北信濃日記

北信州での出来事や日々の暮らしを綴った日記です。

10月の京都

2016年10月11日 | 観光

 療養生活の気分転換も兼ねて、10月6日から2泊で京都を訪れました。当初は奈良と合わせて、と考えたのですが、あいにく台風が来るとのことで日程を変更し、京都だけにしました。

 今回の旅行の目的は京都迎賓館の参観、特別公開を中心とした庭園と障壁画の拝観です。

 一日目の6日、夕方から京都迎賓館を参観しました。

(迎賓館正門 賓客はこちらから車で館内に入ります)

 迎賓館は京都御苑の一角に位置し、和風で統一された意匠は落ち着きがあり、周囲の景観に溶け込んでいます。海外からの賓客をもてなし、日本への理解と友好を深めてもらう目的で平成17年に開館した国の迎賓施設です。事前又は当日の申込みにより許可を得れば参観することができます。参観はガイドツアーで所要1時間、係の人が要領よく案内してくれます。

 館内は銘木がふんだんに使われ、名工による工芸品や調度品が惜しみなく備えられ、見る者を魅了します。


 「聚楽の間」と呼ばれるロビーには、西陣織と京指物の技術によって組み立てられた安楽椅子が並び、人間国宝の手による竹籠がさりげなく置かれています。


    

 こちらは「藤の間」。洋食の晩餐会や歓迎式典の会場として使われる、迎賓館で最も大きな部屋です。壁面装飾は綴折りの技法による織物で縦3.1m、横16.6mの大きさです。また、舞台の檜扉には截金(きりかね)が施されています。截金は金箔やプラチナを細かく切り、ニカワとフノリで張り合わせる伝統技法です。天井の照明は個別に動いて形を変えられるので、部屋の趣に変化をつけることができます。藤の間の舞台では舞・能や琴の演奏、雅楽などが披露されます。


 

 続いて「桐の間」。こちらは和の晩餐室。最大24人まで会食が可能で、賓客を京料理でもてなします。釘隠しや唐紙、座椅子など各所に「五七の桐」が見られますが、これは日本国政府の紋章で、京都迎賓館の紋章でもあります。座卓は長さが12mの一枚もので、鏡のように磨き上げられた漆が床の間の掛け軸を映します。それぞれの座椅子の背に「五七の桐」が描かれていますが、同じものはありません。


 また、目を転じてみると、障子の縦縁も木目があうように配慮されていました。


        

 各部屋は庭園を囲むように配置され、どの部屋からも庭の景色が楽しめます。


 日本の伝統技能の素晴らしさにふれた1時間でした。ただ欲を言わせてもらえば、参観者が動ける範囲を示したり、床を傷つけないようにする方法がテープやマットといった無機質なものではなく、もう少し雰囲気を壊さないように工夫されていれば、さらに満足できたかもしれません。そのせいか、現代の名工や人間国宝による個々の作品からは高度な技術と芸術性が迫ってくるのに対し、部屋、廊下など空間全体からは完成度の高さや洗練さといったものが伝わってきにくいように思いました。


 


 

 二日目。大徳寺を訪れました。

 

   

  開門時刻を過ぎてすぐであったため、塔頭「聚光院」で催されている特別公開を拝観することが出来ました。本来は予約制なのですが、空きがある場合に限り拝観が許可されています。予約なしだった私たちはダメで元々と思っていたのですが、運がよかったようです。

  ここでの見所は狩野松栄・永徳親子の障壁画46面です。すべてが国宝に指定されています。これらの絵は修復等のため京都国立博物館に寄託しているものですが、創建450年を記念して里帰りしたとのことです。天才といわれる絵師の作品を本来あるべき場所に収まった状態で拝観できるのは、この上なく貴重なことです。

 礼の間「瀟湘八景図」、衣鉢の間「竹虎遊猿図」、内陣小襖「蓮池藻魚図」が松栄の筆によるもの、本堂中心の室中「花鳥図」、檀那の間「琴棋書画図」が永徳の筆によるものです。松栄の軟らかいタッチで部屋全体を包み込むような作風と、永徳のはっきりとした自己主張の強い筆遣いが対照的です。昭和54年にパリのルーブル美術館から「モナリザ」が来日しましたが、その返礼としてフランスで展示されたのが、この聚光院本堂の障壁画であったそうです。

  千利休の菩提寺である聚光院には「閑隠席」「枡床席」という二つの茶室も備わっています。また、方丈庭園「百積庭」は狩野永徳が下絵を描き、利休が整えたと伝わっているそうです。

(方丈。中央が「室中」、右が「礼の間」、左が「檀那の間」 聚光院特別公開パンフから転載)

 

 

(方丈庭園「百積庭」。 聚光院特別公開パンフから転載) 


