旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

ええじゃないか

2016年12月28日 17時30分18秒 | エッセイ
ええじゃないか

 江戸260年、島原天草の乱とシャクシャインの反乱以降、幕末に至るまで戦争が無い日々が続いた。世界の近代の歴史を見ても、これほど長い平和な年月は珍しい。アジア・アフリカ・中南米の国々は植民地として悲惨な日々を送った期間である。
 江戸時代と一くくりにすると始まりも100年後、200年後も同じような日々が続き、金太郎アメのように代わり映えのしない生活を送っていたように思える。或る意味そうであった。ルネサンスも産業革命も日本では起きなかった。参勤交代も武士のならわしも元の意味は忘れ去られ、古くからの仕来たりを守ることに汲々とする毎日であった。決まりごとを守ること自体が目的とされる形骸化された建て前社会になった。
 しかしそんな中でも新しい産業、新規の需要は徐々に生まれ、士農工商という身分制度は実態に合わなくなっていった。だいたい戦争も無いのに武士が多すぎる。欧州の騎士・貴族が千人に一人なら、日本の武士は十人に一人だ。行政官僚と考えても多すぎる。しかも行政区分が幕藩体制では細か過ぎて、実に非効率的だ。
 江戸時代の人口を見てみよう。前期1650年(慶安3年)当時の日本の総人口は、1,781万人であった。それが55年後の1705年(宝永2年)には2,769万人に増えている。中期1750年には3,110万人、後期1850年には3,228万人と1.8倍に増えているのだ。寒冷期で大飢饉が何度か来たのにも係わらず、人口が大幅に増えたのには米の品種改良(寒さに強い、病に強い、作柄が多いetc)と、サツマイモ、ジャガイモ、カボチャやスイカ等の新品種の普及が大きな役割を果たしている。
江戸の和算が世界の数学のトップレベルであったように、江戸のバイオ技術も相当のものであったようだ。朝顔の品種改良に凝って様々な変わり朝顔を作り、競ったのも江戸時代だった。しかし新品種や改良米はどのようにして普及したのだろう。それに役だったのが、お蔭参りであった。

お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣のこと。数百万人規模のお蔭参りが、およそ60年周期(おかげ年という)で3回起きている。お伊勢参りで抜け参りともいう。最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、また子供が親に内緒で参詣した。江戸末期に、勝海舟の父親の勝小吉が親に無断で参詣している。伊勢神宮のお守りやお札を持ち帰れば、おとがめ無しだった。信心の旅ということで沿道の施しを受けることが出来た。
江戸からは15日間、大坂から5日、名古屋から3日、東北地方や九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかっている。当時庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどお咎めなしだった。集団ヒステリーのような大参拝を除き、通年の参拝には相当な旅費がかかる。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは難しい。そこで「お伊勢講」という仕組みが作られた。
「講」の所属者は定期的に集まって金を出し合い、それを合計して代表者の旅費とする。代表者は「くじ引き」で決められ、当った者は次回からはくじを引けない。続けていけばいずれ全員がお参りに行ける仕組みだ。これなら貧しくても一生に一度は旅行が出来る。江戸が終わっても無尽講の仕組みは生き続けた。講は戦後GHQによって賭博行為と見なされ解散させられた。GHQには理解不能な仕組みだったんだろう。
戦国の世では寺院巡礼は、現世に絶望し来世の平安を祈るものだったが、江戸のお蔭参りは現世利益というか観光旅行になった。ガイドブックや旅行記が発行され、出発時には盛大な見送り、無事に帰れば帰還の祝いが行われた。参詣者は道中の名産品や最新の物産をお土産にする。またお蔭参りは最新のファッションや農具、音楽や芸能の普及にも貢献した。
集団旅行には添乗員が必要だ。お蔭参りを極めてシステマチックに運営したのは御師(おんし)だ。御師は数名ずつに分かれて各地に散らばり、農村部で伊勢暦を配ったり、豊年祈願を行って初穂料を受け取った。旅行団が来ると、担当の御師が自分の宿屋でもてなす。豪華な食事に歌舞、絹の布団に寝かせて観光ガイドに努める。
伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良した新種の種を持ち帰った。これが品種改良の稲が全国に広がった仕組みである。幕府がそこまでの効果を知ってお蔭参りを許可したのかは疑問だが、窮屈な日常の中で為政者への不満が溜まらないようにガス抜きの効用を期待したことは確かだ。ところが明治政府は御師の活動を禁じ、お伊勢参りは急速に廃れた。民衆のエネルギーが恐かったのか。

本来お蔭参りとええじゃないかは別物だが、60年に1度数百万人(1705年330~370万人、1771年200万人、1830年427万6,500人)が自然発生的に集まる、その凄まじい民衆のエネルギーには共通するものがある。
ええじゃないかは、江戸末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。意外と短期間だ。そして関東では発生しなかった。「天から御札(神符)が降って来る。これは慶事の前触れだ。」民衆が仮装するなどして、「ええじゃないか」を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
岩倉具視によると、京で神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカト、8月下旬に始まり12月9日王政復古発令の日に止んだ。歌詞は各地で作られ、「今年は世直し、ええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直しはええじゃないか、豊年踊りはお目出度い」(阿波)、「御かげでよいじゃないか、何でもよいじゃないか、おまこに紙張れへげたら又はれ、よいじゃないか」(淡路)、「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか」(備後)
空から降って来るものは神仏のお札だけでなく仏像、貨幣、生首や手、足など。こんなん降ってきたら嫌じゃ。ひと頃空からオタマジャクシが降ってきた(極く小規模)とかいうニュースが流行ったのを思い出した。魚の卵が大量に空に巻きあげられ、雲の中で孵化して小魚の雨になった事件があるそうだ。
ええじゃないかは、倒幕派が仕掛けた陽動作戦ではないかと疑われている。逆に幕府が仕掛けた『ガス抜き』説もある。鳥羽伏見に向かう長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いたともいう。しかし政治を操る者の思惑がどうであれ、小さな火種で爆発するような巨大なエネルギーが民衆の内に溜まっていたことは間違いない。世の中が大きく変動する時、思いもよらないような出来ごとが起きるものだ。今ええじゃないかが発生したら、俺は真っ先に飛び込むね。
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