旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

高山右近とキリシタン大名 - 蒲生氏郷編

2017年04月21日 08時48分42秒 | エッセイ
高山右近とキリシタン大名 - 蒲生氏郷編

○ 蒲生氏郷(1556-1593)--- この男は格好良い。37歳で死んでしまうのが惜しい。もし戦国の世で、主君を選ぶとしたら貴方は誰にする?自分は断然蒲生氏郷だ。蒲生氏は、藤原秀郷の系統に連なる鎌倉時代からの名門だ。六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれた。六角氏が滅亡すると、賢秀は氏郷(幼名・鶴千代)を人質に差し出して信長に臣従した。信長は鶴千代に会って言う。「蒲生が子息目付常ならず。只者にては有るべからず。我婿にせん」美濃三人衆の一人、稲葉一徹も少年の時の氏郷を見て、その器量を認めている。
   氏郷は禅僧に師事し、儒教や仏教と学び武芸を磨いた。元服の際は、信長が烏帽子親となった。14歳で初陣を飾り、信長の次女を娶る。その後は織田軍の主要な戦いにことごとく参戦した。信長が本能寺の変で自刃すると、信長の一族を保護して明智光秀に対抗する。氏郷の日野城は次の攻撃目標にされていたから、秀吉の中国大返しとそれに続く山崎の合戦が無ければ、兵力差からいって氏郷は討ち取られていただろう。
   その後は秀吉に従い賤ヶ岳の合戦、小牧・長久手の合戦で活躍する。氏郷は合戦では常に先頭に立ち、積極果敢に戦った。その後も紀州征伐、富山の役に参戦し、伊勢松ヶ島12万石を与えられた。九州征伐、小田原征伐に参戦。九州では前田利長と共に岩石城を陥とし、小田原では急な夜襲を受け、単身で敵の背後に回り槍で敵兵を次々と討ち取った。
   一連の統一事業に関わった功により、会津に移封され42万石、後に加増され92万石の大領を与えられた。これは伊達正宗を抑えるための配置で、当初は細川忠興が候補になったが辞退したために、氏郷が封ぜられた。忠興は自信が無いと言って辞退したが、本音は中央を離れて僻地に行きたくなかったのだろう。氏郷も一度は断ったが、これ以上の辞退は秀吉の気色を損ねると分かり受諾した。氏郷は、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では武功の機会が失われると泣いたそうだ。移封の際、氏郷は秀吉に条件を一つつけた。「自分は武功の家臣を多く持っていないので、もしもの場合にこの要地を警固する自信がない。今天下には主人の勘当を受けて浪人となっている剛勇の者は数多くみられる。これらの面々の勘当を解くよう仰せられ、自分に召し抱えを許されるならば、会津を充分に守護しましょう」秀吉は納得し「文臣・武臣共に召し抱えよ」と言った。このため多くの浪人と罪人が許されて氏郷に仕えた。ここに目を付けるとは偉い。普段から彼らのことを惜しく思っていたのだろう。
   会津に行くと氏郷は、会津・黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築し、7層楼の天守を建てた。氏郷の幼名と蒲生家の舞鶴の家紋にちなみ、鶴ヶ城と名付けられた。築城と同時に城下町も開発され、町の名を黒川から「若松」へと改めた。キリシタン信仰を勧め、教会を造り猪苗代に学校(セミナリオ)を建てた。氏郷は農業より商業政策を重視し、旧領の商人を若松に招き、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等の策を成した。
   文禄の役では肥前名護屋城へ参陣している。この陣中で体調を崩した氏郷は、会津に帰国したが病状が悪化した。文禄4年(1595年)、伏見の蒲生屋敷において病死した。家督は嫡子が継いだが、家内不穏の動きありとし宇都宮(12万石)へ減封された。会津には上杉景勝が入った。
   氏郷は信仰のためか、愛妻家だったのか、或いはその両方なのか側室を置かなかった。実子の二人が早世したため蒲生家の血が絶えてしまったのは残念だ。

