三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

過去を知り、現在を生きる 東アジア史総論 朝鮮史をとおして考える 4

2017年06月22日 | 個人史・地域史・世界史
■分断国家・分断地域・分断民族
(1)境界(地域線、国境線、植民地線)の世界史
  1、初期農耕社会
      長江文明(BC14000年ころ  )。
      メソポタミア文明(BC8000年ころ~  )。
      黄河文明(BC7000年ころ~  )。
      インダス文明(BC7000年ころ~  )。
      遼河文明(BC6200年ころ~  )。
      エジプト文明(BC5000年ころ~  )。
  2、古代国家・古代帝国
      エジプト王国(BC3000年ころ~BC30年)。
      夏・殷・周国(BC1900年ころ~  )。
      ヒッタイト王国(BC1680年ころ~BC1200年ころ)。
      ペルシア帝国(アケメネス朝〈BC550~BC330年・アルサケス朝〈BC247~
            AD224年・ササーン朝〈226~651年〉)。
      秦漢帝国(BC221年~220年)。
      ローマ帝国(BC27~395年)。
         395年:東西に分裂。西ローマ帝国、~480年。東ローマ帝国、~1453年。
      隋唐帝国(589~907年)。
  3、中世国家・中世帝国
      神聖ローマ帝国(800~1806年)。
      モンゴル帝国(1206~1634年)。
      エチオピア帝国(1270~1936年イタリアが占領~1941年独立~1975年帝政廃止)。
      オスマン帝国(1299~1922年)。
      アステカ帝国(1325年ころ~1521年)。
      明帝国(1368~1644年)。
      ティムール帝国(1370~1507年)。
      インカ帝国(1438~1533年)。
  4、近代国家
      ポルトガル帝国(1410~2002年……現在)。
      スペイン帝国(1492~1898年……現在)。
      ムガル帝国(1526~1858年)。インド大反乱(第一次インド独立戦争。1857~
           1859年)。
      ハプスブルク帝国(1526~1804年)→オーストリア帝国(1804~1867年)→
           オーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918年)。
      オランダ帝国(16世紀末~現在。オランダ東インド会社〈1602~1799年〉年……
           現在)。
      ロシア帝国(1613~1917年……現在)。
      清帝国(1616年建国。1644~1912年)。
      フランス帝国(1605~現在。第一帝政1804~1815年、第二帝政1852~1870年
           ……現在)。
      イギリス帝国(大英帝国。17世紀……現在)。
      USA帝国(1776~1861~1865~1898年……現在)。
  5、国民国家・国民帝国
      北緯49度線・西経141度線  アメリカ合州国・カナダ。
      ドイツ帝国(1871~1918ヴァイマル共和国~1933ナチスドイツ~1945年……
           現在)。
      日本帝国(大日本帝国。1889~1947年……現在)。
  6、植民地地域
      西ヨーロッパ国民国家によるベルリン会議(1884年11月~1885年2月)後のアフリカ
     分割
      ★イギリス
        エジプト(保護国)、スーダン、ケニア、ウガンダ、ソマリランド、南ローデシア(現
       ジンバブエ)、北ローデシア(現ザンビア)、ベチュアナランド(現ボツワナ)、オレン
       ジ自由国、南アフリカ(現南アフリカ共和国)、ガンビア、シエラレオネ、ナイジェリア、
       ゴールド・コースト(現ガーナ)、ニアサランド(現マラウイ)、ザンジバル。
      ★フランス
        アルジェリア、チュニジア、モロッコ、ソマリランド(現ジブチ)、マダガスカル、コモ
       ロ諸島、モーリタニア、セネガル、スーダン(現マリ共和国)、ギニア、コートジボワー
       ル、ニジェール、オートボルタ(現ブルキナファソ)、ダオメ(現ベナン)、ガボン、中
       部コンゴ(現コンゴ共和国)、ウバンギ・シャリ(現中央アフリカ共和国)、チャド。
      ★ポルトガル
        アンゴラ、ポルトガル領コンゴ(現アンゴラ領カビンダ)、ポルトガル領東アフリカ
       (現モザンビーク)、ポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ)、カーボベルデ諸島(現
       カーボベルデ)、サントメ・プリンシペ。
      ★ドイツ
        カメルーン、ブルンジ、ルワンダ、タンガニーカ、ナミビア、トーゴ。
      ★イタリア
        リビア、エリトリア、ソマリア、エチオピア(1936~1941年)。
      ★ベルギー
        ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)。
      ★スペイン
        スペイン領サハラ(現西サハラ)、リオ・デ・オロ、サギア・エル・ハムラ、イフニ、
       モロッコ北部保護領(1415年~1913年)、セウタ、メリリャ、リオムニ(現赤道ギニア
       の一部)

