天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

三代寿美代の演歌俳句

2016-07-29 01:03:45 | 俳句

三代寿美代句集『縁』(ふらんす堂)が来てびっくりした。
彼女の身の上の事情はだいたい知っている。ぼくよりビンボーなことも知っている。よく句集上梓に資金を回せたものだ……、晴れやかな気持の裏で彼女のふところ具合の心配をしてしまった。

三代とはじめて対面したのは、2006年5月13日、小田原市中央公民館で開催された「鷹創刊五百号記念俳句大会」の懇親会であった。
ぼくと目が合うとニコニコして向こうから来て名乗った、まるでミラーボールのように光を散乱させて。
俳句の会といえばおばさんとおじさん、ないしおばあさん、おじいさんというのが相場だ。そこに原宿の路上に立ち歌って喝采を浴びるのが似合う<女の子>がいた。
目立つこと。



おじいさん、おばあさんは別世界のキャピキャピギャルには近づかない。
「あなた俳句を書く人?」というのがぼくの一声だったか。
会場を間違えて来てしまったのではないか……わきに旧知の加儀真理子がいて「妹です」という。<女の子>が実は46歳と知って眩暈がした。

見かけとは違うわたくしちんちろりん

自分が他人にどう見られているかはわかっている。

三代の風貌にぎょっとしたのだがしばらくして三代は再びぼくを驚かせた。
ぼくに俳句を見てください、と言って来たのだ。
そのときぼくは同人にはなっていたが、鷹誌の成績は2句3句2句3句……であり4句欄に1、2度行くかどうかという状態であった。人を指導できる身の上ではない。
「なんで俺なんだ、俺は23にいさんだぜ」というと「私は万年2句です」という。
私よりすこしうまい天地さんでいいんです、という匂いを言外に感じた。

ぶらんこを漕ぐ実直に大胆に

えらく大胆だと思ったが実直さのほうは疑った。

一応コーチを引き受けたのだが戸惑った。
三代は写生に興味がない。自分の気持ちを書きたい心象派。おまけに男と女の情念を書きたいのだ。「写生しろ」と言ってもムダなので言わず、心象で使えそうな語彙や方向性を褒め、観念のお化けは排斥した。
心象を詠むなら季語は形ある物でおさえることなど物化することをうながし続けた。

火取虫勘がいいのは昔から

具体的なことは何もできなかったが三代は変身し始めた。よい資質が潜在していたのだろう。

湯ざめする女の身にもなつてみよ
「この啖呵の小気味よさ。………思えばこれがこの句集全体の放射するテーマなのである」と鷹主宰が激賞する代表句である。
主宰は三代が長年の停滞を打ち破って開花した平成19年をしかと指摘する。大飛躍の原因を湘子死去に求めているが、ぼくは三代が母の目や世間体を慮っていやいや続けてきた結婚を解消したことによるのではと思う。

立春や空に太陽われに歌
三代のことをひそかに「出雲の歌姫」と呼んでいる。歌唱力は玄人はだし。NHKののど自慢番組でキンコンカンキンコンカンと鳴らしたし、地元のさまざまな施設を訪問しては歌をうたってボランティア活動をしている。
彼女の十八番に門倉有希の「ノラ」がある。その歌詞に
誰となく 惚れてないと
駄目な 駄目な ひとなの
…好きよ…好きよ…好き
愛はひとり芝居

というのがある。

三代俳句は演歌の歌詞に通底するとみている。そしてこの詞に表現されている恋愛体質が三代の本質なのだろう。
誰となく 惚れてないと
駄目な 駄目な ひとなの
は自分のことでありノラは三代自身なのだ。この歌をうたうとき三代は自分で自分に恋をする。
恋に恋をする資質はひとり芝居であり結婚という建設的営みにはむしろ災いすることがなかったであろうか。そこに夫との齟齬があったか。

春昼をしつかり者の姉が来る
姉はたぶん意見をしに来るのだろう。嫁ぎ先での心得などを説くのかもしれぬ。心配でならぬ困った妹。直情径行型で恋愛感情に流されがちな妹を見ておれぬのだろう。
これにたいして妹は、

妹は姉より素直ねこじやらし

などと書いて平然としている。わたし思ったまま生きるわと突っ走る。「あんたねえ…いいかげんにしないと」という姉の小言が聞こえるようだ。

白靴や初めはみんないい男

こういう句を見せられては堅実な主婦の姉は天を仰いで匙を投げるしかないだろう。

三代は恋愛体質で甘くなるところに主宰の指摘した啖呵口調を取り入れて自分の文体を確立した。
これで飛躍した。

百合手向け事もあらうに嫉妬心
ソーダ水赤の他人になりませう
夏痩せて他の誰にもなりたくなし
未明まで男泣きとは黴臭し
かなかなや何もなかつたかのやうに
蠓蠛に試されてゐる突き進む


ぼくは三代俳句の本質を演歌とみた。その通俗性に啖呵を加味し、切れ、間合いなど俳句の技法を鮮やかに駆使したことで痛快なものにしたことを指摘した。

しかしこの句は優れた写生である。まいった。これを読むと写生派の天地わたるが嫉妬してしまうでなないか。いつこんな外界への目を養ったのか。
鶏頭の手荒く抜いてありにけり

頂点は一人背高泡立草
この句は写生とは反対の象徴性をもつ。たとえば「頂点は一人」にかの毛沢東を置いてみよう。すると背高泡立草はいつ粛清されるかわからぬかりそめの人民の命ということになるだろう。世の中はすべからくピラミッド的な支配、非支配構造になっていることを暗示する。
芸域の広がりに驚嘆する。

わが心人参色に欺けり
いちばんわからなかった句である。
「わが心が」と読むと目的語を求めてしまい面食らう。「わが心を」と読むと主語は自分自身ということで流れが生じる。恋に落ちやすい心象を人参色に托したのか。
素直に自分の心のままに動く三代を思う。妙な文体だが言葉が立っていてすっと覚えてしまう。
「俳句ってそれでいいでしょ、天地兄さま」という作者の得意顔が見えるようだ。
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1 コメント

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Unknown (すいすい)
2016-10-29 16:04:44
三代さんの句集 今日 手元にきました。鷹に載ってて 即 Amazonに発注したらうりきれで 楽天ブックから。良いですー(^L^)三代さんの句、大好きです。

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