ちゃんちゃこ50/きたかたよしろう

きたかたよしろうのブログです。ライブのことや音楽のことをささやきながらスローにやっております~

ちゃんちゃこはレッツゴーヤングも月一レギュラーだった?!50th episode 9

2024-08-25 | 明日が見えるかな?

1970年代はやたらと音楽バラエティー番組が賑やかな時代だった。

毎日、どこかのTVチャンネルで音楽番組はオンエアーされていた。

たとえば、TBS[歌謡最前線」「ぎんざナウ」「ヤングおーおー」日テレ「紅白歌のベストテン」フジテレビ「ミュージックフェアー」「夜のヒットスタジオ」等々、そしてNHKでは「レッツゴーヤング」が若者向けアイドル中心音楽バラエティーとして定着していた。

何故かアイドルではないちゃんちゃこも(アイドル性が強かった?)月一でこの番組のレギュラーとして出演していた。日曜日18時スタートのゴールデンタイムにTBSでは「ヤングおーおー」のレギュラーと同時で出演していたことになる。これって新人で日曜ゴールデン二つというのは、この当時でも大変めずらしい露出だったと思う。小澤音楽事務所、日本フォノグラムのレコード会社、事務所の宣伝マンに脱帽なのだ。

下記のユーチューブの映像は、1975年レッツゴーヤングの特番、アイドル大集合のとてもレアな映像なのだ。一番最後の、22分頃僕らは「黄色いカラス」をNHKホールで歌っているではないか~

1975年 アイドル大集合!!

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ちゃんちゃこは徹子の部屋芸人だった?!50th episode 8

2024-07-22 | 明日が見えるかな?

時は流れて2010年頃の話だ。CCCの渋谷のオフィスで働いている頃、外出から戻ってきた若手社員が、「渋谷で徹子の部屋の徹子さんに遭遇した!」と驚いたように話していた。僕はその社員に「僕は徹子の部屋にでたことあるよ~」と話したら、「マジっスか!!!!」と大騒ぎになった。平日午後の放送なので、若者には馴染のある番組では無かったのだが、アメトーーク等で「徹子の部屋芸人」なる同番組出演芸人がリアクションに困ったエピソード等を面白おかしく語る番組がうけているので認知度は高いようだ。

「徹子の部屋」は1976年2月にスタートした番組だ。僕達ちゃんちゃこは始まったばかりの「徹子の部屋」に出演したことになる。現在の六本木ヒルズの敷地の前の姿はテレビ朝日の本社+スタジオ地帯だった。徹子の部屋のセットはその敷地内にあった。現在のように広くて明るいセットではなかったように記憶している。麻布十番に住んでいた僕達は散歩がてら歩いてテレ朝スタジオに行ったように記憶しているが、マネージャーとタクシーだったのかな?初めて面談した黒柳徹子さんはとてもスリムで痩せておられたように記憶している。楽しくお話を進めていく中で、お友達ゲストとして元ジローズの森下ジローさんに参加頂いた。ジンタン(森下さんのあだ名)ははるばる神戸から来ていただいた。ジンタンとのお付き合いは僕達が中学生の頃ジンタンが同志社のフォークソング部(とんがりぼうし)の頃からのお付き合いだ。ギターも教えてもらったりしていた。それから杉田二郎さんとジローズを組んで「戦争を知らない子供たち」で大ヒットした。

ジローズもわずか1年で解散し、その後、神戸ラジオ関西のディレクターになられた。ぼくらがデビューしたころはバリバリのディレクターだった。そんなジンタンを交えて昔話にも触れて楽しく番組収録は終えた。

今更のように徹子の部屋ゲスト一覧をググったが何とちゃんちゃこの名前が出ていない。1976年はロッキード事件の証人喚問の報道特番が幾度かあり、この番組も幾度か飛んでいる。僕達もロッキード事件の犠牲者になったのだろうか・・・・?

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ぎんざNOW!のこと。レギュラーでちゃんちゃコーナーが有った?!50th episode 7

2024-06-13 | 明日が見えるかな?