     ※直線の植民地線が国境線に
       北緯26度線・西経12度線  西サハラ・モーリタニア
       北緯25度線  マリ・モーリタニア
       北緯22度線  エジプト・スーダン
       南緯13度線  アンゴラ・ザンビア
       東経141度線  インドネシア・パプアニューギニア
       東経56度線  カザフスタン・ウズベキスタン
       東経25度線  リビア・エジプト
       東経25度線・東経24度線  リビア・スーダン
       東経24度線  チャド・スーダン
       東経22度線  アンゴラ・ザンビア
       東経21度線・東経20度線  ナミビア・ボツワナ
       東経20度線  ナミビア・南アフリカ共和国

  7、現代国家・植民地
      植民地所有国(2017年現在)
         イギリス、フランス、アメリカ合州国、オランダ、ニュージーランド
      現在の植民地
        イギリス:ケイマン諸島、イギリス領バージン諸島、アンギラ島、バミューダ諸島、
           タークス・カイコス諸島、ピトケアン諸島、マルビナス諸島、ジブラルタル、
           モントセラト島、セントヘレナ・アセンション・トリスタンダクーニャ。
                 西サモアは1962年にイギリスから独立。
        フランス:ニューカレドニア(1853年にフランス領)、フランス領ポリネシア(ソシエテ
           諸島〈タヒチ島など〉、マルキーズ諸島、トゥアモトゥ諸島、ガンビエ諸島、オ
           ーストラル諸島、ラパ島……)、グアドループ島、マリー・ガラント島、ラ・デ
           ジラード島、レ・サント諸島、サン・バルテルミー島、セント・マーチン島北部
           (サン・マルタン)。
        アメリカ合州国:東サモア(トケラウ諸島のスウェインズ島はアメリカ合州国領サモ
           ア)、グアム島、テニアン島、北マリアナ諸島(サイパン島、テニアン島、ロタ
           島……)、アメリカ合州国領バージン諸島、プエルトリコ。
        オランダ:シント・ユースタティウス島、サバ島、セント・マーチン島南部、オランダ領
           アンティル。
        ニュージーランド:トケラウ諸島のアタフ島、ヌクノノ島、ファカオフォ島(1948年に
           ニュージーランド領に)。

    ※戦争による国境の画定
      太平洋戦争(1879年4月~1884年4月休戦~1904年講和):
         ボリビア共和国・ペルー共和国 対 チリ共和国。
         ボリビア西南部・ペルー南部がチリの領土に。ボリビアが内陸国になった。

(2)分断国家→統一国家
     朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国)
       1945年、朝鮮解放。
       1948年8月、大韓民国建国。9月、朝鮮民主主義人民共和国建国。
       1945年8月17日:38度線。
       1953年7月27日:軍事境界線(군사분계선。 Military Demarcation Line〈MDL〉)。
           軍事境界線の南北に非武装中立地帯(DMZ。幅約4キロ。地雷原など)。
     ドイツ(1949~1990年:ドイツ連邦共和国・ドイツ民主共和国)→1990年:ドイツ連邦共
         和国)。
     ベトナム(1949~1975年:ベトナム民主共和国・ベトナム共和国)→1975年:ベトナム社
         会主義共和国。
     イエメン
       1918年、イエメン王国(オスマン帝国から独立)。
       1962年、イエメン王国崩壊。イエメン・アラブ共和国「成立」。
       1967年、英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国として独立
         (アラブ世界初の社会主義国)。1970年、イエメン人民民主共和国と改称。
       1990年5月22日、イエメン共和国「成立」(イエメン・アラブ共和国、イエメン人民
         民主共和国合併)。