 続いて大徳寺本坊を拝観。こちらも特別公開中でした。見所は方丈(国宝)、石庭(特別名勝庭園)、唐門(国宝)です。

 

 方丈は伸びやかに軒を広げ、その前面には枯山水の庭。その向こうに唐門。仏殿、法堂などの大徳寺諸堂が中国風なためか、方丈と庭は一体となって和の心を感じさせてくれます。唐門の極彩色の彫刻や鮮やかな金具類が、庭の白砂によく映えています。同じく公開されている方丈襖絵、法堂天井の龍は狩野探幽の筆によるものだそうです。

(国宝「方丈」。  大本山大徳寺パンフから転載)


(国宝「唐門」と特別名勝庭園。  大本山大徳寺パンフから転載)


 


 特別公開寺院の拝観はここまでで、この後は平時に公開されている塔頭を拝観しました。

 大徳寺の塔頭の多くは戦国武将と切っても切れない関係にあり、その文化的側面として茶の湯との関わりも強くなっています。これから拝観する龍源院は畠山義元・大友義長ら、瑞峯院は大友宗麟、高桐院は細川忠興によって創建されたものです。

 方丈を囲む庭はそれぞれの趣を呈し、その違いを感じながら三塔頭を巡りました。高桐院は一面苔の庭が方丈前に広がり、ほっと心の緊張が緩む優しさを感じます。瑞峯院の豪快な波の高さを持つ白砂には身が引き締まる思いがしましたし、究極の庭とも言うべき龍源院の壺庭の奥深さも印象的でした。

(高桐院 参道)


(高桐院 客殿庭)


(瑞峯院 独坐庭)


(瑞峯院 閑眠庭)


(龍源院 方丈前石庭)


(龍源院 東滴壺)



 いつも思うのですが、大徳寺は勅使門、三門、仏殿、法堂が一直線にそろい伽藍として立派なのですが、これらの堂宇の存在感が私にはあまり感じられません。それは三門がいつ来ても閉ざされ、生垣によって仏殿と法堂もそばに寄り難くなっているうえに、松などの樹木がそれらの姿を隠しているせいかもしれません。それと魅力的な庭を備える塔頭が多く、どうしてもそちらに興味が行ってしまうせいもありそうです。

(大徳寺三門。1526年に初層が完成し、1589年に千利休の寄進により上層が完成。扁額に書かれた「金毛閣」は上層部分を指します。上層に置かれた利休の木像が秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の一因になったとか、天井龍が言わば大徳寺のお抱え絵師である狩野永徳ではなく、長谷川等伯によって描かれ、両者の敵手関係がさらに深まったとか、いろいろと伝えられている三門です)

 

 

 余談ですが、瑞峯院でのこと。拝観したい旨を告げると受付の女性がなにやら神妙な顔をしています。どうしたことかと思っていると「失礼ですが、どちらかのお坊さまですか」。こんなことを聞かれてこちらの方が驚きましたが、禿頭で左手に数珠とくれば無理はないかもしれません。坊さま?と聞かれたのは、少なくとも体の具合が悪そうには見えなかったからであり、何となく嬉しく思えました。


 拝観開始時刻に合わせて大徳寺に入りましたが、そんなこんなで気が付けば昼食もとらずに1時半になっていました。




 大徳寺を後に、市バスで銀閣寺に向かいます。

 「銀閣寺道」バス停から銀閣寺に向かうと、参道の両側には土産物店や飲食店が並び、想像していたとおり観光客でいっぱいでした。

 銀閣寺は東山に続く斜面に立地していて「前身は足利八代将軍義政が造営した山荘『東山殿』である」との説明がなるほどと頷けます。銀閣寺では特別公開をしている東求堂を拝観するのが目的です。

(銀閣)


 係の人に案内され堂内を巡りますが、東求堂拝観の前に方丈(本堂)で与謝蕪村、池大雅の襖絵を鑑賞します。江戸時代中期に活躍した著名な絵師の作品を間近で目にすることができます。


  (東求堂)   (東求堂の庭)

  (同仁斎  銀閣寺パンフから転載)

 東求堂は銀閣(観音殿)と並んで国宝に指定されているもので、足利義政の持仏堂です。歴史の重さと美しさを感じさせる仏間。また、四畳半の茶室「同仁斎」は草庵茶室の源流であり、四畳半の間取りの始まり、とも言われているそうです。同仁斎の障子を大きく空けると庭の緑が鮮やかに目に飛び込んできます。そして障子の空きを狭くすると、掛け軸に描かれた絵のような景色に変わります。障子一つのもつ意味の大きさを考えさせられる光景でした。

 それにしても銀閣寺は人で混み合っていました。来る前からそんな予感はしていたのですが、これほど人がいると騒々しくてゆっくりと拝観、というわけにはいかないようです。


 



