旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

ペトロ岐部

2017年04月01日 14時56分04秒 | エッセイ
ペトロ岐部

 ペトロ岐部(きべ。本名、岐部茂勝)、この人は凄い。1587年(天正15年)、豊後国国東郡の岐部(現大分県国東市国見町岐部)で、父ロマーノ岐部、母マリア波多の元に生まれた。戦国末期、激動の時代だ。
 父は戦国大名、大友氏の重臣で豪族岐部氏の一族。母方も大友氏の重臣波多氏で、宇佐八幡の神官をしていた。しかし熱狂的なキリシタン大名であった大友氏は1588年、秀吉による伴天連追放令に従って棄教する。その後大友氏は、秀吉によって豊後国を没収され、さらに関ヶ原の役後黒田と戦って敗れた。ペトロ岐部の父はこの合戦で亡くなり、一家は没落する。
 ペトロ岐部は1600年、長崎のイエズス会のセミナリオに入学し勉学の日々を過ごした。修了後、伝道師としてヨーロッパ人宣教師の下で働く。そして1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令によりマニラに追放され、次いでマカオに移る。27歳であった。マカオでは司祭(神父)になるべくラテン語と神学を学んだ。しかしマカオの上長は日本人に偏見を持ち、司祭になることを認めない。
 マカオには他にも日本人のキリシタンがいて、共に勉強していた。彼らはマカオの上長に反発し、独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意して、マカオのコレジオ(神学校)を脱出した。マカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」との手紙が送られた。どこの社会にも、このようにクソ意地悪い奴がいる。意地悪、いじめは日本の専売特許ではない。ペトロ岐部と共にマカオを脱出してゴアに渡ったのは、マンショ小西とミゲル・ミノエスだった。3人をマカオで支援したのは、原マルティノである。

○ミゲル・ミノエス
 慶長2年(1597年)美濃国に生まれたらしい。マンショ小西と共にゴアから喜望峰を経てポルトガルに到着。コインブラ大学で学び、日本人として初めて哲学の学位を与えられた。さらにローマに渡って元和7年(1621年)イエズス会に入会。聖アンドレ修練院に入学。1626年ローマで司祭に叙階されるが、日本への帰国を果たさぬうち1628年リスボンで死去した。享年31歳。

○マンショ小西
 慶長5年(1600年)小西マリアの子として対馬に生まれる。実父は対馬藩主・宗義智。母は小西行長の娘である。両親とも大名という凄い血統だが、小西行長が関ヶ原で死に、宗義智は母子を追放した。その為に母方の姓を名乗っているものと思われる。
 ポルトガルに到着してからの行動は、ミゲル・ミノエスとほぼ同じで寛永4年(1627年)司祭の位を得た。寛永9年(1632年)に海路日本に帰国し、畿内で布教活動を行った。この時日本国内にいた司祭の中では、序列第4位で上位3名はヨーロッパ人だった。正保元年(1644年)に捕爆され処刑され殉教した。彼の死により正式に叙階された日本人司祭は、明治になるまで不在となった。
マンショ小西が聖アンドレ修練院入りした時の所持品記録によると、やたらと衣服を持っていてリッチだったようだ。海外に散らばる小西行長の残党が、若殿に援助したのか。推測の域を出ないが。

○原マルティノ
 キリシタン大名、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信の名代として、イエズス会の依頼を受けてローマに派遣した天正遣欧少年使節4人の内の一人。使節の少年4人の中で最年少であったが、語学に長けていた。ローマからの帰途、ゴアでラテン語の演説を行い有名になった。1590年、日本に帰国し翌年聚楽第で豊臣秀吉に謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたがみなそれを断った。
 1601年神学の高等過程を学ぶため、マカオに3人(伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン)で行き、1608年そろって司祭に叙階された。千々石ミゲルは信仰を捨て、武士に戻った。少年使節団はヨーロッパで一大センセーションを巻き起こす熱狂的歓迎を受けた。カトリックはプロテスタントとルネサンスの影響を受け、また中央集権国家は宗教を政治から切り離し始めた為、沈滞していた。そこへ現れた東洋の聡明な少年達。教皇グレゴリウス13世は涙を流して少年達を迎えた。しかしこの教皇は謁見後、数十日で病死してしまった。また教皇に謁見した少年は3人である。1名病気だったこともあるが、東方の三博士にちなんで3人にしたらしい。
 ラテン語に優れ、語学の才がある原マルティノは宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版に携わり、小西行長や加藤清正とも折衝にあたった。1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けてマカオに行き、日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西やペトロ岐部らがローマを目指した際に援助した。1629年死去。遺骸はマカオの大聖堂の地下に葬られた。

