事に比べて、その事柄を多角的に見直す方がずっと労力少なくそのものの真価や新たな可能性を見出すことが出来る。

「打ち消すということでは何も生み出さないから、なるべくそういう風には考えない方が良い」とか
「たくさんの『無い』で自分を規定するのではなく、たった一つの『有る』を持つ方が強さになる」とか
そういうことが巷ではしばしば言われている。
その言葉そのものに罪はないだろうが、私はその「〜ない」という思考そのものを悪のように見なす傾向にだけは同意できない。

我々は、日々取捨選択を繰り返して生きていくうえで、必ずしも絶対的価値だけを根拠にして判断を下すわけではない。
むしろ比較検討し、相対的に価値を見出した上でそれを根拠に判断することの方が圧倒的に多いだろう。
「絶対的価値を見出せないならば、判断を下せない」なんて生き方をしていたら、それこそ生きにくくて仕方がない。

現実は厳しいのだ。
「〜ない」ということもまた現実である。
それなのに、別の「〜ある」ということを見つけなさい、意識しなさい、と言うのはそれは現実を覆い隠したただの絵空事ではないか。
「〜ない」を自分自身の事として【受け容れる】ことが重要なのであり、そのためには多くの見聞と精神的成熟が必要なのだ。(全部ひっくるめて「私」という人間なのだ、と思えるようになるということ)

「〜ない」を認識出来るということは、「〜ある」を認識(あるいは想像)出来ているということではないか。

その想像する力が、一番の原動力になると私は思う。
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お金

2011-08-07 20:02:02 | ブログ
お金が無いと、思うように買い物したり、娯楽を味わうことはできない。
それはどうしようもない事実として、眼前に横たわっていることだ。
「お金」は生きることに直結している。

世の、働く世代で、ある程度こころに余裕ができた人はこう言う。
「お金が無くても、自分で楽しいことを見出していくことによって、心の充実は味わえるのだ」

でも、その考えはには何かが足りない。
だから、私には説得力を感じ取ることができない。
それは、基本に「金銭からの解放」が無いままの発言であるためだ。
お金が無い人の発言ではない事が、なんとも妙な薄っぺらさを感じさせる。

古代中国の思想家たち(諸子百家)のように、自身の信ずるままに行動し(好き勝手に行動したというわけではなく、自分たちなりに世の中はこうすればもっとよりよくなるということを信じて、行動した、という意味)、その結果、その日の食べる物に困って、のたれ死んだ者も居れば、有力者から見出され、お抱えの識者として取り立てられて、自身の命をつなぐことが出来た者も居る。

「自然に溶け込むことがよい」「我欲を捨てよ」という言葉はよく耳にするが、それを発言している当の本人はどう行動しているのか?
例えば、今その身につけている服はどうやって手に入れたのか。
お金を使わないと主張するならば、盗んだとでもいうのか。
お金というものは、所有権の移行の契約をする際に用いるものであり、それを用いないということは、お金以外の方法で所有権を移行したということになる。言い換えるならば、「物々交換による契約(相互に持っている物の価値を同等と認め合った時にのみ成立する。)」か、そもそも契約など存在しない「強盗(欲のおもむくがまま一方的に奪い取る)」か、のいずれかである。

つまり、お金という「価値の媒体物」のお陰で、冷静にきっちりと把握できる形で所有権の移行が完了するのだ。
見方を変えれば、お金を用いない方が、我欲が強いというか、むしろ包み隠さないために、我欲がむき出しになってしまうとも言えるだろう。

我欲は、金銭から解放された程度ではぬぐい去ることができない。
常に私たちの身にへばりついているものである。
それゆえ、いにしえより思想家は我欲を捨てて真理を追い求める事に全力を注ぎ、その結果人知れず多くの賢人が命を落としてきたのである。
それほどまでの覚悟を伴わない発言は、私の目には「思慮の浅い発言だ」と映ってしまうのだ。

私は、「理想をそれらしく述べて、厳しい現実を隠そうとする姿勢」よりも、「現実はこうなのだ、ということを認めた上で、理想を語る」方が、よほど信頼性も高いし、説得力があると思う。

心の充実と、お金の事を並べて語るとき、どうしても「我欲」やら「反自然(即ち、『俗』)」やらという言葉が引き合いに出されるが、その実は、お金も悪いことはしない。
ただ、媒体物となっているだけである。
それを、「お金は……」と語られるのは、お金としても甚だ不本意であろう、私は思う。

お金はお金だ。
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