前回は1974年11月3日、初めてテレビに出演してそのまま、6ヶ月レギュラーをさせて頂いた「ヤングおー!おー!」のエピソードをお話させて頂いた。大阪は堂島SABホールでの月2回収録だった。1974年12月20日「空飛ぶ鯨」がリリースされて、僕達ちゃんちゃこは華々しくデビューした。そして、1975年1月の放送からまたまたレギュラーとして番組に登場させて頂いたのが「ぎんざNOW!」だった。TBSの関東ローカルだったが、女子中高生、ティーンに絶大な人気があり、現在もレジェンド番組として名前は残っている。せんだみつおさんが大ブレイクした司会者。素人コメディアン道場からは関根勤さん他多数の人気コメディアンを輩出。とにかく賑やかな30分生放送だった。深夜ラジオ番組「歌え!ヤングタウン」のTV版が「ヤングおー!おー!」そして、やんぐおー!おー!のTBS版がぎんざNOW!僕達は伝説の3番組を全てレギュラー準レギューラーで迎えて頂いた。

当時、僕達の京都の先輩としては「あのねのね」が大ブレイクしていた。同じ京都でフォーク二人組というとでこの新人はやっぱり、あのねのね路線でお笑い系のバンドだろうとスタッフからは思われていたようだ。「空飛ぶ鯨」というシリアスな歌でデビューした割には、どこかホワッとした明るさというか、面白さが彷彿されていたのかも知れない(笑)。レギュラー出演した初回から、「ちゃんちゃコーナー」というコーナー担当を任された。「ムシムシクイズ」というだじゃれみたいなクイズを視聴者がはがきで応募してきて、それを二人で読み上げるというコーナーだった。例えば、(問、松村)いつも勘違いしてる虫は?(答え北方)「アリ?」~てな感じで延々続くのだが、金曜日がレギュラーで毎週1週間で数百の応募があったのだ。僕はこのてのダジャレを今だに続けているのだ。下の写真はちゃんちゃコーナーのリハール風景なのだ。よくも残っていたものだ。

ぎんざNOW!では数々のゲストと楽しくおしゃべりしたり、リハーサルを拝見したり、何だか、ザ芸能界にいる感じが沸いていたような気がする。また、生放送なので、ハプニングも含めて番組を止められないスリル感なども味わうことが出来た。僕にとってもレジェンドな番組として思い出が繋がっている。そしてレジェンドは40年後まで繋がった。

下記ユーチューブは、ちゃんちゃこデビュー40周年記念、復刻版アルバムリリースのプロモVTRにせんだみつおさんがゲスト出演していただいた時の映像だ。

応援団長!せんだみつおさん登場!ナハ ナハ!【ちゃんちゃこ 40周年 告知動画05】

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ヤングおー!おー!のこと。やっさんに説教された?50th episode 6

2024-05-18 | 明日が見えるかな?

僕達が初めてテレビの番組収録に訪れたのは、1974年10月のことだった。大阪は堂島のSABホール、収録番組は「ヤングおー!おー!」だった。

この伝説のバラエティー番組がスタートしたのは、1969年7月3日、僕達が出演の番組スタートは1974年11月3日だった。当時のパーソナリティーは斎藤務さん、司会は桂三枝(現文枝)さん・笑福亭仁鶴さん、レギュラーは横山やすし・西川きよしさんという豪華な顔ぶれだった。後で知ったことだが、元々はMBS毎日放送の人気深夜ラジオ番組「歌え!ヤングタウン」のテレビ版として、この番組が企画されたとのこと。このMBSの同番組の、TBSバージョンで関東ローカルで企画された番組が、「ぎんざNOW!」だった。有難いことに、小澤音楽事務所のパワーとレコード会社宣伝マンHさんのおかげで、この伝説の3番組全てをレギュラー若しくは準レギュラーとしてデビューさせて頂いたのだ。

