天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

もっと俳句を読もうよ

2016-10-17 04:34:46 | アート


先日、田無で蘖句会を指導した。ぼくのほかに9名参加した。
別の句会でぬるさを感じていたし当句会でも句評が物足りないと感じてきた。
最近行った孫の教室におもしろい図があった。親指を立てるのは「賛成」、ちょきは「つけたし」、ぱーは「反対」の意思表示であり手を挙げるときこの手の形で端的に意見の方向を示しているらしい。

それでひらめいた。句会に積極的に反対意見を取り入れることにした。
司会者に採らなかった人の意見を聞くように指示した。日本人は指名されないと意見を言わないので指名するようにした。なぜもっと早くからやって来なかったのか。
指名されたときそれが自分の句であってもとぼけて他人事のように意見を言えること。自分の句を他人のそれのように見られることが作句にも役立つ。ふりをすることは高度の精神力を育てる。

千草八千草このごろ少し太れるよ

濱田ふゆの句である。
ぼくのみ採った。「太りしよ」と確定させたほうが落ち着くのだが、「千草八千草」としつこく言った音感が情趣を醸し、暑くて消耗した夏が去った安堵感がよく出ている。
ただ「秋の草」とせずここで芸を見せた作者の工夫ににんまりした。
司会者は句歴の浅いNさんに意見を求めた。
彼は「わからなかったです」と言う。
ぼくはこの答えに不満ですかさず「この句にわからない言葉がありますか」と質した。
彼は困った表情になりうつむいていて、やがて夏痩せが戻ったということでしょう、と言った。それだけのことでおもしろいのですか、と言いたかったようだ。
俳句はそれだけのことでいいのであり、物は言いようというように言葉の言い方で味わいを出すのが俳句のみならず文芸の醍醐味であると説いた。

もう一人のHさんも簡単に「わからない」と言う。
ぼくはわからないでもいいが「どこがわからないか」言って欲しいと思う。辞書でも捜しにくいむつかしい漢字や熟語に遭遇することがあり、これをわからないというのは認めてもいい。
けれど何一つ難解な言葉がない句をただ「わからない」と切り捨てるのは読みを放棄していないのか。
句会は句を読んでやる場所である。
句会へ来る人はきちんと読んでもらいたくてやって来る。
読んでやらなくてはいけない。
というか、読みを怠るのは自分を虚しくすることだという倫理観を持ってほしいのである。
読みを鍛えることは自分の作句能力を鍛えることに通じる。

たとえばパンをミルクに浸したというような句に対して、
「私はそういうのが嫌いなのでわかりません」というようなことを言う。これも最初から読みを放棄している。
俳句を読むとき自分の好き嫌いの趣味はまず横へ置いておき、テキストそのものに付き従ってほしい。
虚心坦懐、ニュートラルの感情で静かに文脈についていく、ということをして欲しい。
そこで読み取りができなかったりすることがあればテキストそのものの精度の悪さが見て取れる。
テキストそのものの不備なのか自分の好悪の感情なのかの見極めは大事である。
そして多くの場合、好悪の感情が読みを妨げている。
好悪の感情を横に置かないと自分自身の世界は広がらない。

句会というのは他人が句でもって別の世界を持ちこんでくる。それを受け止めて自分に同化する場でもある。最初から拒絶する意思が強いと自分の損になると思わないか。
虚心坦懐に俳句を読むことが自分の幅と奥行きを豊かにする。
簡単に「わからない」などと言わないことである。
反対意見を求めたことでいろいろ成果が出た。
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