天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

世界探求派奥坂まやを読む

2018-01-06 11:53:42 | 俳句


ヨミトモF子からメールが来て鷹1月号の奥坂まや作品はつまらないという。彼女は自分のブログに毎月奥坂まやの句を取り上げているらしいが今月は食指が動ないと嘆く。
F子はまず、「熟柿が遊蕩の色は誰かがやっているし、鵙の贄も驚かない。全体に既視感がある」と酷評する。
ぼくが昔から奥坂まやの信奉者でありいつでも贔屓することを知って、ぼくにまやさんを読んでみろ、とけしかける。
確かに奥坂まやが当時同じ五人会の姐御で初心のぼくをびしびし鍛えてくれた。
直接指導ということに関しては藤田湘子に次いでまやさんにお世話になった。以来まやさんの物への寄る鋭さ、世界を大摑みするダイナミズムなどに惚れこんでいる。
さてぼくの「永遠のマドンナ」奥坂まやの近作24句を鷹1月号からさかのぼって見て行く。

白昼

かなかなの溢れ出でては退るなり
まやさんはかなかなが好きだ。前月号もこれを詠んでいる。かなかなは鳴くときと休止の間に趣がある。たしかに「溢れ出で」るように声がふくらむ。ぼくは朝のかなかなを聴くことが多いが5時を過ぎて世間が明るくなると「退るなり」である。夜も真っ暗になるまでは鳴かず後ずさりするように消えてゆく。感覚的に実直にとらえている。


皆どこに往つたのか白昼のカンナ
「行った」でなく「往つた」のであるから自分が道にはぐれたとかいうような行楽の場面ではなかろう。カンナの赤や黄色が鮮やかなところでふと死者のことを思ったのだろう。現実のカンナのまばゆさが逆にいまここにいない人のことを感じさせたのである。
中央例会にこの句が出て加藤静夫が「この人は型を熟知して崩していますね」と言ったのが印象的。そう、破調にして欠損感を出している。



颱風来天の底ひを鳴らしつつ
颱風であるから「鳴らしつつ」は当然のことゆえ、奥坂クラスはここでちょっとした芸を見せる。それが「天の底ひ」である。天の底ひは「天網」という言葉に似てやや観念臭があるが句を深くする。「底ひ」といったことで空間に奥行をもたらしたのではないか。


ひくと腹うごめきさうな鵙の贄
ヨミトモF子が写生としてもの足りないという句である。
餌食になったばかりのなまなましい贄ではなかろうか。だから動きそうと見ている。素直な目の働き。奥坂のほかのダイナミックな句に比べれば地味だがこれはこれでいいのでは。


遊蕩の色となりたる熟柿かな
たしかにF子のいうように「遊蕩の色」は誰かがやっていても不思議でない比喩である。奥坂は一物を書くことを自分に課しているようなところがある。まあその意気をよしとしたい。


里山を斎きて木の実降りにけり
奥坂は感覚的に物をとらえることでは鷹の第一人者。ラグビーにおけるタックルのごとく物にぶち当たる体質が奥坂の句を諧謔から遠ざけ、世界探求派にしている。
いままでみてきた句もこれからみる句も物を感覚的にとらえるという奥坂のゆるぎない姿勢から生まれている。
けれどこの句はむしろ思想的であり斬新である。
「斎きて」<いつきて>がキーワード。
ぼくは奥坂自身に巫女的資質を感じひそかに「平成の巫女」などと思っているが、奥坂自身、「斎女」「斎王」にそうとう思い入れがあるのではないか。「斎く」は、心身を清めて神につかえるという意味だが、木の実が降るのが「斎く」ことであると、内容を人から植物に大胆に転化した。木の実が土を汚すという常識的な発想を打ち破ったことが新しい。
今月の6句の中で奥坂がもっとも深化した境地である。なぜヨミトモF子がここに気づかなかったのか。
(2018年鷹1月号)




灯の盈ちて回送電車夏の果

季語が秋の暮や暮秋ならまるで平凡。夏の果という輝きがすぐ前まであった季節ゆえさびしさなどもろもろの情感がある。


かなかなの声は時間の後ろより
たしかに蟬系の声は時間の経過をあやふやにし、時間という観念にゆさぶりをかける。作者にとってかなかなの声は時間と空間をあやしくしてくれる嬉しい使者なのだろう。