ヤングおー!おー!の当時のレギュラーで忘れられないのは、まだ若手新人芸人として、ユニットを組んでいた「ザ・ぱんだ」だ。桂文珍・月亭八方・桂きん枝・林家小染の4人組の皆さんだった。SABホールの楽屋は一階の大部屋と二階の個室に分かれていた。大部屋には新人や若手タレント、2階の個室には大御所やベテランゲストが利用していた。ザぱんだの皆さんは一階の大部屋だったので、毎回楽しくお話させていただいた。特に文珍さんは京都の立命館出身ということもあり親しみやすくてよくおしゃべりしたものだった。楽屋で特に印象が残っているのは、個室の横山やすし師匠がよく下の大部屋に顔を見せてもらったことだ。ある収録日で時間の余裕が有った時に、フラフラとやすし師匠が降りて来られて、僕達が挨拶すると、やっさんが「お前ら新人やな?新人は・・・・に気をつけなあかんにゃで~、ほんで・・・・ような夢を持って・・・まあ頑張れや~」ととても気さくにアドバイスをもらったことが有った。感激した。

僕らはデビューの2か月前からヤングおー!おー!の今月の歌というコーナーで、松本隆作詞・穂口雄右作曲の「君をさらいたい」という曲を3か月連続で歌い続けた。ワンクール12回、日曜日の18時ゴールデンタイムで歌ったのだ。なので、デビューシングルは「空飛ぶ鯨」と「君をさらいたい」が両A面扱いという不思議な構成でデビューした。なのでジャケットの曲目扱いではB面になった「君をさらいたい」がやたらにデカい。

下の写真は記念にとっておいた、1974年10月20日(僕達初の収録日)の進行台本の表紙だ。今となっては半世紀前のお宝なのだ。

それでは、歌いまくった「君をさらいた」の2007年ちゃんちゃこ再結成の公開リハーサルバージョンでお聞きいただこう。それでも20年近く前の二人だ。

君をさらいたい by ちゃんちゃこ

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70年代のレコーディングには写譜屋という職業があった?!50th episode 5

2024-04-24 | 明日が見えるかな?

レコーディングのお話その2

近年、日本の昭和歌謡やニューミュージックがネットを通して、海外でも評価が高いことは周知のこととなった。僕らがアレンジや作詞作曲の提供でお世話になった林哲司さんが作曲された、松原みきの「真夜中のドア」はスポティファイのグローバルチャートで世界1位を獲得し1億回以上の再生を記録している。

昭和歌謡の人気の一つはストリングスアレンジにあるのではないかと僕は思っている。ロックやフォークのようにリズム体とソロギターのみの表現に加えて、どの曲も贅沢なオーケストラがバックを固めている。前述のスーパーアレンジャーの萩田光雄氏のアレンジは全体のアレンジも素晴らしいけれど、ストリングスアレンジが特に素晴らしいと僕は勝手に思っている。

1975年当時、本物と聞き間違えるようなストリングスサウンドはキーボードではまだ表現出来なかった。金管楽器、木管楽器もそうだった。なので、オーケストラは全て生オケだった。生オケを収録するには、オーケストラ全員を無音状態に収納できる、巨大なブースの有る特定のスタジオでないと録音出来なかった。

僕達はフォークというジャンルではあったがメジャーなセールスだったので、製作予算をたっぷり頂いて贅沢レコーディングをずっと実行させて頂いた。なので、よくオーケストラのレコーディングに立ち会った。フォノグラム(フィリップス)レコードは松下、ビクター系列なので千駄ヶ谷のビクタースタジオがメインだった。

今もサザンオールスターズなどはこのスタジオをよく使っていると聞いている。ここが空いてないときは東銀座の音響ハウスや、既になくなっているが、毛利スタジオというところで録音が行われていた。

アレンジャーはスコア譜といってすべての楽器の譜面を同じ譜面の中に同時並行で書き上げる。

その全て込みの楽譜から、各楽器の演奏者一人ずつに配るパート譜は写譜屋というスコア譜から個々のパート譜に書き写すという作業だけを専業にしている職業が有ったのだ。この仕事はスピードが勝負だった。アレンジャーがスコア譜を書き上げて、それからレコーディング日時までの数日間で書き上げるという時間勝負の仕事だったのだ。当時よく利用させて頂いた写譜屋さんはハッスルコピーという会社だった。レコーディング時間になっても、パート譜が上がってこなくて、ディレクターが「何でハッスルコピーなのにこんなに遅れるのか!!」とよく怒っていたのを今も面白く思い出す。

冒頭のレコーディング風景の写真は、あのアルファスタジオの編集室なのだ。

 

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先週末は二日連続で野外ライブで盛り上がり~ 

2024-04-16 | 明日が見えるかな?