*氏郷は利休七哲の筆頭で、利休が処罰された時、利休の子・千少庵を庇護し会津に招いた。
*氏郷は厳しい人物で、馬の沓が外れ隊列を離れた武士を軍機違反として斬り、部下が指図した位置から再三離れたので手討ちにした。
  同時に部下思いのエピソードにも事欠かない。
*月に一度、家臣を全員集めて自らの屋敷で会議を行った。その席上では「怨まず、怒らず」が約束事になっていて、長幼や禄の大小に関わらず自由な発言が許されていた。会議後には氏郷自らが風呂を沸かしたり、料理を振る舞った。
*彼は武辺談義や怪談を好む話好きで、陣屋で侍達が博打を打つことを許していた。「夜に番をしていると眠くなってしまう。博打を打てば気力がついて眠くならない」
*氏郷は有功の士を厚遇して、門閥や伝統に捕われずに家臣団の再編成を行った。家臣への恩賞として蒲生の名字と「郷」の一字を与えているが、それは譜代の者ではなく、戦国時代に同クラスだった有力一門と外様層が中心だった。
*西村某という家臣が法度を破り召し放たれたが、細川忠興の口利きで帰参した。ある日氏郷は西村を呼び相撲をとった。西村は手加減せずに二度も勝った。西村は手討ちを覚悟したが、氏郷は西村の正直に感じ加増した。
*伊達正宗が、清十郎という16歳の少年を氏郷の家臣の元に奉公させ、情報収集と共に氏郷の暗殺を狙った。政宗のこの企みは発覚し、清十郎は投獄された。氏郷は命を捨てて主命を遂行しようとした忠義に感服し、清十郎を伊達家に返した。
*玉川という弁舌豊かな才人がいた。氏郷は家臣の推挙を受けて側近にしたが、数日後に解雇した。氏郷は言う。「あいつは才能はあるが根性が気にいらない。わしと仲の良い友人の話をする時は友を褒める。だが悪い友人の時は悪しざまに罵る。俺の気持ちを推し量っておべんちゃらを言うのだ。玉川は渉外の仕事に向いているから他家でもやっていけるだろう」だがこの予想は外れて、玉川は他家で問題を起こした。
*一万石で召し抱えた家臣が酒宴の席で、「某は子を多く持っておる。10万石をくれるとあらば、1人くらい川に捨てても構わん」と豪語した。その発言を聞いた氏郷は激怒し、「そんなことを言う人間は人の道から外れている」とこの家臣の取り分を1,000石に減らした。
*佐久間某が氏郷にお目見えした時、緊張の余りか畳のへりに躓いて倒れてしまった。小姓たちはゲラゲラ笑ったが、氏郷は「佐久間は畳の上の奉公人ではない。戦場で敵を討ち取る事こそが職分の者である」と小姓を叱りつけた。
*鉄砲の音にも驚く極端に臆病な家臣がいて、周りの人々から馬鹿にされていた。しかし氏郷は「どんな人間にも必ず使い道がある」と言い、いきなり彼を部隊長に任じた。いざ合戦が始まると、その家臣が大将首を2つ獲る手柄を立て、2,000石の物頭に取り立てられた。氏郷は微笑んで言った。「見ろ。どんな人間にも責任を持たせればその職責を果たす。ただ噂や評判だけで人を決めつけてはいけない」
*会津に移封・加増された時、家臣団に対して「今までお前たちには苦労をかけた。そこで今まで立てた功労を書き出し、どれだけの俸禄が欲しいか願い出よ」と布告した。家臣は次々に加増を願い出る書面を提供した。家老らが計算すると加増分は100万石を越えていた。家老らは仰天して氏郷に報告したが、氏郷は「いいじゃないか、家臣のためだ。何とか工面しろ」と言う。
   困り果てた家老らが家臣にありのままに話すと、家臣は氏郷の気持ちを知って感動し、自ら加増を辞退する者が続出した。氏郷は自分の取り分を9万石にまで削って家臣達の希望に出来るだけ応えた。
*合戦の時の心構えを氏郷は言う。「指揮官・武将だからといって、後方にいて命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば家臣はついてくるものだ」この考えが常に正しいとは言えない。戦闘の指揮官が常に最前線では大局が見えない。だが氏郷はこれをやり通した。勇気のいることだ。
*氏郷は、新参者の部下には次のように言って激励した。「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがいれば、そいつに負けぬように働け」その銀の鯰尾の兜をかぶる者とは氏郷自身のことである。
*一揆鎮圧において、蒲生軍は東北の極寒に慣れておらず士気が下がってしまった。すると氏郷は素肌に甲冑を着て自軍を鼓舞した。
*秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れていたようだ。秀吉が氏郷を評して語った。「蒲生氏郷の兵10万と、織田信長様の兵5千が戦えば、織田軍が勝つ。蒲生勢が織田兵4千の首を獲っても、信長様は必ず脱出しているが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中に必ず氏郷の首が含まれている」やはり氏郷は天下獲りには不向きなようだ。
*或る時、秀吉が家臣たちにふざけて「100万もの大軍の采配をさせたい武将は誰か?遠慮なく申してみよ」と言った。家臣達は、前田利家だ、徳川家康だと名を口にする。秀吉は頭を横に振り「違う。それは、あの蒲生氏郷だ」(大谷吉継という説もある)
自分なら蒲生・大谷(この二人の名を出すとは、流石は秀吉)の他に、立花宗茂、黒田官兵衛と島津義弘といったところか。後藤又兵衛もいいな。しかし100万揃えて誰と戦うの?鄭成功と組んで清とでもやるか。魏の曹操だって公称80万だぜ。