(3)分断地域
     モンゴル(モンゴル〈←モンゴル人民共和国〉・内モンゴル自治区〈←内モンゴル自治
       政府〉・ブリヤート共和国・トゥバ共和国)
         1933年、モンゴル人民共和国軍、布爾根等占拠。
     トルキスタン:
       西トルキスタン(トルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギス・カザフスタン・タジキス
      タン)。
       南トルキスタン(アフガニスタン北部)。
       東トルキスタン(中華人民共和国新疆ウイグル自治区)。
          清国政府、1884年に新疆省設置。在地有力者を通した間接支配。
          辛亥革命後、漢民族官僚による独裁的な体制(事実上の独立状態)。
          1919年6月、中華民国政府、アルタイ地区編入。
          1933年、東トルキスタン共和国、中華民国より独立を宣言。
          1949年、中華人民共和国政府支配。
          1955年、中華人民共和国、新疆ウイグル自治区に改組。
     アゼルバイジャン
     アルメニア
     ジョージア(グルジア):グルジア・ソビエト社会主義共和国・南オセチア共和国・アブ
        ハジア共和国
     キプロス島:1914年11月にイギリスがオスマントルコ領のキプロスの併合を宣言。1925
          年に直轄植民地に。
           1960年8月16日、イギリスから独立。1964年、内戦開始。
           1983年、北キプロス・トルコ共和国(北部約37%。トルコ共和国のみが承認)。
           キプロス共和国(国際連合加盟国193か国のうちトルコ以外の192か国が承
          認)。
         ※「グリーンライン(green line、UN Buffer Zone in Cyprus)」(コンクリート壁、
          鉄条網、監視塔、塹壕、地雷原)で分断。
     カリマンタン島(ボルネオ島)
     チモール島
        東チモール(ポルトガル最後の植民地。2002年、独立)。
        西チモール(オランダの植民地→インドネシア領)。
     パプア島(「ニューギニア島」)
        1848年:西部をオランダ領に、1884年:東部の北部をドイツ領に、南部をイギリス
       が領土化→1901年にオーストラリア領。1914年に東部の北部がオーストラリアの委
       任統治領に。
        パプア島東部  パプアニューギニア独立国:1975年9月16日独立。
        パプア島西部  インドネシア領パプア州(1961年:オランダがオランダ領ニュー
               ギニア独立を正式承認。1969年:インドネシアが領土化〈西イリアン
               州〉、1973年:イリアンジャヤ州と改称。2002年:パプア州に改称)。
     アイルランド島
        1541~1649年・1660~1800年、アイルランド王国(Ríocht na hÉireann)。1694
          年以後、イングランド王国の従属国。
        1801年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国( United Kingdom of Great
           Britain and Ireland)「成立」。
        1916年4月24日 ~30日、イースター蜂起。
        1919年、アイルランド共和国独立宣言。
        1922年、アイルランド自由国(Saorstát Éireann。Irish Free State)。
           アイルランド島32州の南部26州がイギリス(グレートブリテンおよびアイルラ
          ンド連合王国)から分離。
        1927年、グレートブリテン及びアイルランド連合王国、グレートブリテン及び北アイ
          ルランド連合王国と改称。
     イスパニョーラ島
        ハイチ共和国(イスパニョーラ島西部。1804年1月1日フランスから独立)。
        ドミニカ共和国(イスパニョーラ島東部。スペインから1821年12月1日独立)。
     クルディスタン
        トルコ東部、イラク北部、イラン西部、シリア北部、アルメニア南部。
     フエゴ島
        ヤーガン族の大地と海。
        西経68°36′38″でアルゼンチンとチリに分割。
     イヌイット・アレウト族(アリュート族)の大地と海
        1867年4月:アメリカ合州国、ロシアからアラスカ購入。
(4)分断民族

(5)絶滅させられた民族、失われた言語
   「タスマニア人」。
      1803年……1828年~32年:「ブラックウォー」(「タスマニア人」虐殺・フリンダーズ島
         へ強制移住)。
      1876年5月8日:最後の「タスマニア人」死亡。トルガナンナ(Trugernanner。1812年ころ
         生まれた)。遺体はタスマニア島のカスケイズ女性刑務所に埋葬。2年後、タスマ
         ニア王立協会によって掘り返され展示された。1976年4月、死後100年目火葬さ
         れ、ダントルカストー海峡に撒かれた。カスケイズ女性刑務所は、2010年に「オ
         ーストラリアの囚人遺跡群」の1つとしてユネスコ世界遺産に登録。
           Female Convicts Research Centre:http://www.femaleconvicts.org.au/
                   タスマン(1603~1659年):オランダ人、オランダ東インド
                  会社員。1643年にタスマニア島、ニュージーランド、フィジーに。
   「パタゴニア語」:マプチェ語 (Mapudungun):チリに60万人あまり、アルゼンチンに30万人
       のマプチェ語話者。