先週末4月12日金曜日は、在日中国人の皆さんのパフォーマンスを中心とした国際交流フェスティバル「第二回華の春」が池袋西口公園、グローバルリングステージで賑々しく開催された。

僕達ちゃんちゃこカンパニーのフォークユニットは、スタートパフォーマーとして賑々しく歌った。厳しい世界情勢の中で平和を歌った「イムジン河」「翼を下さい」は言葉の壁を破って大変共感を頂いた!

ステージ後は沢山出店されている、ガチ中華、ガチモンゴル、ガチインドの屋台でガチガチお祭りモードに入ったのだった。

翌日、4月13日土曜日は恒例になってきた、丹沢山麓は秦野の「桜畑祭り」にて爽やかな風に吹かれて歌わせて頂いた。夏空のような天候に恵まれて、各々の出演者も気持ち良くパフォーマンスされた。

昨年は、ベース野村和宏さん、ギターウッチーこと内田高弘さん、僕の男3人トリオで歌ったのだが、今年は昨日のグローバルリングから歌姫ミミさんこと平田紀子さんにも参加頂き、ピーターポール&マリーの楽曲を中心にフォークソングを歌った。この時代、物言う反戦歌やレジスタンスの歌がいかに大切かを思った。その気持ちはお客様にもとても共感を頂いて、二日とも大盛り上がりで春盛りであった。

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木綿のハンカチーフ・横須賀ストーリー・異邦人のアレンジャーが空飛ぶ鯨を編曲?50th episode 4

2024-04-04 | 明日が見えるかな?

今回は少しレコーディングの話をしたい。1967年、ビートルズが「サージェントペパーロンリーHCB]をレコーディングした時代は最先端のマルチトラックレコーダーは何と4チャンネルだった。4トラックでしか多重録音は出来なかった。1969年のレット・イット・ビーの録音風景に出てくる最先端録音機が、8チャンネルだった。

1974年夏、僕達が初めてプロのレコーディングで入ったフィリップスのコンパクトなスタジオの風景は感動をもって今も脳裏に残っている。大きなJBLのモニター用のスピーカーから流れるカラオケの音の良さにびっくりしたものだった。京都の自宅で聞いていたセパレートなコンポーネントステレオでもなかなかいい音だと思っていたのに、完全に耳の垢が落ちてしまったように思った。宇宙船の中のように、ミキサーのつまみが並んでいる。その防音ガラスの奥には録音ブースが見えている。1970年代前半でマルチトラックは16トラックまで進化していた。(その後24チャンネルになり、現在はデジタルで無限大のトラックとなった)僕達はその16トラックでレコーディングを開始したのだった。

ゆーみん達は田町港南のアルファスタジオで伝説的なアルバムを制作していたが、3枚目のアルバム制作は僕達も全てアルファースタジオで制作した。やはり16トラックだった。

前述した穂口雄右氏にアレンジしてもらった、初めの4曲に続き「空飛ぶ鯨」をアレンジしてくださったのは、萩田光雄さんだった。かれはこの曲で1975年のレコード大賞編曲賞を受賞された。だが、その翌年も続いて梓みちよさんの「メランコリー」で同賞を受賞された。そして、翌年大ヒットした、「木綿のハンカチーフ」や以降「横須賀ストーリー」「異邦人」等々、音楽の魔術師と謳われる大アレンジャーに駆け上がって行かれた。

鯨だけではなく、僕達のアルバム曲も多数アレンジして頂いた。僕のオリジナルで初めてシングルカットされた、「涙のアイラブユー」も彼のアレンジだった。アレンジの打合せで萩田さんにおこがましくも、前奏のイメージは・・・。とサンプルレコードを持って行き、ウォーカーブラザーズの「孤独の太陽」みたいにティンパニーとブラスで煽って頂いて、間奏はレイラの後奏のピアノみたいな~といろいろ注文を付けた若ぞうの意見をフムフムと聞き取って頂き、なんとそのまま取り入れてもらったアレンジがアップした時には小躍りしたものだった。

