天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

添削という名の改作

2017-06-13 14:34:04 | 俳句


俳句甲子園横浜大会を審査したあと講評で特に津久井高校に言及した。
津久井高校の句は素材が高校生の日常から採ったものが多くて好感を持ったが、残念ながら表現精度を欠いて点数が伸びなかったことを残念に思った。

いま俳句甲子園に出場する学校は国語教師が俳句をよく知らない場合、外部から専門のコーチを指導に招くところが多いと聞く。
仮にぼくが津久井へ客員コーチとして招かれていたなら残念に思った句はすべて添削するという誘惑に駆られた。
どうすれば審査員がより点数を出すかは審査員をしているから当然知っている。蛇の道は蛇というやつ。

この誘惑をさらに辿ってゆくと、俳句甲子園で出てくる句はどこまで選手自身のものであるかという面倒な迷宮へ入り込むだろう。野球の甲子園なら一つ一つのプレーは今起きていることであり選手自身のものに他ならない。野球ではコーチ、監督が選手のうしろで操っているわけではない。
しかし俳句甲子園の場合、出てくる作品がどのようにしてできたかを審査員や観客が知るよしはない。
俳句甲子園でコーチの介入の度合いが高いと判定し、われわれはある句を最優秀句にふさわしくないとして変更したことがある。

高校生を育てることと勝つこととの間で葛藤が生じているのではないか。
勝ちを優先すれば原句をはやい段階で直してしまいそう。つまり材料がいいと感じたレベルで流麗な句に作り変える。これは添削ではなく改作であるが点取り主義のコーチはやるかもしれない。
これをやれば勝率は上るだろうが生徒たちは自分の句と思わなくなる。すると討論において自分の言葉で自分の句のよさを伝えられなくなるだろう。たぶん喋れなくなる。
突きつめてゆくと自分はなんのために俳句をやっているのかわからなくなる。
俳句甲子園に携わる学校関係者や客員コーチらの生徒育成という倫理感が要求されるだろう。勝敗より何のために俳句をやるかという倫理感である。

世間で添削といいつつかなりのケースで改作がされている。
高校生のみならず成人の場合でも改作が相当量入り込む添削から早くさよならするほうが本人のためだろう。
鷹俳句会では月光集作家という実力者が何句何千円のようなレートで添削をしているが、数句みてほんとうに添削できる句がいくつあるのだろう。
そこにある数少ない句をいじってよくするのははなはだ難しい。よって改作してしまうケースが多いだろう。そうされたものを自作と考えて喜んでいるとすれば滑稽ではないか。

ぼくも人から句をみてくれと求められ、何句何千円ですかというレートを聞かれたことがある。
そのとき彼が添削を求めていると知り、「基本的に添削はしません」と突き放した。
添削ではなくて選句によっていい句をチェックします、書けるだけ数を作ってください、とお願いした。
彼は数をみると大変だろうという幻想に陥っていたが数を見るのは大変ではない。
少ない数の作品を強引になんとか形にするほうがよほど労力が要るのである。
見るほうが資本を注入し多大な労力をつかってできた改作句はいったい誰のもの?
本人のものでも添削者のものでもない根無し草だと思う。

指導は選句で行うのがいい。
一季題で5句、10句、15句ととにかく数を作らせてそのなかでめぼしいものを指摘して後は捨てる。
俳句甲子園の場合、ふつうの授業のほかに俳句にこんなに時間をかけられるかどうか知らない。たぶん無理だろう。
でも基本的には数を書いた中から佳句を指摘するというのがまっとう。
そこから選んだ句は添削のレベルにいっているだろう。そこでコーチが直す一、二字は生徒たちが感動を伴って納得できるものになるだろう。
これは成人についても同じことである。

俳句は誰が誰のために書くのかということを常に考えていたい。
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