   ★1950年以後に消滅した言語
     ブラジル:アマナイェ語(Amanayé)、アラパソ語(Arapáso)、ウィトト語(Huitoto)、クレ
        ンイェ語(Krenjê)、マク・アクアリ語(Máku-Auari)、ムーラ語(Múra)、ヌキニ語
        (Nukiní)、トラ語(Torá)、ウモティニャ語(Umutina)、ウルパ語(Urupá)、シャ
        クリヤバ語(Xakriabá)、ユルティ語(Yurutí)。
     ペルー:チョロン語(Cholon)、クリェ語(Culle)、モチーカ語(Mochica)、ワリアパノ
        語(Wariapano。Panobo)、ヤメオ語(Yameo)。
     チリ:アタカマ語(Atacameño)。
     アルゼンチン:クンザ語(Atacameño)、プエルチェ語(Gününa Küne)、セルクナム語  
        (Ona)、ビレラ語(Vilela)。
     ボリビア:アポリスタ語(Apolista)、アタカマ語(Atacameño)、カニチャナ語
        (Canichana)、ウル語(Uru)。
     ホンジュラス:レンカ語(Lenca)。
     ニカラグア:カカオペラ語(Cacaopera)、マタガルパ語(Matagalpa)、スブティアバ語
        (Subtiaba)。
     コロンビア:カラバヨ語(Carabayo)、マカグアヘ語(Macaguaje)、オポン語(Opon-
        Carare)、ピハオ語(Pijao)。
     エルサルバドル:レンカ語(Lenca)。
     エクアドル: アンドア語(Andoa)、テテテ語 (Tetete)。
     ドミニカ国:島嶼カリブ語 (Island Carib)。
     アメリカ合州国:サリナ語(アントニアーニョ方言。 Antoniano)、アラパホー語
       (Arapaho) 、アツゲウィ語(Atsugewi)、バルバレーニョ語(Barbareño)、カトー
       バ語(Catawba)、カユーガ語(Cayuga)、カイユース語(Cayuse)、中央カラプヤ語
       (Central Kalapuyan)、アイオワ・オトー・ミズーリ語(Chiwere)、カウリッツ語
       (Cowlitz)、クペーニョ語(Cupeño)、東アベナキ語(Eastern Abenaki)、東ポ
       モ語(Eastern Pomo)、ワイラキ語(Eel River Athabaskan)、クーズ語(Hanis)、
       ワイアンドット語(Huron-Wyandot)、イネセーニョ語(Ineseño)、島嶼チュマシュ語
       (Island Chumash)、カンサ語(Kansa)、カトー語(Kato)、クラマス・モドック語
       (Klamath-Modoc)、コノミフ語(Konomihu)、リパン語(Lipan)、下チヘリス語
       (Lower Chehalis)、マトール語(Mattole)、マイアミ・イリノイ語(Miami-
       Illinois)、サリナ語(ミグレーノ方言。 Migueleño)、モララ語(Molala)、ナ
       チェズ語(Natchez)、ニュー川シャスタ語(New River Shasta)、ニセナン語
       (Nisenan)、ヌックサック語(Nooksack)、北東ポモ語(Northeastern Pomo)、
       オビスペーニョ語(Obispeño)、プリシメーニョ語(Purisimeño)、クアポー語
       (Quapaw)、キルート語(Quileute)、クイノールト語(Quinault)、セラノ語
       (Serrano)、シウースロー語(Siuslaw)、南東ポモ語(Southeastern Pomo)、
       ティラムック語(Tillamook)、トゥニカ語(Tunica)、トゥトゥトニ語(Tututni)、
       トゥワナ語(Twana)、ウナミ語(Unami)、上チヘリス語(Upper Chehalis)、上ア
       ンプクア語 (Upper Umpqua)、ベントゥレーニョ語( Ventureño)、ワッポ語
       (Wappo)、西アベナキ語(Western Abenaki)、ウィヨット語(Wiyot)、ユキ語 
       (Yuki)。
     アラスカ:イヤック語(Eyak)。
     カナダ:ペントラッチ語(Pentlatch)、ツェツァウト語(Tsetsaut)。
     ガーンジー:オルダニー語(Alderny French)。
     イラク:アディゲ語(Adyge)、ユダヤ現代アラム語(バルザニ。Barzani Jewish Neo
        Aramaic) 、ユダヤ現代アラム語(リシャナデニ。Lishana Deni)、ユダヤ現代アラ
        ム語(リシャニドノシャン。Lishanid Noshan) 。
     イラン:ユダヤ現代アラム語(フラウラ。 Hulaula)、ユダヤ現代アラム語(リシャンディ
        ダン。Lishan Didan)。
     エジプト:コプト語 (Coptic)。