それでは、レコード大賞編曲賞萩田光雄氏の魔法をお聞きください

ちゃんちゃこ 『空飛ぶ鯨』 1974年

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ちゃんちゃこのスタイリストはBIGIの菊池武夫さん本人だった?!50th episode 3

2024-03-18 | 明日が見えるかな?

●今回はちゃんちゃこのファッションの話

上の写真はデビュー直前の僕達のアーティスト写真。前出のように、1930年代風のコスチュームスタイルだ。吊りバンドにダボっとしたパンツ、縦縞模様のワイシャツにハンチング、そしてコンビの革靴。松村君はカウチンセーターを着こんでカナダ風ファッションだ。ロケ地は京都、黒谷、金戒光明寺の本堂に続く石段で撮影された。

この、衣服は当時京都でマンションメーカーをやっておられた中井幹二氏のオリジナルデザインなのだ。1970年代前半、自宅マンションでデザインした斬新なアパレルメーカーが原宿でポツリポツリと店を出店していった。マンションメーカーと呼ばれた。そしてそんな中から若者の支持を得てどんどん成長していったのが、BIGIでありニコルであったりした。中井さんのブランドは京都のそれであった。幹二さんは僕らがデビューすると、僕らのためにオリジナルのコスチュームを提供してくれた。

黄色いカラスまでのコスチュームは幹二さんオリジナルで当に一点ものだった。だが、オリジナルは流石にコスパが悪いので、何処かのメーカーとタイアップしないか?という相談がマネジャーから有った。それで、当時1975年に放送されていた「傷だらけの天使」でのショーケン、のファッションに感銘していた僕は二つ返事でBIGIでお願いします~。と答えた。(内心多分ダメだろうと思っていた)。数日が経った。マネージャーから、BIGIで打合せするから代官山に集合ということになった。当時BIGIは代官山のヒルサイドテラスに本社が有った。初めて会った菊池武夫氏は僕達を気さくに迎えてくれた。菊池氏と意気投合して、セカンドアルバムのジャケット写真からは上から下までBIGI一色のコスチュームとなった。それも衣装合わせは菊池さん本人が全てコーディネートしてくださった。当にスタイリストをやって下さった。ちなみにセカンドアルバムのロケ背景は代官山ヒルサイドテラスの隣にあった洋館の前で撮影したものであった。プライベートでも代官山に通ってファッションショー落ちの作品等々、破格の値段で売って頂いた。

衣装としてのBIGIとは別に僕の古着ファッションはとどまるところを知らなかった。

冬の茅ヶ崎の砂浜で撮影された、ちゃんちゃこサードアルバムのこの衣装。

僕が着ている白いスーツは、京都の三条木屋町近くの古着屋で手に入れた、当に年代物の麻のダボダボスーツなのだ。当時ウエストコーストサウンド大好きミュージシャンだった松村君はそのままウエストコーストなのだ。

そして、6枚目のシングルのジャケット写真で着ているシャツは、松村君が着ているのを含めて、僕が文化屋雑貨店(当時渋谷と原宿の間にあった)で仕入れた、レトロファッション風シャツだ。このとてもシャープなモノクロ写真。撮影して頂いたのは、昨年星になられた、篠山紀信氏なのだ。

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セカンドシングル「黄色いカラス」のイラストは有名漫画家?!50th episode 2

2024-02-25 | 明日が見えるかな?

ジャケットデザインのお話2。

ジャケットのエピソードも沢山あるので、ちょっと続ける。篠山紀信さんのお話とかもそのうちに~。「空飛ぶ鯨」がヒットして、セカンドシングルもメルヘン路線で行こうということになり、ディレクターとみなみらんぼうさんが、徹夜でストーリーを考えたというこの作品。「僕は黄色いカラス、あなたをだまそうとした醜い羽根のカラス、、、カナリアは言いました、羽根を黄色く染めても心を染めなかったあなたが好きです~」今の政治家に歌ってやりたいような歌詞なのだ!

