天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

ああ宿題人生

2016-10-15 03:48:56 | 俳句


10月20日締切の月例のネット句会がある。10句出句のうち5句を自由、5句を題詠でつくるという規定になっている(している)。
幹事をほぼ全員が輪番でつとめ、今月はぼくが幹事である。
先月末、
1) 季題:胡桃、豊年(豊の秋)、行秋(秋惜しむ)、稲妻
2) 文字題:私、気、不、痴、声、呼、通
と出題した。
メンバーは一生懸命つくっているだろうが出題者はまるでできない。

自分が自分に題を課すというのは至難。宿題は自分以外の人から出されないとできないのである。
受験教育のせいだろうか。
思えばずっと宿題をこなす人生を歩んできた。
宿題は学校だけのものと思っていたが題詠という宿題をずっとやり続けている。

俳句は「自得の文芸」などといわれるが自分だけではできない。
宿題を出す誰かがほしい。
自分に題を課すことができないのですでに持っている句から題を出した。句会には参加できるが新作はほぼできない。
幹事をやる月は不毛である。

誰かの出した題にクレームをつける愚かな者がいる。そういう人は自分に題を出せる人なのだろうか。それができれば愚かを撤回するのだがそうではなさそう。
「毛見」や「絵踏」は経験できないから作れないというのだが人はみな想像力を持っている。歳時記を読み事情を理解すればイマジネーションは時空を飛び越えて行くことができる。それが文字を与えられた者の喜びだろう。
人の題は何でもありがたがらないと進歩しない。

題詠は釣針を見えない深いところに下して魚を引っかるのに似ている。深い記憶の中で固まっているイメージを探り当てる。いま見ているのではないがかつてどこかで見た記憶の探査である。
題詠ばかりやっていると記憶がどんどん明るみに出てストックが減っていく。
したがって吟行などしたくなる。吟行とたいそうなことをいわなくても歩きたくなる。乗り物はだめで歩くのがいい。

歩くとき物はよく目に入る。
俳句をつくろうとしなくてもいいのでとにかくまわりを見て歩く。それはどこかに残っていてやがて釣針にかかることになるやもしれぬ。
最近は釣針まで待てないのでその場で決着する意欲が強まっている。

とにかくこの月が終って誰かに幹事が移ることを待っている。今月はみなさんのために働くのみ。
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