     エチオピア:Boro、Gafat、ゲエズ語(Ge'ez)、Qwarenya。
     カメルーン:Duli、Gey、Nagumi、Ngong。
     ギニア:Baga Kalem。
     ナイジェリア:Odut、Zeem。
     ウガンダ:Napore、Nyang'i、Singa。
     ケニア:エルモロ語(Elmolo)、Kinare、Kore、Lorkoti、Sogoo、Yaaku
     コートジボワール:エオティレ語(Eotile)、Tonjon。
     コンゴ民主共和国:Li-Ngbee。
     シエラレオネ:Mo-peng、Sei。
     アンゴラ:ケデ語(Kede)、クワディ語(Kwadi)、クウィシ語(Kwisi)。
     タンザニア:Aasax、Kw'adza。
     トーゴ:Boro。
     チャド:Berakou、Horo。
     チュニジア:セネド語(Sened)。
     シリア: ムラフソ語(Mlahso)。
     スーダン: Baygo、Berti、Birgid、Gule、
     南スーダン:Homa、Togoyo。
     ボツワナ:Deti。
     南アフリカ共和国:ǃGanǃne、Cape Khoekhoe、ǀ'Auni、 ǀXam、 ǁKu ǁ'e、 ǁKx'au 、 ǁXegwi。
     スペイン:グアンチェ語(Guanche。カナリア諸島のグアンチェ人が16~17世紀まで話し
        ていた言語)。
     モロッコ:ユダヤ・ベルベル語(Judeo-Berber)、リーフ語(アイト・ルアディ方言。Ait   
        Rouadi)。
     ソロモン諸島: Dororo、カズクル語(Kazukuru)、ラグ語(Laghu)。
     バヌアツ:Aore。ウタハ語(Ifo)、Maragus。
     ニューカレドニア(フランス):Sishee。
     パプアニューギニア:Aribwatsa、Bina、Getmata、カニエト語(Kaniet)、Karami、ラエ
        語(Lae)、Mahigi、Mulaha、Uruava、Yoba。
     オーストラリア:ワカワカ語(ドゥーンギジャウ方言。Dungidjau)、ガーガジュ語
        (Gaagudju)、クルチャル語(Kurtjar)、マルグ語(Marrgu)、ンガラ語
        (Ngarla)、イル・ヨロント語(Yir Yoront)。
     フィリピン:Arta、Ata、Dicamay Agta、Katabaga。
     マレーシア:Kenaboi、Orang Kanaq、Seru。
     タイ:Phalok。
     ビルマ:Hpun、Malin、ピュー語(Pyu)、Taman。
     インドネシア:Hukumina、Kayeli、Mapia、Moksela、Naka'ela、 Nila (Nila Island)、
        Palumata、Piru、Tandia、Te'un (Te'un Island)。
     ネパール:Dura。
     インド:アーホーム語(Ahom)、Andro、Rangkas、Sengmai、Tolcha。
     中華人民共和国:ソロン語(トルキスタン方言。Ongkor Solon)。
     エヴェンキ語(ソロン語):ツングース諸語では話者の1番多い言語。話者は約2.9万人。
        エヴェンキ族の居住地域はロシア、中華人民共和国、モンゴル。
     台湾:バブサ語(Babuza)、バサイ語(Basay)、ホアンヤ語(Hoanya)、ケタガラン語
        ( Ketangalan)、クルン語(Kulun)、パポラ語(Papora)、パゼッヘ語(Pazeh)、
        シラヤ語(Siraiya)、タオカス語(Taokas)。
     トルコ:ギリシャ語(カッパドキア方言。Cappadocian Greek) 、ムラフソ語(Mlahso) 、
        ウビフ語(Ubykh) 。
     クロアチア:ダルマチア語(Dalmatian)。
     アゼルバイジャン:キリト語(Kilit)。
     ロシア: アイヌ語(千島列島。Kuril)、アイヌ語(樺太。Sakhalin)、サーミ語(アッカラ
        方言。Akkala Saami)、エベン語(アルマン方言。Arman)、カマス語(Kamas)、ハ
        カス語(カマス方言。Kamas Turk)、カレリア語(バルダイ方言。Karelian  
        〈Valday〉)、ケレク語 (Kerek)、シレニック語(Old Sirenik)、イヌピアック
        語(スワード半島方言・大ダイオミード島。Seward Peninsula Inupiaq 〈Big
        Diomede Island〉)、ハンティ語(南部方言。Southern Khanty)、マンシ語(南
        部方言。Southern Mansi)、ソヨト語(Soyot)、ウビフ語(カフカス方言。Ubykh
        〈Caucasus〉)、マンシ語(西部方言。〈Western Mansi〉)、ユグ語(Yug)。