メルヘンなので、写真では表現出来ず、やはりイラストでジャケットデザインすることになった。僕の友人で漫画家志望だけどイラストレーターでもありユニークなイラストを描いてくれる人がいます。ということで、その友人にイラストを依頼した。京都時代の4つ年上の友人で、名前を久内道夫(ひさうちみちお)と言った。京都に帰るといつも夜中まで一緒に飲むお酒好きの彼だった。上記のジャケットイラストは彼の世界観で描かれたものだった。

彼は、1976年漫画雑誌ガロで新人賞漫画家としてデビューして、その後80年代には各誌で連載がはじまり、その独特の世界観で全国的に評価された。

独特のキャラクター性を持った彼なので、映画やミスタードーナツのCMにも登場するほど、有名になって、みうらじゅんとも仲良しだった。

そんな彼と、ちゃんちゃこ時代から十数年ぶりに再会したのは、やはり京都だった。桜満開の京都は下賀茂神社付近の鴨川の土手で別の友人とお花見をして歌っていたら、「その声はよしろう君か?」と桜の花の中から懐かしい顔が飛び出した時には思わず大笑いした。(笑)

嘘つき政治家に聞かせてやりたい「黄色いカラス」を聞いてほしい~

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アルバムジャケットは映画スティングのパロディーだった?! 50th episode1

2024-02-11 | 明日が見えるかな?

1974年12月20日にちゃんちゃこは日本フォノグラム(元フィリップス・現ユニバーサル)からデビューした。今年で何とデビュー50周年なのだ(ブランク38年(笑))

そこで、今年はこのブログで50年前の面白おかしい昭和歌謡界エピソードなどをこっそりアップしようと思う。1回目はレコードジャケットのお話。

僕達ちゃんちゃこカンパニー(アマチュア時のバンド名)がプロのミュージシャンとスタジオで初めて会ったのは、穂口雄右さんという方だった。75年のキャンディズの「年下の男の子」からキャンディーズの殆どの楽曲を創作された大メロディーメーカーだが、とっても気さくな方だった。いつもスーツ姿で、おしゃれでイケメンで、センシブルで~~。とにかくカッコいい先輩だった。それで、君達はどんな楽曲が好きなんだ?と聞かれて、僕は1960年代初期のアメリカンポップスが大好きだと答えた。僕たち(特に僕は)おしゃれなものやことが大好きで、ファッションは当時観た映画「スティング」の1930年代ファッションにはまっているとかそんな話をしたのだと思う。フォークバンドと聞いていた穂口さんはちょっとジャンルの違う音楽を好んでいる二人だと瞬間に理解してくれた。それで、君達がこれからやるのは、ニール・セダカだね!といってUPしてきて頂いた曲が「涙のイニシャル」という曲だった。作詞はキャンディーズのコンビの松本隆さんだった。デビュー曲は「空飛ぶ鯨」(みなみらんぼう)だったが、その前に作られたイメージは陽気なPOPSデュオだったが、当時はそんなジャンルは無かった。ノンポリの変なフォークバンドだった。鯨がヒットして早速アルバム制作になったが、デビュー前に穂口さん、松本隆さんのコンビで作って頂いた4曲も収録されて、僕のオリジナルもおこがましくも2曲入れて頂いた。それで、アルバム全体のイメージは鯨というよりかなりPOPな仕上がりになり、ジャケットのクリエイターは僕達のファッションを観て何と、僕が大好きだったスティングの映画のポスターのパロディーを写真スタジオ内に作ってくれたのだった!とても芸こまで、小物の形や配置までそっくりに作り込んでくれた。そして、2人が持ってるお札の真ん中の写真は僕達の顔になっているではないか!

面白ーい!

ということで、はじめにレコーディングした、ニール・セダカ風オシャレPOPS「涙のイニシャル」をお聞きください。ドラムはあの村上ポンタさんです~

 

涙のイニシャルちゃんちゃこ

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