旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

コサック

2016年04月30日 12時18分24秒 | エッセイ
コサック

 そう、今回はコサックダンスのコサック。コサックと聞いてみんな何が頭に浮かぶ?コサックダンスとか言うなよ。大きな筒型の毛皮帽をかぶりベルトに曲がった大きなサーベル、ブーツを履いて口髭、馬に乗って銃を放ち、突然襲ってきては素早く立ち去る。モスクワを厳冬期に撤退したナポレオン軍にしつこく付きまとい、隙を見ては掠奪を繰り返す。恐るべき敵で、その戦闘能力の高さには目を見張らざるを得ない。
 しかしコサック兵、コサック騎兵とは言うが、コサック人やコサック語とは聞かない。楼蘭やその他の多くの遺跡を発見し、トランスヒマラヤ山脈の名付け親、いくつかの大河の源流を突き止めたスウェーデンの探検家、スヴェン・ヘディン氏の交友録を読んでいて??
 ロシア最後の皇帝ニコライ2世は政治を度外視してヘディンに好意を寄せた。ヘディンが第二回中央アジア探検に出発する際、ニコライ2世に挨拶に行くと彼は探検の費用の一切を持ち、コサック兵25名を護衛として貸してくれるという。探検の成果は全く条件にしていない。ヘディンは仰天した。中立国スウェーデンの学者として、刻々と変わるアジア情勢の中イギリス、中国、ロシアの危うい均衡を縫って旅するヘディンにとっては有難迷惑以外の何物でもない。コサックの正規兵を25名引き連れてロシアの代表のような度をしてはインド、アフガニスタン、後にはチベットに勢力を持つイギリスを敵に廻すことになる。しかしニコライ2世の好意を無視は出来ないと考え、ヘディンは4人だけコサック兵を借りることにした。彼らは数年間ヘディンと旅するが、実に優秀な従者となる。そのコサック兵のうち2人はロシア系、2人はモンゴル系だったという。ってどういうこと、コサックって民族の名称ではないの?違うんだな、コサックはウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事共同体、またはその一員のことだ。
 自分は漠然とカザフスタンのカザフ人の事かな、と思っていたがこれは間違い。「Cossack」の語源に定説は無いが、有力な説としてウクライナ語のコザークはクリミア・タタール語(トルコ語の親戚)のカザークに由来し、「自由人」「冒険家」「放浪者」(又は「番人」「盗賊」「傭兵」)を意味するそうだ。凄い、番人を除いてどれも素敵だ。

*ニコライ2世:この人、アレクサンドル2世の息子で母はデンマークの王女です。母方の家系でドイツのヴィルヘルム2世とイギリス国王ジョージ5世とは従兄弟になる。ジョージ5世とは入れ替わっても分からないほどよく似ていたそうです。アレクサンドル2世の母親はドイツ人だから、ニコライ2世には少なくとも1/4しかロシア人の血は入っていない事になるな。彼の妃がまたドイツ人(プロイセン)貴族の娘だから、子のロシア人率は多くても1/8になってしまう。宮廷内の会話はフランス語だというし、これではまるでロシア人であることを恥じているかのようだ。

 コサックの起源については良く分かっていない。15世紀も後半になってからコサックはウクライナの中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流ザポロージャ地方に根拠地を置いた。そして16世紀になってコサックの一部はドン川下流に移住した。初期のコサックは、没落した欧州諸国の貴族と遊牧民の盗賊によって構成され、河川が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、黒海・アゾフ海の北岸地帯で掠奪行為を行い、東欧においてはキリスト教徒(ロシア正教)としてイスラムの諸勢力と戦った。
 やがてコサックは大きく2つの軍事的共同体に分かれる。ザポロージャ・コサックを中心としてドナウ・コサック、クバーニ・コサックを併せたウクライナ・コサックと、ウクライナ人・南ロシア人やタタール人(モンゴル系)などによって構成されたドン・コサックだ。ウクライナ・コサックのモットーは「自由と平等」。16-17世紀には神聖ローマ帝国とフランス王国の傭兵としてヨーロッパでの戦争に活躍する。1708年の大北方戦争ではスウェーデンと同盟を結び、ロシアに激しく抵抗するが敗れ解体された。一部は黒海方面、トルコ領、カフカース方面に遁れるが多くは農民に戻った。(と簡単には言えない。多くの方面のコサックはその後も独自に活躍している。)
 一方、ドン・コサック軍はさんざんロシアに対し反乱を繰り返したが、17世紀半ばにロシア帝国の国力増強に伴って独立を失い、19-20世紀にかけてロシア最大の非正規軍となった。ロシアにおけるコサックは、貴族・聖職者・農民・商人と並ぶ階級の一つとなり、税金の免除と引き換えに騎兵としての兵役の義務が課され、ロシアの行ったどの戦争でも戦っている。
 1917年にロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、ウクライナ、ドン、クバーニにおいてコサック三国が独立を宣言する。特にドン・コサック軍は150万人の兵力を持ち、反革命の白軍中最大の勢力となり、赤軍に大きな損害を与えたが敗北しトルコに亡命する。その後は帰国したりアメリカに移住する者が多かった。赤軍の手によって人口440万人の70%に当たる308万人が戦闘・処刑・流刑で死に、残りはスターリンが始末した。帝国時代、情け容赦なく革命勢力を蹴散らし暴動を鎮圧したコサックは、ボリシェビキから恨まれていただろう。そして自由を標榜し自らの判断で行動するなど、スターリンにとっては悪魔の所業だったのだ。
 そのため第二次世界大戦においてコサックの残党の多くは、ドイツ軍に味方してソ連軍と戦ったが敗戦。戦後コサックは共同体としては消滅した。しかし1991年にソ連が崩壊し、ウクライナとロシアにおいてコサックの復帰の動きが見られる。
なお日露戦争に極東駐在のコサック諸軍が動員された。コサックの騎兵は優秀だったが、ロシア軍の司令官の用兵のまずさからその能力を活かすことが出来なかった。コサックの一部は旅順防衛戦に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。日本軍を苦しめたコンドラチェンコ中将はウクライナ・コサックの家系である。
 まあ機関銃と大砲、飛行機の活躍する時代になっては騎兵隊の出番はない。コサックの活躍を見ていると、オスマン帝国の皇帝親衛隊イェニチェリを思い浮かべるが、イェニチェリは世襲しないしコサックの方が規模はでかい。敵にすれば恐ろしく、味方にすれば実に頼もしい連中だ。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ファランクス | トップ | シリーズ物 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事