       ※日本:アイヌ語 - 極めて深刻。奄美語 - 危険。八丈語 - 危険。国頭語 - 危険。
          宮古語 - 危険、沖縄語 - 危険。八重山語 - 重大な危険。与那国語 - 重大
          な危険。
       ※「たったひとりのことば 絶滅する言語と失われゆく‘世界’。 4カ月に1つ、この
       世界から言語が失われている」。
           http://wired.jp/special/2016/loss-for-words/
       ※『真珠のボタン』
           http://luckynow.pics/el-boton-de-nacar/
           http://ameblo.jp/jahyon2002/entry-12097776039.html

(6)壁
  シオニストによるパレスティナにおける分離壁という侵略犯罪。
  メキシコ・アメリカ合州国の壁。
(7)単一民族国家という虚偽
(8)言語・民族・国家
(9)境界のない世界
                               金靜美(김정미 キム チョンミ)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「アイヌ遺骨 返還視野 日豪政府が交渉」

2017年06月21日 | 個人史・地域史・世界史
https://mainichi.jp/articles/20170605/k00/00m/040/102000c
『毎日新聞』2017年6月5日 07時00分
■アイヌ遺骨 返還視野 日豪政府が交渉
 アイヌ民族の遺骨3体がオーストラリア国内の博物館で保管されていることが昨年から今年にかけて相次いで判明し、豪政府が返還も視野に日本政府と交渉を始めたことが分かった。駐日豪大使が北海道アイヌ協会の代表者と8日にも札幌市内で面会し、遺骨の状況などを説明する。
 アイヌなど先住民族の遺骨は19世紀以降、欧米などの研究者が人類学の研究目的で収集し、英国やドイツなどでも見つかっている。ドイツでは昨年17体が確認され、うち1体は1879年に札幌の墓地から盗掘されたものと特定。外交ルートを通じた初の返還が年内に実現する見込みだ。
 オーストラリアで見つかった3体は、いずれも頭骨で、日豪の専門家の調査により、アイヌ研究で知られる東京帝大医科大(現東大医学部)の小金井良精(よしきよ)名誉教授(1859~1944年)が1911~36年にオーストラリアの研究者に送ったものと確認された。
 調査に携わる北海道大アイヌ・先住民研究センターの加藤博文教授(考古学)によると、国立メルボルン博物館で2体、国立オーストラリア博物館で1体が保管されている。このうちメルボルン博物館の1体は樺太(サハリン)で収集した記録があるという。
 オーストラリアには、他国の先住民の遺骨について、遺骨が属するコミュニティーの求めに応じて返還すると定めた国内規定がある。
 豪大使館は毎日新聞の取材に「オーストラリアと日本の先住民への理解を促進する機会にしたい」と話し、内閣官房アイヌ総合政策室は「(返還手続きなどは)豪政府側から情報提供を受けた後に検討する」としている。
              【三股智子】


https://mainichi.jp/articles/20170204/k00/00m/040/145000c
『毎日新聞』 2017年2月4日 2月4日 08時24分
■アイヌ遺骨 発掘禁止令 19世紀、「不当な収集」根拠に

【写真】「極東にて」のコピー(手前左)とクライトナーに関する論文(右)=2017年1月31日午後4時2分、中西啓介撮影

【ベルリン中西啓介、ウィーン三木幸治】海外にアイヌ民族の遺骨が散逸している問題で、日本政府が19世紀後半、アイヌの墓の発掘を禁止する「命令」を出していたとみられることが、オーストリア人の旅行記から分かった。命令が確認されれば、海外からの遺骨返還に必要な「不当な収集」を裏付ける根拠となる可能性があり、専門家は日本政府による調査の必要性を指摘している。
 命令についての記述があるのは、オーストリア人アイヌ研究者グスタフ・クライトナー(1847~1893年)の旅行記「極東にて」(1881年出版)。1878(明治11)年8月に北海道を探検した際のアイヌの調査などをまとめている。
 クライトナーらは研究資料としてアイヌの頭骨を入手することを旅行の主要目的の一つにしており、当時北海道を管轄した「開拓使」とみられる官庁に墓の発掘許可を申請。だが、日本側は「政府はアイヌの墓に触れてはならないとする厳しい命令を出している」として、申請を却下していた。
 命令の時期や詳細な内容の記述はないが、当時、札幌で農業指導をしていたドイツ出身のルイス・ベーマーはクライトナーに「(1865年に)函館近郊で英国人によるアイヌ遺骨窃盗事件が起きたため、住民の怒りを買う発掘は難しくなった」と背景を説明している。
 独ボン大のウールシュレーガー博士(アイヌ学)は「事件は英国領事の辞職につながる大問題になった。命令は確実に存在したはずだ」と指摘。ドイツの指針では遺骨返還に「不当な収集」を裏付ける必要があるが、「命令が有効だった期間に海外に持ち出された遺骨は、全て不当収集と証明できる」という。
 アイヌ民族は「最も原始的な民族」とされ、欧州では1860年代に人類学の研究対象として北海道などから多数が「収集」された。



https://mainichi.jp/articles/20161025/k00/00m/040/149000c
『毎日新聞』2016年10月25日 10時22分
■アイヌ遺骨 学者間で「流通」か 英独露、多様な人種収集

【写真】小金井良精・東京帝大医科大教授が1900年にハンス・ウィルヒョウ・ベルリン大教授に宛てて送った遺骨提供への礼状=提供写真

 アイヌ民族の遺骨がドイツなど海外の研究機関に保管されている問題で、遺骨が研究者による「人骨流通ネットワーク」を通じ持ち出された可能性が浮上している。その実態解明は国外での収蔵先把握に不可欠で、専門家は研究者による調査の必要性を指摘している。【中西啓介】
 人骨流通ネットワークは近年、ドイツの研究者が存在を指摘するようになった。19世紀後半の人類学研究では、頭骨計測のため大量の遺骨が収集された。多様な「人種」の骨を集めるため、英独露などの研究者間で、国内や植民地で収集された先住民らの遺骨が交換された。遺骨の売買も行われたとみられる。
 ドイツには少なくとも17体のアイヌの遺骨が収蔵されている。日本国内でドイツ人が盗掘した物もあるが、一部はロシアから研究資料として寄贈された記録が残る。北海道大大学院の小田博志教授(人類学)は「こうしたネットワークの中心はベルリンやロンドンなどだった」と話す。
 ドイツ留学後、日本でアイヌを研究した東京帝大医科大(現東大医学部)教授の小金井良精(よしきよ)(1859~1944年)は1900年、ベルリン大教授のハンス・ウィルヒョウ(1852~1940年)に、遺骨提供への謝意をはがきで述べている。
 はがきについて小田教授は「日本も人骨流通ネットワークの一部だったことを示す」と指摘。新たにアイヌの遺骨を発見するためにも海外の研究機関に残された「標本」購入や交換の記録を調べ、ネットワークの実態を解明することが重要だとしている。北海道アイヌ協会の加藤忠理事長も調査の必要性を強調している。
 遺骨返還について、内閣官房アイヌ総合政策室は収蔵先が判明し、収集過程の資料がそろうドイツの遺骨の調査を進める方針だ。既に在独日本大使館を通じて調査を実施。「2020年に北海道内に慰霊施設が建設されることをめどに返還交渉を進めたい」としている。



