天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

長かった京極夏彦

2016-02-06 14:33:39 | 

京極夏彦の『後巷説百物語』(角川書店/2003)を読んだ。
直木賞受賞作ということで作者の原点だろうと思って取りかかったが、779ページは長かった。
しかしトルストイの『戦争と平和』より長さにおつきあいできたのは登場人物の少なさとテーマの明確さのせいであろう。

百物語といっても本書で所蔵しているのは6つの奇譚・怪談で、
赤えいの魚
天火
手負蛇
山男
五位の光
風の神
である。

本書が長くなった理由に、明治維新初期の若者4人と庵住いをする隠居老人との怪奇現象をめぐる議論が相当量入っていることが挙げられる。
これがないと童話の「因幡の白うさぎ」とか「猿蟹合戦」のようにそう長くはならないのであるが、著者にとってこの問答は相当大事であり、これにより怪談等超自然現象に対しての基本的な受け取り方を整理し、読者を啓蒙、薫陶しているような趣がある。
その討論はおもしろく、長い文量を読み通すことのできたた理由だろう。

中島正敏氏が「本シリーズの大きな魅力は、どうにも立ち行かない事態を、妖怪の仕業として収めてしまう又市らの大仕掛けにある」と指摘するように、6篇とも怪奇現象の裏に又市といういわば奇術師の大型トリックが仕組まれている。
又市はいわば引田天功のような演出で関係者をたぶらかし事件、事態をみなが納得する形に落ち着かせる。怪奇現象を発生させることで入り組んだ物事を逆に解いて解決に持っていく。
それがあとで種あかしされ、事件の裏側に暗躍する人間どもが愚かに哀しく浮彫になっていくところが理性ある大人向きの読みものとなっている。

いちばんおもしろかったのが「赤えいの魚」。
いつも霧がかかっている島で流されて行って戻った人はいないという設定がいい。ただし海に岩礁がうっすら現れたときそこを歩いて行った者は客人として遇される。
島民は島おさの道具であり理由なく殺されることに疑問を持たないなどという設定は非現実かつ神秘的でうきうきした。
あとの5篇は娑婆の人間関係が出すぎて怪奇性、神秘性が薄れてしまったきらいがないだろうか。

本書は忘れられてゆく百物語への挽歌かもしれない。
「山男」の中の次の一節が印象深い。

もう、この国に山はないのではないか。百介はそんな気がしている。平地より高い場所という以外の意味を、これから山はもう持ち得ないのではないだろうかと百介は思うのである。

つまり、戸籍などなく山の一部として生きていた人々がいなくなった山を作者はさびしく思っている。
修験者、転場者、毛坊主鉢叩き、山猫回し、サンカ、マタギ……こういった名前で呼ばれた人々と、草木が繁茂している隆起した地形と渾然一体となったものが山なのであり(土地・草木・禽獣・ヒトのミックス)、それが存在していたうちは「山男」のリアリティもあった。
けれど近代化して平均化した日本人となって神秘性が(百物語のタネ)が消えてしまった。

著者が「後巷説」と題をつけたことに失せたるものへの哀惜があるだろう。その哀惜感が舞台を明治にして再度「百物語」を書かせた理由と思われるのである。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« お祝いの放屁一発 | トップ | だらだらした野球の春 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。