天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

脚が4本立っていた

2016-10-12 09:42:36 | 身辺雑記
うれしいことがあった。
先週の月曜日、アパートの水道でギンナンを洗っていると突然、目の前に脚が4本立っていた。
見上げると登校途上とおぼしき女の子が二人突っ立っている。大きく感じた。
「それ何ですか」と問うので、
ギンナンであること、ギンナンは臭い果肉をかぶっているのでそれをきれいにしていること、そこの甲州街道の並木がつける実と同じものであり、木にも人間のように雄雌があり雌が実をつけることなどをていねいに話した。
二人はふうーんという表情で聞きながらゴム手袋がバケツの中をかき混ぜて水が澄んでいくさまを興味深く2分ほど見ていた。澄んだ水の底のギンナンが白い。
ギンナンが若い二人の興味を呼んだ。その仲立ちをしたことがうれしかった。

政治家や俳優のように波乱のない人生でも毎日何かがやってくる。
向こうから到来するものがうれしい。今回は生きた人であったがそれは落ちる桐の葉であったり小鳥であったり、水を流れる藁しべであったりと千差万別。
気づこうとしていると平凡の中に輝きがある。俳句はまさに凡景の中からなにかのきらめきを見極めて定着させようとする営為であろう。

女の子二人が元気よく去ってから脚4本といった女のことを思い出した。
ぼくがうーんと若かったころ、夏の海岸を彼女と歩いていたら汗だくの腕を組んできて、「はやく脚4本になりたい」といって悪戯そうな目をした。
彼女は情欲に駆り立てられていて砂日傘の下で寝転がる以上のことをしたかったのだ。
言語感覚と頭のよさにほれぼれした。
脚4本が入り組むという婉曲表現は秀句の切れ味であり、この女にのめり込んだ瞬間であった。

しかし到来するものがこんなきらびやかなことばかりとは限らない。
去年の夏のある日、自転車の前方を見ていた目がいきなり土砂崩れ状態に翳った。医師から網膜剥離と宣告された。
治っても元通りにはならないだろうと予測し、これは受け止めるしかないと覚悟した。いいことも悪いこともやってくる。悪いものをいかに受け止めるかに自分が出るだろう。
泣かず騒がず、人のせいにせず、自分のできることをする、というのを俺は俳句から学んできた。今こそそれを生かすときというふうに考えた。
いま物の輪郭が二重であったり歪んで見えるがそれでいい。卓球選手になるわけではない。頭が見えを補正して女を美しく見せてくれる。

今日は芋の葉がどうなっているか気になった。枯れて倒れるときものごとには情趣が生まれる。
1600歩ほど歩いて見に行くのもいだろう。その途中でまた何かに遭遇することがあるかもしれない。
やってくるものを素直に受け止めたい。



敗残のにぎはひ芋の葉の伏しぬ


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