https://mainichi.jp/articles/20160922/k00/00e/040/185000c
『毎日新聞』2016年9月22日 08時36分
■アイヌ遺骨 頭骨2体、豪の博物館で確認 東大から流出
 オーストラリアのメルボルン博物館で確認されたアイヌの遺骨について、東京帝国大医学部(現・東京大医学部)の小金井良精・名誉教授(1859〜1944年)が、豪州などの先住民アボリジニの遺骨と引き換えに送ったことが豪州の研究者の調査で分かった。「東大に豪州の男女の頭骨を保存している」との論文があることも判明。東大は「アボリジニ遺骨の所在は調査中」としている。
 豪州・国立大のガレス・ナップマン研究員がアボリジニ遺骨調査を進める中、メルボルン博物館でアイヌの頭骨2体を確認した。
 一緒に保管されていた小金井氏直筆の手紙や税関の書類によると、小金井氏は1935年7月にアイヌの男女1組の資料として下あごがない頭骨1人分と複製一つを同博物館に送った。小金井氏は36年9月にも、同大医学部解剖学教室の「Yokoo」氏が同年夏に収集した頭骨1人分を追加で送っていた。
 一方、同教室の助教授を務めていた横尾安夫氏の1943年発表の論文には「東大解剖学教室に保存の六個の濠洲(豪州)人男女性頭骨」との記述がある。このうち同博物館からは、アボリジニの遺骨2人分が日本に送られた可能性があるという。
 小金井氏はドイツ留学を経て東大の解剖学講座の教授を務め、日本の解剖学の草創期を築いた。アイヌの遺骨を用いた人類学的研究で知られ、1888〜89年には道内各地の墓地などから大量の遺骨を収集した。

              【三股智子】


https://mainichi.jp/articles/20160807/k00/00m/040/127000c
『毎日新聞』2016年8月7日 10時25分
■アイヌ遺骨 ドイツに17体 北海道協会が返還要請へ
【ベルリン中西啓介】研究目的で収集されたアイヌ民族の遺骨が、ドイツに17体保管されていることが分かった。当時の記録から、1体は19世紀にドイツ人が札幌市内の墓から盗掘し、運び込んだことも判明。北海道アイヌ協会によると、独国内で遺骨が確認されたのは初めて。協会は今後、日本政府を通じてドイツ側に調査や返還を求める方針だ。

★頭骨1体は札幌で盗掘
 毎日新聞が入手した収蔵リストなどによると、独国内で保管されているのは、国所有の頭骨10体と骨1体▽民間団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)が所有する頭骨6体−−の計17体の遺骨。
 このうち国所有4体とBGAEUの1体は日本国内で収集されたとみられる。11体は今のロシア・サハリンで収集され、1体の収集地は不明。いずれも19世紀後半以降、人類学などの研究資料として集められた。
 国所有の遺骨はシャリテー・ベルリン医大が資料として収集した約8000体の骨の一部で、政府系機関ベルリン博物館連合(SMB)が管理する。戦争や東西ドイツ分裂により、長期間放置された。現在、データベース化に向けた作業が進められている。
 SMBは、サハリンで収集された頭骨6体の写真を開示。頭骨の左側頭部に「Aino Sachalin Jacobsen」とあった。当時、アイヌの表記に使われた「Aino」と収集場所、収集者が記録された。
 BGAEUは頭骨6体の確認を終えており、今後SMBが作成するデータベースに統合される。また、BGAEUにある頭骨1体は、札幌で盗掘されたことが1880年発行のドイツの民族学誌から判明した。
 北海道アイヌ協会の佐藤幸雄事務局次長は「ドイツでの発見は、なぜアイヌが人類学のために研究され、盗掘の手法が用いられたのかを解明する手がかりになる」と話す。協会は海外に散逸した遺骨について国に調査の徹底を要請している。



https://mainichi.jp/articles/20160807/k00/00m/030/131000c
『毎日新聞』2016年8月7日08時19分
■アイヌ遺骨 返還に壁、独研究140年の歴史

【写真】当時ウィルヒョウが描いた頭骨のスケッチのコピー=ベルリンで2016年7月6日午前9時59分、中西啓介撮影
    https://mainichi.jp/graphs/20160807/hrc/00m/040/001000g/1

