天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

父は大樹であった

2016-10-18 11:51:43 | 身辺雑記


きのうの讀賣俳壇、小澤實選に小生の句が入った。

父黒し雨に倒れし稲架起す

50年ほど前を回想した句であり現在ではよほどの山間部でないと見られない光景である。小生とほぼ同郷の小澤さんの胸にはすっと入ったのだろう。
並選だがこの句は採ってもらってよかった。

父への思い入れを象徴させた一句である。
父は「平岩秋の田」という俳号を持ち水田中心の農業をやるかたわら俳句を書いていた。「秋の田」というのだから収穫の秋を寿ぎたかったのに違いないがそのときはよく雨も降った。
ぼくら息子3人も当然のように野良仕事を手伝ったが、秋の田でいちばん悲惨だったのは稲架が雨の重みで倒れることであった。
土に差し込んだ支柱が雨でぬかるんで倒れる。
倒れた稲架の前でしばし呆然とするが稲架を立て直さなければならぬ。父を手伝うのであるが稲はどろどろで体はべたべた、百姓の息子に生れたことを呪ったものである。
父は文句も言わず黙々と再建に当った。
その克己心は少年のぼくに影響を与えたと思う。

新米や渋紙色の父笑ふ
稲架で一月ほど天日干しをした稲を脱穀しさらに精米したときの句。米が精米機から滑り落ちてくるときの父の様子である。
うれしそうな顔をしていたなあ。

豊年や湯の滾りをる発動機
発動機は重油で動かす水冷のヤンマーディーゼル。脱穀、精米などのエンジンであった。
小学生のころ発動機の水がすぐ沸騰して辺りにこぼれるのを見るのが好きだった。
少年が大人になる通過儀礼はいろいろあり、この重い発動機のハンドルを回して始動させることがその第一関門であった。
中学生でやっと回せた。腕力がないと反動で逆回転する面倒な代物であった。
次の関門は60キロの米俵を担げること。当時はほんとうに藁で編んだ俵に米を入れて出荷していた(今は麻袋)。
これは高校生にならないとできなかった。

父の身長は155センチほどであったが大きく感じた。
頑健で仕事をよくした。
父と一緒に野良仕事をしてその早さに負けずについていけることが目標であった。たとえば刈った稲を藁で縛る作業で、最初の30分はついていける。が、次に気づいたときはそうとう遅れていた。
あらゆる作業で挑む息子を父は笑った。余裕があった。

まろびては父につき行く茸狩

幼稚園のころから父について山を歩いた。父は足が速く藪の中でも平気で入るので母も二人の兄も一緒に行きたがらなかった。
ぼくは犬のようにぴったりついて行くのでえらく気に入られた。
父と同じように歩くことも大人になる通過儀礼と思ったものである。

目立せし鋸の刃睨む虎落笛
父は田より山仕事が好きだったかもしれない。冬は囲炉裏で鋸の歯にやすりを当てていた。ズイー、ズイーという音を心地よく聞いた。鉄の粉を火にくべるとぱっと燃え立った。仕上げた歯の反り具合を父はたんねんに見たものである。

梟の声色つかふ父怖し
目立をしながら梟の真似をするのがうまかった。幼児のときはほんものよりその声が怖かった。

胡桃割父に諾否を問はれけり
父はぼくの前に模範として立つ大樹であった。
父と並ぶことが大人になることであり望ましいことと素直に信じていた。
9年前94歳で死んだ。ぼくはこの年まで生きる自信はない。

雪暗や鳥か鼠か田を走る
父は冬の田を歩いて空気銃で雀を撃った。
パーンという乾いた銃声のあとバサバサバサと雀が落ちた。空気銃では一気に死ぬことがまれで彼らは最期の力を振り絞って枯草の中へ身を隠す。それを許さじとぼくが犬のように駆けて行き獲物をゲットした。
雀は囲炉裏で毛を毟って焼いて食った。
父から野生的な情趣を仕込まれのであった。



手袋に右左なし農の日々 平岩秋の田
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