* イエズス会宣教師のオルガンティノは、ローマ教皇に氏郷の事を報告している。「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気ゆえに傑出した武将である」何か翻訳が悪いのか、よく分からない文章だ。
* 天正遣欧使節が帰国した時、氏郷も秀吉と共に彼らを迎えた。氏郷は会津から4回に渡り、家臣・山科勝成を団長に遣欧使節団を送ったと云う。
  これは不思議な話だ。そもそも山科勝成とは「ロルテス」というイタリア人のことで、氏郷が召し抱えて家臣にしたという。伊達正宗が派遣した支倉常長ならメキシコにもローマにも資料が残っているが、氏郷が派遣した使節の資料は欧州のどこにも見当たらない。
   ロルテス・山科勝成は名を「山科羅久呂左衛門勝成」といい、小牧・長久手の戦い、秀吉の九州征伐、小田原攻めで活躍、戦場で大砲をぶっ放したという。ローマからは鉄砲30挺を携えて帰国した。だがそれほど目立つ活躍をした山科勝成の名が、『蒲生家記』以外の資料には一切出てこない。実在を疑われる人物なのだ。遣使があったとしても、マニラ、ゴアなどへの通商団だったのかもしれない。
   何の根拠によるのか、外務省が1884年に編集した『外交志稿』によると、文禄元年(1593年)、氏郷は朝鮮に渡るための軍艦の建造を望み、西洋から船大工の調達を図って勝成らを派遣したが、遣欧船はその途中で難破して安南国(ベトナム)に漂着し、勝成は現地人に殺害されたという。氏郷がイタリア人(ローマ人)の軍人を配下にしていたのだとしたら実に面白い。信長は黒人の従者を持ち、家康は三浦安針(ウィリアム・アダムス)を外交官として用いているから、別段不思議ではない。ポルトガルに援軍を頼んだ大名もいたでしょ。
*氏郷は、最初はしつこくキリスト教を説く高山右近から逃げ回っていた。教えに感動し洗礼を受けてからは、会津を福音の国にする決意を示した。黒田官兵衛がキリスト教に入信したのは、右近よりも氏郷に勧められたのが大きいのではあるまいか。なお右近は、氏郷が床で息絶えるまで側に寄り添い信仰を支えた。
*氏郷は今でいう直腸癌で亡くなったが、辞世の句には早世の嘆きが感じられる。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風

近年京都市、黄梅院にある氏郷の墓を発掘したところ、刀を抱いて横たわる形で埋葬されていた、という。
氏郷には、まだまだたくさんのエピソードがある。今回文化面の逸話は削ったので、興味のある人はご自分で検索を。

