旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

原主水

2017年04月27日 11時53分20秒 | エッセイ
原主水

 原胤信(たねのぶ)、天正15年(1587年)~天和9年10年13日(1623年12月4日)。旗本。キリシタンで洗礼名はジョアン。*受領名が主水助であったため、原主水(もんど)の名で知られる。

*受領名(ずりょうめい):前近代の日本において、主に武家や神職などの通称(仮名)として用いられた、非公式な官職名のこと。

 千葉氏の筆頭重臣、原胤栄の孫として臼井城で生まれる。父は豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条方として失踪し(自害とも)臼井城は陥落した。名族出身である事から徳川家康により、小姓として召し出された。慶長5年(1600年)ごろ、主水はキリスト教の洗礼を受け、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢された。キリスト教を信仰する切っ掛けを作ったのは、“ジュリアおたあ”だったという。
 二人とも家康の身辺にいたから、接点があっても不思議ではない。若い男女だから恋愛感情があったかもね。もしそうなら、おたあが家康の再三の妾になれ攻勢をことごとく拒絶したのも頷ける。しかし主水の入信は、その後を考えると大変厳しいものとなった。それは主水自身にも、おたあにとってもだ。これから300年弱続く江戸時代に、キリシタンの生き残る道はない。慶長17年(1612年)の岡本大八事件を契機に、江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を始めた。この事件は後味が悪い。
 慶長14年(1609年)、マカオで有馬晴信の朱印船がポルトガル船と問題を起こし、晴信側の水夫60人ほどが殺された。詳細は省くが、ポルトガルの当事者が乗った船が長崎に来た時、晴信はこれに猛攻撃をかけて沈めてしまった。家康は、積極果敢なこの処置を大層喜んだ。そこで晴信は、龍造寺との度重なる争いで生じた失地を報償として回復したいと思い、家康の懐刀・本多正純の与力・岡本大八に仲立ちを頼んだ。
 大八は晴信と気心の知れたキリシタンで、今回のポルトガル船襲撃の目付け役として付いていた。晴信は大いに期待して何度も大八に金を渡し、その累計は6千両に達した。遊ぶ金としては大金過ぎる。この金がイエズス会に流れたという話しも出たが、噂の域を出ない。天性の詐欺師、大八は朱印状の偽造までやってのけた。主人の正純には何も言っていない。
 晴信が結果の遅れにしびれを切らして、正純に問い合わせたことから事件が発覚した。捕えられた大八は拷問を受け、あること無いことベラベラとしゃべった。全く軽率な男だ。こいつのおかげで、どれだけの人が迷惑を受けたと思う。この事件は、長崎奉行・長谷川藤広を巻き込み、いやな展開を見せる。長谷川藤広は癖のある人物で、強引な手法で商人らの反発を買っていた。ポルトガル船襲撃では晴信と協力したのだが、家康に命じられた香木の伽羅の買い付けを巡って晴信と対立し、不倶戴天の敵というほどに関係が悪化していた。
 藤広は後にキリシタン弾圧を強力に推進する。結局賄賂を受け取り朱印状を偽造した大八は、市中引き回しのうえ火刑。晴信は改易のうえ甲斐に流され、そこで処刑された。享年46。キリシタンなので切腹はせず斬首となった。晴信には、藤広殺害の計画があったとされたのだ。その藤広には、咎めは一切なかった。この事件を契機として、江戸幕府はキリシタンへの本格的な取り締まりを始める。大八が植え込んだキリシタンへの疑心が、取り締まりを厳しいものにした。
 後はあまり語りたくないな。棄教を拒んだジュリアおたあは島流しになり、主水は出奔して秘かに布教した。やがて主水は捕えられ、棄教を拒み激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指を全て切断、足の筋を切られた上で追放された。いくら戦国の気風が残っていたとはいえ、ここまでやるなら、いっそ殺せよ。家康は主水に裏切られた思いが強かったのだろう。でもやり過ぎだ、気分が悪い。
 主水はその後も、浅草のハンセン病患者の家を拠点にして不自由な体で布教を続けた。後に密告により捕えられる。宣教師ら47名とともに江戸市中引き回しの上、高輪の辻にて火刑に処された。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べた。暗いなー。おたあがどれほど心を痛めたことか。
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