旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

大鳥圭介

2017年08月21日 13時40分46秒 | 短編小説
大鳥圭介   

 大鳥圭介、この男にはイライラする。軍学者なのに、何でこうまで戦ベタ。この男、播磨国赤穂郡赤松村(現、兵庫県赤穂郡上郡町)に、医師の子として生まれた。9歳年長の大村益次郎(村田蔵六)は、周防国(山口県)に村医の子として生まれた。二人の経歴は実によく似ている。
 大村益次郎は、長州征伐と戊辰戦争で長州藩士を指揮して連戦連勝。事実上、日本陸軍の創始者となった。しかし大村は一時幕府の講武所教授となり、江戸滞在時には大鳥圭介とも交遊している。大村と大鳥、どちらが官軍となり、どちらが幕臣となっていても不思議はなかった。
 幕府伝習隊は、勘定奉行、小栗忠典が創設したフランス式の近代陸軍だが、ほとんど戦わないうちに幕府は降伏した。博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消など江戸の無頼の徒を中心に徴募により集められた伝習隊は、前装式ライフルのミニエー銃・エンフィールド銃のみならず、後装式のスナイドル銃、ボルトアクション方式のシャスポー銃を装備した精鋭部隊だった。
 榎本武揚率いる海軍が、蝦夷に脱走するのと呼応して、大鳥圭介率いる伝習隊は江戸開城の日に江戸を脱した。本所、市川を経て小山、宇都宮と転戦する。松平太郎や土方歳三等と合流し会津に至る。元々体格の良い若者を集めた伝習隊は、訓練が良く士気が高かった。しかし指揮官の大鳥圭介はどの戦場でも負けた。何故?作戦は完璧、偵察はきちんと行い、補給の態勢も整えている。
 初戦は優勢で、官軍の先鋒を蹴散らす。勝ちに乗じて予備隊を投入すれば大勝利間違いなし。ところが大鳥の援軍は、いつまで待ってもやってこない。最初は奇襲で圧倒した先陣だが、味方の援護が来ない。敵はしだいに立ち直ってくる。やっと援軍が来た時には、形勢が逆転している。大鳥はいつもこのパターンで負けた。勘が悪い。思い切りが遅い。
 大鳥が立案した作戦を、副官が実施するといつも勝つが、大鳥が指揮をとると負ける。またも負けたか伝習隊。こんな指揮官の下では戦いたくない。もっとも大鳥圭介は、ハハまた負けちゃった、とめげない。まあその明るさがあるから生き残りの伝習兵は最後まで付いていったのだろう。彼らは会津戦争に続き函館戦争と、負け続けの戦いを続けた。
 会津は守りにくい土地だ。街道がいくつもあるため、防衛側は兵力の分散を強いられる。会津藩は精鋭部隊を日光口と白河口に配置し、主要街道の中山峠(二本松口)で官軍を待ち受けた。既に味方の二本松城は陥落している。今は夏だが、雪が降る迄官軍を足止めすれば、奥羽越列藩同盟が勢力を盛り返すかもしれない。官軍の大村益次郎は「枝葉を刈って、根元を枯らす」と米沢への進行を指示したが、前線の参謀、板垣退助(土佐)と伊地知正治(薩摩)は逆に「根元を刈って、枝葉を枯らす」と会津攻めを主張した。結局現場の意見が通った。伊地知の発案により、メインの中山峠には陽動部隊800を送り、それより北の母成峠に本隊の2,200を派遣した。
 母成峠を守る旧幕軍は800人。大鳥率いる伝習隊400を中心に、会津藩兵200、仙台藩兵100、二本松藩兵100と、土方歳三率いる新選組が若干名だ。寄せ集めの兵力だが、その事情は官軍の方でも同じだ。薩摩・長州・土佐・大垣・大村・佐土原藩の混成だった。2,200対800、官軍は大砲の数で圧倒していた。伝習兵は果敢に戦ったが、砲撃戦で圧倒され会津藩兵から崩れ、やがて伝習兵も大打撃を受けて潰走した。母成峠が一日で突破された事が、会津戦争、しいては戊辰の戦いそのものの決着に繋がった。
 おりしも台風による豪雨の中、官軍は猪苗代に進軍し、さらに若松を目指し猛進した。新政府軍の若松侵攻を阻止しようと、会津藩の佐川官兵衛は十六橋の破壊を試みたが、官軍3千が相次いで到着し橋を占領されてしまう。前藩主・松平容保は、白虎隊(少年兵)らの予備兵力をかき集めて前線に出るが、多方面から官軍が迫ったので若松城に戻った。
 しかし容保は勇敢なリーダーだ。ついに前線に姿を現さなかった、大阪夏の陣の豊臣秀頼や、部下を置き去りにして軍艦で江戸に逃げ帰った徳川慶喜とは違う。主力部隊を前線に残したまま若松城を包囲されたことから、会津の悲劇は始まった。城下にいきなり殺到した官軍が、そのまま城に押し入るのを阻止したのは、少年兵だけではない。薙刀を持って政府軍の銃下に突入した娘子隊、槍を持って立ち向かった老人兵が城を守る。
 「ジイさん、危ない!よせよせ」と叫ぶ官軍兵。しかし手練れの老人は、あれよあれよという間に官軍兵を一人突き殺す。次の瞬間、一斉射撃の的となり血しぶきをあげて倒れる。老兵の中には、80歳を越えた者もいた。その後、落城まで悲惨な戦闘が1ヶ月も続くが、母成峠が一日で陥落したことが痛かった。