 三日目。ホテルを後に地下鉄とバスを利用して東山七条へ。行先は智積院です。

 真言宗智山派の総本山で末寺は三千に及ぶと説明にあります。智積院では長谷川等伯の障壁画と名勝庭園を拝観します。昨日の聚光院と同じく今日も拝観開始時刻を過ぎて間もないので、人もまばらでした。ここの受付でも瑞峯院同様の坊さま事件がありましたが、またまた元気な善人に見えたからだろうと解釈して、いい気分になりました。


 長谷川等伯とその一派による障壁画は収蔵庫に保管・展示されています。等伯による「楓図」「松に秋草図」「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」、等伯の息子である長谷川久蔵の「桜図」、いずれも国宝に指定されています。思ったよりも金泥は薄れている感がありましたが、いずれも豪華絢爛とした堂々たる作品です。ただ「楓図」「松に秋草図」には、力強さのなかに可憐さや儚さといった思いが湧いてきましたが、これは私だけのことでしょうか。

 収蔵庫にはこれらの障壁画のみが展示されているのは、鑑賞する者にとっては見やすいので有難く思えます。長谷川等伯は16世紀後半、狩野派を率いる狩野永徳と強烈なライバル関係にあったそうです。昨日は永徳、今日は等伯、二人の作品を見比べられるのはとても良い巡り合わせだったように思います。


 障壁画の後は、大書院で名勝庭園を鑑賞します。築山の背後に山の緑が連なり、それらの手前に小振りな池が配されています。緑が目に優しく、人がいない静寂な環境の中で落ち着いて名園を眺められるのは、至福のひと時です。



 また大書院には、先ほどの長谷川等伯一派による障壁画の複製が飾られています。


 ついつい時間が経つのを忘れそうになるところ、隣接する講堂に回ります。講堂には平成20年に奉納された60枚の襖絵があります。東京芸大名誉教授田渕俊夫画伯の作品だそうで、日本の春夏秋冬を題材にした水墨画です。墨の濃淡でこれほどまでに奥深く神秘的な絵が描けるものなのかと、驚きます。と同時に日本人の精神性をも意味しているようで、画面に吸い込まれるような感を覚えます。今ではいろいろな寺院で新しく描かれた障壁画を寺宝とする動きがあるやに聞いていましたが、昨日聚光院で鑑賞した千住博画伯の大作「滝」もそうでありましたし、こちらの障壁画もまさにその動きの一つと思われます。

(講堂)


 智積院では静かな雰囲気のなか、障壁画、名勝庭園を堪能することができました。




 智積院の次は西本願寺です。京都駅で市バスを乗り換えます。西本願寺はこれまで拝観してきた観光色のあるお寺と異なり、人々が心からお参りするお寺です。一般的に西本願寺と呼んでいますが、正式には「龍谷山本願寺」と言うそうです。

      

(左:国宝「阿弥陀堂」  中:国宝「御影堂」  右:「阿弥陀堂門」参拝団体か次々に記念写真撮影)   


 御影堂、阿弥陀堂ではいずれも法話が行われ、全国から訪れる檀信徒、そのお世話をしている関係者で境内は熱気すら感じます。西本願寺では一昨年に門主の代替わりがあり、関連の法要が今年から来年にかけて行われているためでもあります。

 どちらかというと寺宝巡りをしている私たちにとっては、この熱気は驚きでした。

 寺宝という点では西本願寺は阿弥陀堂、御影堂、唐門、飛雲閣、書院が建築物として、また親鸞聖人影像や歌集といった絵画、書も国宝指定を受けています。今日拝観の機会がなかった宝物にも機会があればぜひ接してみたいものです。



 

 新幹線の時間にまだ少し余裕があったので、東本願寺にも足を延ばしてみました。東本願寺というのもやはり一般呼称で、正式名称は「真宗本廟」とのことです。


     

(左:奥が御影堂 手前が阿弥陀堂   中:「御影堂」  右:「阿弥陀堂」)

 こちらは大々的な法要もなく、思いのほか静かでした。それにしてもこのお寺、御影堂門をはじめ阿弥陀堂、とくに御影堂の大きさたるや圧倒されます。間口が76m、奥行が58m、建築面積では世界最大の木造建築とのことです。現在の御影堂は1895年に完成しました。西本願寺もそうでしたが、いずれも本堂である阿弥陀堂よりも御影堂の方が大きくなっているのですが、これは本願寺がそもそも宗祖親鸞聖人の廟堂として始まったためと言われているそうです。

 

 


 

 10月の京都は暑さもなく、紅葉シーズンには間があるため空いていて旅行しやすい、なんて勝手に思っていましたが、どちらも外れました。それに体調も万全ではなかったせいもあり、これまでで最も疲れた京都旅行でした。それでも当初の目的を達し、心が豊かになったような充実した三日間でありました。



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