 ペトロ岐部は何故か同行の二人と別れ、一人で陸路を採った。仲違いした?しかし欧州で再会した後は仲がよい。船賃が無かった?否、マンショ小西は金持ちの坊ちゃんだ。彼が意地悪をして船賃を出さないとは思えない。小西は最後に処刑された日本人司祭だ。義に厚く、信頼を寄せられている。となると、やはり岐部は聖都エルサレムを巡礼したかったからではないか。地図も無く、前途遥かなエルサレム。灼熱の印度を北上し、極寒のカシミールの峠を越え、茫漠たる草原と砂漠をいくつも乗り越え、乞食巡礼としてひたすら目指す聖都エルサレム。
 ペルシャからオスマン帝国へ、道はずっと回教徒の街が続く。現在のアジアハイウェーを西に向かい、ホルムズ、バグダードを経てダマスカス。ゴラン高原を横切ると、ついにオスマン帝国の勢力下の聖都エルサレムに着く。到着した時は、彼にしか分からない感激があったことだろう。日本人として初めてエルサレムを訪れた岐部は、ゴアを出てから3年をかけてヨーロッパにたどり着いた。
 彼はイエズス会による審査を受け、司祭に相応しい適性と充分な学識を備えていることが認められた。1620年、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、32歳で司祭に叙階された。さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院で2年間、イエズス会士としての養成を受けた。そして1623年、20人のイエズス会士と共にインドを目指す旅に出る。はるか喜望峰を回り、翌年ゴアに着いた。
 岐部は殉教を覚悟して日本への渡航を希望する。しかし江戸幕府は、キリシタンへの弾圧を強化し宣教師の入国は厳禁されていた。岐部は日本への便を求めて6年間、東南アジア各地を廻る。シャムでは、日本に帰航する朱印船や中国船に乗ろうと2年機会を待つが果たせない。そして1630年、マニラから日本に向かう船に乗り込み、難破しながらも薩摩の坊津に上陸する。日本を出てから16年振りであった。
 島原の乱が起きるのは1637年だ。この乱が契機となり、幕府は鎖国をする。岐部は潜伏し、迫害と摘発を逃れつつ長崎から東北に向かい信徒を励ます。雌伏すること9年、仙台でキリシタンの家に匿われていたところを密告され捕縛された。江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵に対面すると、逆に忠庵に信仰に戻るよう勧めた。
 岐部は説得に応ぜず、また激しい拷問に屈せず、最期は浅草待乳山聖天近くの空き地で穴吊りにされた。穴吊りっていったい何をされるんだろう。彼は隣で吊るされている信徒を励まし続けたため、穴から引き出されて腹の上で火を焚かれて殺された。享年52歳。隣にいた信者は、岐部の処刑後たまらずに棄教した。こうして稀代の旅行家、ペドロ岐部は亡くなった。
 知る人ぞ知るペトロ岐部だったが、ローマ教皇庁は2007年、ペトロ岐部および日本における殉教者187名の列福を決定した。2008年に列福式が長崎で行われ、「ペトロ岐部と187殉教者」として福者に列せられた。福者(ふくしゃ Beatus)はカトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号、この称号を受けることを列福という。そしてさらに列福調査が行われて、聖人に列せられることもある。福者は聖人予備軍なんだね。
 福者には、天正少年使節4人の中で唯一、日本で殉教した中浦ジュリアンも入っている。キリシタン大名の高山右近も福者になった。殉教が条件ではないんだ。しかし何故かマンショ小西が外されている。あれほど功績は大きいのに。その理由を知っている人は教えて。教えてくれるなら、教皇様でもよいよ。
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