 そして函館戦争、この戦いの敗因が大鳥にあるとは言わない。この戦争は海軍力で決した。旧幕軍は、圧倒的に優位を持っていた戦艦、開陽を失った。それも必要のない江差攻略に開陽を使い、天候が急変して座礁、沈没した。開陽を失った時点で、旧幕府方に勝ち目は無くなった。その後、回天による甲鉄への切り込み乗っ取りを試みたが失敗、劣勢は覆らなかった。
 陸上でも官軍が圧倒的に優位だった。大鳥圭介は木古内で勇戦した。伝習隊・額兵隊等が彰義隊を助け、官軍に奪われた木古内を一度は奪還し、地形的に有利な矢不来に後退して布陣した。しかし新政府軍は補給を整え、1,600名が本道、海岸、山上の三方から矢不来を攻撃した。さらに甲鉄・春日等による艦砲射撃を受け、旧幕軍は隊長クラスを含む多数の死傷者を出し、総崩れになった。
 一方二股口を守る土方歳三指揮の衝鋒隊・伝習隊300名は、700名の官軍を相手に雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち続けて16時間、3万5千発の弾丸を浴びせ敵を撃退した。その翌日の攻撃も撃退。翌々日は官軍が山をよじ登り側面から銃を撃ち下してきたのに対し、夜を徹して立ち向かい、明け方には伝習士官隊が抜刀して官軍に突入、敗走させた。官軍はその翌日ついに撤退し、二股口を迂回する道を切り開き始めた。
 ところが大鳥圭介の矢不来が突破されたため、退路を断たれる危険が生じた土方隊は五稜郭への撤退を余儀なくされた。リーダーが替わると、同じ兵隊がこうも違う戦いをする。このボスなら負けない、ボスの言う通りにすれば勝つ。鬼の新選組副長、部下を次々に切腹させた嫌な男の面影は全く消え、部下想いの優れた指導者がいた。
 大島も良く戦っている。兵力・火力に圧倒的な差があるのだから、仕方がない。しかし土方の強さは何なんだ。近代戦の軍隊を指揮したのは初めてなのに。刀槍から銃砲に代わっても、土方の戦場の勘は冴えまくっていた。土方隊の伝習兵は土方を信頼して、のびのびと不退転の戦をした。土方は函館の幕軍が降伏する6日前に戦死した。好漢、享年35。
 降伏した榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介らは投獄されるが、その後の処分は意外なほど軽かった。明治5年の特赦により出獄。その後新政府に出仕して役人、技術官僚となり殖産興業政策に貢献した。大鳥は元々頭の良い男だ。活躍の場さえ与えられれば、期待以上に活躍する。彼は後、元老院議員に就任、学習院院長、駐清国公使、朝鮮公使、枢密顧問官、そして男爵を授けられた。明治44年食道がんで死去。享年78。
 そうしてみると大鳥圭介、そんなに悪くないな。多才で度胸もあるが戦べた。物事には向き不向きがある。戦は弱くても、最後まで裏切ったりはしない。結構いいやつじゃんか。

Ps すぐ、ともうすぐの違いだったね。どちらも近い将来のことを言う時に使うが、基準となる時点が違います。「もうすぐ」は現在が基準で、「すぐ」はいろいろな時点を基準に出来る。だから過去にも使える。時間だけではなく、場所にも使える。どちらが早いとは言えません。

 
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