固練の靴墨のひび終戦日
瓶に入った靴墨。これは意外と早く使えないほど固くなってひびが入ってしまう。いいところをとらえている、さすがは物執着派の目の効かせ方。これぞ終戦日というきわめつきの句である。


まくはうり月のひかりを孕みけり
「孕みけり」で詩が立っている。万物の協応関係はアニミズムであるということを例示したような句。




くちびるの分厚き魚拓颱風圏
「くちびるの分厚き魚拓」ならぼくでも言えそうだが、颱風圏には驚いた。ぼくなら秋の風とか安易にやってしまいそうなところを颱風圏をもってきて、魚拓を生動させようとしたのが奥坂らしい。龍の絵から龍が飛び出ていくような幻想がわいてくる。


レモン一顆つめたき声のごとくあり
不思議な句である。もっと若いころの奥坂ならここで「ごとく」を出さずに、<レモン一顆つめたき声のひびきけり>と物をぶつける手を使ったのでは、とふと思った。実はこちらのほうが鮮やかで好きなのだが、作者はあくまで配合を拒否してレモンそのものを追い求めている。
攻撃の手が二つあり迷いそうなところで一物に舵を切った作者の心意気を感じた。
(2017年鷹12月号)


露一顆

炎暑なりダンプは砂利を逆落し
これは作者の自家薬籠中の素材であるし、表現の仕方でもある。危なげなくて楽しめる。


鉤並び屠場しづかや日の盛
鉤には肉がまだかかっていないと見る。けれど匂いは十分あってなまなましい。「日の盛」は奥坂の好みの季語でありこれを使わせたら鷹でナンバーワン。


熱帯夜都会は無音怖れけり
熱帯夜の東京が無音であったらと想像すると怖い。実際そういうことはなく夜も音に満ちているからこそ都会は安心と思う。「怖れけり」と擬人化しておもしろくなった。



月光の鉄扉の中へ列進む

ナチス兵が監視しているユダヤ人の行進を想像してしまった。鉄扉の中に入るとガスが出てなどと想像させるような内容で怖い。物を書き極めることで出る怖さ。


蒼穹の切先として鵙の声
感覚派の面目躍如の句。「蒼穹の切先」が言葉の発見。それはすなわち写生の醍醐味ということになる。


天日に露一顆なる地球かな
大胆な切り口である。地球に露一顆ではなく地球というものが露一滴であるという。それはいいとして「天日に」が意表を突く。灼熱の火の玉のもとの露一顆ということを凡百には考えられない。
こういう句があるから奥坂まやを「世界探求派」と呼びたくなる。「人間探求派」があるのだから。
       (2017年鷹11月号)


兵の墓

兵の墓直立不動にて灼くる
墓が「直立不動」は当然だが「兵の」で味わいを出した。小技を利かした句。


音と音諍ふ街や日の盛
<熱帯夜都会は無音怖れけり>を裏返したような内容。上五中七は街を端的にとらえていて秀逸。


納本のかがやく小口蟬しぐれ
かがやく小口から新しい紙の匂いがする。視覚、嗅覚を満足させてくれてとどめが聴覚に蟬の声。<天日に露一顆なる地球かな>というような大摑みに異能を発揮する作者だが、こういう小技も味わい深い。


皮引くや桃は慕情のごとうるほひ
この皮はすんなり長く広く剥けたのであろう。中身の桃の肌合、潤いが感じられる。慕情とはよく言ったものである。


盂蘭盆や蛇口より水むさぼれる
水を飲んだとき作者は死者を痛烈に思っている。哀悼の句といっていい。炎天では死者への思いなど出ないが、「盂蘭盆」でそれが濃厚。特に戦没者の霊を感じているにちがいないあ。南方で渇いて死んでいった人々を。


配線の黒く壁這ふ原爆忌
烈日が容赦なく当っているたぶん白っぽい壁の黒い電線を見て実直な原爆忌にした。この季語も奥坂の大好きなものでこの句を含めて原爆忌を5句以上は書いているだろう。
(2017年鷹10月号)
コメント (3)
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