レコーディングのお話その2
近年、日本の昭和歌謡やニューミュージックがネットを通して、海外でも評価が高いことは周知のこととなった。僕らがアレンジや作詞作曲の提供でお世話になった林哲司さんが作曲された、松原みきの「真夜中のドア」はスポティファイのグローバルチャートで世界1位を獲得し1億回以上の再生を記録している。
昭和歌謡の人気の一つはストリングスアレンジにあるのではないかと僕は思っている。ロックやフォークのようにリズム体とソロギターのみの表現に加えて、どの曲も贅沢なオーケストラがバックを固めている。前述のスーパーアレンジャーの萩田光雄氏のアレンジは全体のアレンジも素晴らしいけれど、ストリングスアレンジが特に素晴らしいと僕は勝手に思っている。
1975年当時、本物と聞き間違えるようなストリングスサウンドはキーボードではまだ表現出来なかった。金管楽器、木管楽器もそうだった。なので、オーケストラは全て生オケだった。生オケを収録するには、オーケストラ全員を無音状態に収納できる、巨大なブースの有る特定のスタジオでないと録音出来なかった。
僕達はフォークというジャンルではあったがメジャーなセールスだったので、製作予算をたっぷり頂いて贅沢レコーディングをずっと実行させて頂いた。なので、よくオーケストラのレコーディングに立ち会った。フォノグラム(フィリップス)レコードは松下、ビクター系列なので千駄ヶ谷のビクタースタジオがメインだった。
今もサザンオールスターズなどはこのスタジオをよく使っていると聞いている。ここが空いてないときは東銀座の音響ハウスや、既になくなっているが、毛利スタジオというところで録音が行われていた。
アレンジャーはスコア譜といってすべての楽器の譜面を同じ譜面の中に同時並行で書き上げる。
その全て込みの楽譜から、各楽器の演奏者一人ずつに配るパート譜は写譜屋というスコア譜から個々のパート譜に書き写すという作業だけを専業にしている職業が有ったのだ。この仕事はスピードが勝負だった。アレンジャーがスコア譜を書き上げて、それからレコーディング日時までの数日間で書き上げるという時間勝負の仕事だったのだ。当時よく利用させて頂いた写譜屋さんはハッスルコピーという会社だった。レコーディング時間になっても、パート譜が上がってこなくて、ディレクターが「何でハッスルコピーなのにこんなに遅れるのか!!」とよく怒っていたのを今も面白く思い出す。
冒頭のレコーディング風景の写真は、あのアルファスタジオの編集室なのだ。