○高山右近
 蒲生氏郷で力を出し尽くした。兄弟を仇にし、親を殺し主を殺し、将軍を殺して大仏殿を焼き払う。女をかっさらい坊主も百姓もなで斬りにする戦国の世にあって、存在が不思議なほど律儀な武将、高山右近。この人は真心の持ち主だった。
 「右近」の呼び名は私的なもので、通称は彦五郎。高山氏は摂津国三島郡高山庄(大阪市)出身の国人領主である。父の友照が当主のころ、畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀に従って大和国宇陀郡の沢城(奈良県)を居城とした。友照は奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士のロレンソ了斎の説話を聞いて感銘を受け、洗礼を受けた。そして家族と家臣を洗礼に導いた。右近は10歳でキリスト教の洗礼を受けている。
足利義昭が15代将軍となり、畿内は戦乱に次ぐ戦乱の巷となるが詳細は省く。荒木村重の与力として従っていた高山父子は、村重の突然の反乱に仰天する。石山合戦の最中、村重はあろうことか単独で信長に反旗を翻したのだ。勝算も無いだろうのに何故?荒木村重謀反の原因になったとされる、敵石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣だったようだ。まあ濡れ衣でも一度信長に疑われたらお仕舞いだと観念しても不思議ではない。
こうなると清秀は謀反の原因を作り、村重の恭順の意思を説得して翻らせ、さらに自分は寝返ったことになる。あんまりだろ。でも当時こうした出処が非難されることはなく、むしろ人望のある人物だったという。村重は自分がとろいのがいけないんだ、という訳か。中川清秀は高山右近の従兄弟で、その後も右近と出処を共にする。
 村重の謀反を知った右近は、人質を入れ翻意させようと試みるが失敗した。信長は高山右近、次いで中川清秀を切り崩そうと考えるが、右近が金や地位や領土では動かないと知っていた。信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を焼き払うと脅迫する。信長ならまゆ一つ動かさずにやるだろう。
 高山家中の意見は二分したが、右近は父の反対を押し切り、紙衣一枚で城を出て信長の元に出頭した。この功績を認めた信長は、再び高槻城主として4万石に加増する。清秀も村重を裏切った。本能寺の変で信長が没すると右近は明智光秀の誘いを断り、秀吉の幕下にかけつけ山崎の戦いで先鋒を務めた。そして中川清秀と共に奮戦し、光秀を敗走させる。その後は秀吉の下で賤ヶ岳、小牧・長久手、四国征伐に参戦した。
 秀吉の信任は厚かった右近だが、バテレン追放令が出ると信仰を守ることと引き換えに、領地と財産を全て棄てることを選び世間を驚かせた。戦国の世に自ら領国を捨てる、こんな男は二人といない。右近はキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響力が絶大であったので、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。その結果廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料とした。
 右近は小田原征伐に、建て前上は追放の身ながら前田家の客将として参加した。小田原の陣で右近が用意した牛肉を、蒲生氏郷と細川忠興の三人で食べたという。氏郷と違い、エピソードが少ない右近の数少ない楽しい逸話だ。ちなみに氏郷と忠興は、お互いに悪口を言い合う親友だった。ついでに右近話を三つほど。
*高槻城下で村人が亡くなった時、賤民の仕事であった棺桶を担ぐ仕事を率先して引き受け、領民を感動させた。
*伴天連追放令を出した秀吉は、右近の才能を惜しみ千利休を遣わして棄教を促したが、右近は「主命に背いても志を変えないのが真の武士である」と答え、利休は説得を諦めた。
*織田有楽斎の『喫茶余録』による右近の茶道の評価は、「作りも思い入れも良いが、どこか“清(きよし)の病”がある」というものだ。うーん、深いな、でもちっとも分からん。

 慶長19年(1614年)加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退出。長崎から家族、内藤如安らと共にマニラに向かった。イエズス会報告や宣教師の報告で有名になっていた右近は、マニラでスペイン総督らから大歓迎を受ける。しかし船旅の疲れや、慣れない気候のため老齢(63歳)の右近は、すぐに病を得て息を引き取った。葬儀はマニラ全市を挙げて聖アンナ教会にて、10日間盛大に行われた。右近の遺骨と画像は、その後行方不明になった。1767年マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物がマニラ大司教区の所有となり混乱したのだ。右近の遺骨を探す活動は今も続けられている。
 右近の死後、家族は日本への帰国を許されたため、現在石川県、福井県、大分県に三つの直系「高山家」がある。今回の列福は誇らしいんじゃないかな。右近の列福の話は16世紀から出ていたというから、そこから考えればやっとだ。
 蒲生氏郷が長くなったりして焦点がぼやけたが、思い起こして欲しい。今回取り上げた9人のキリシタン大名の、唯一人として途中で信仰を捨てた者はいない。功も罪もあるキリシタン信仰(カトリック)だが、血なまぐさい戦国時代に一途で魅力のある教えだったことは間違いない。逆に平静な江戸時代には向かないのかも。

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