 【ベルリン中西啓介】ドイツで見つかったアイヌ民族の遺骨について、北海道アイヌ協会は返還を求める方針だ。だが、ドイツ側は「不適切な収集」の裏付けなどが必要だとの考えだ。長年放置されてきた遺骨の調査には、140年以上という歴史の壁が立ちはだかっている。

★「不適切収集」の証明必要
ベルリン中心部の国立図書館に19世紀発行の民族学誌が収蔵されていた。すり切れた布張りの表紙を開くと、アイヌの頭骨のイラストが次々と現れた。
 執筆したのは、ベルリン大教授のルドルフ・ウィルヒョウ(1821〜1902年)。細胞病理学や人類学の礎を作った「権威」だ。
 欧州でのアイヌ研究は、1860年代に英国で初めて遺骨が公開されたことで活発化した。「最も原始的な民族」とされたアイヌの骨を計測し、民族の特徴や人類の系統を解明しようとしたのだ。
 ウィルヒョウは、1873年、同誌でアイヌの遺骨を入手したことを報告。93年の同誌では、7体の頭骨を保有していることを明かし「サンプルを増やしたい。東アジアの仲間にアイヌの骨を送るようお願いしたい」と熱心に訴えた。
 「シュレージンガー氏が札幌の農業試験場(偕楽園)で収集した頭骨」。82年の民族学誌で、ウィルヒョウは具体的な収集者や収集場所を記載した。偕楽園は1871(明治4)年開設の札幌初の公園だ。
 他の記録では、旅行家のウィルヘルム・ヨーストら複数のドイツ人が遺骨を独国内に運んだことも分かった。
 運ばれた遺骨は今、どこにあるのか。人類学の資料を保管する研究機関に問い合わせる中で、ウィルヒョウが設立を主導した「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)と、彼が勤めたシャリテー・ベルリン医科大の収蔵品に残されていることが分かった。
 BGAEU代表のウォルフラーム・シーア・ベルリン自由大教授は6月上旬、6体の遺骨が記録された収蔵リストを提示。「33番にシュレージンガーとあります」と説明した。
 該当欄には「Aino(アイヌ) Yeso(蝦夷(えぞ)) Sapporo(札幌) Schlesinger(シュレージンガー)」とあった。毎日新聞の取材を受け、BGAEUは7月、ベルリン市内にある収蔵庫を調査。この遺骨を含む6体が今も保管されていることを確認した。
 シュレージンガーはどのように遺骨を入手したのか。それを解く鍵は、ベルリンから約540キロ離れた独西部ボンにあった。
 「冒とく行為がもたらす危険を避けるため、夜の闇に紛れ、素早く手前にあった頭骨を入手した」。1880年の民族学誌で、シュレージンガーが盗掘を報告したことが記録されていた。
 この民族学誌を所有するボン大のハンスディーター・ウールシュレーガー博士は「当時は墓の盗掘に恥の意識がなかったことの表れだ」と指摘。「さらに多くの遺骨が収集された可能性が高く、独国内の研究機関は独自に調査すべきだ」としている。

★外交交渉、不可欠に
 ドイツにあるアイヌの遺骨の多くは19世紀に収集された。戦争などにより長期間放置されたことから、返還に必要な情報の不足も懸念される。今回取材で見つかった17体の遺骨のうち、国所有の11体を管理するベルリン博物館連合(SMB)が所属する国の財団は、遺骨などの扱いに関する基本方針を公表している。
 人体由来の収蔵品について、本人らの意思に反し「不適切に」収蔵された物でないかを調査。不適切だったり、収集地から異論が出たりした場合は話し合うとし「希望があれば返還も可能」とする。6体所有するBGAEUもこれに準拠する。
 だが、不適切の定義は、収蔵者側の判断に委ねられている。また、SMBの収蔵品は国に所有権があるため、SMBは「アイヌ側との話し合いには応じるが、返還は政府の判断だ」と言う。BGAEUは「アイヌだからという理由で包括返還することはない」とし、遺骨の由来の特定を優先させる考えだ。
 ベルリンには19世紀以降、人類学の研究拠点として1万体以上とも言われる遺骨が集められた。「20世紀最初の虐殺」とされるドイツの植民地・独領南西アフリカ(現ナミビア)でのヘレロ人虐殺でも、殺されたヘレロ人の遺骨が研究用として独国内に運ばれた。
 遺骨の存在が外交問題化したことから、2011年にシャリテー・ベルリン医科大は20体の遺骨をナミビアに返還している。
 ドイツ内のアイヌの遺骨のうち、取材で不適切な収集が確認できたのは、札幌で盗掘されたBGAEUの頭骨1体のみだが、北海道アイヌ協会は返還の対象を広げたい考えだ。
 SMBが保管する遺骨の一部は、収集したヤーコブセンの旅行記から、サハリン南部コルサコフで収集されたことが分かっている。協会は、これらの遺骨についても、北海道に住むアイヌの祖先である可能性があるとし、調査を求める考えだ。
 協会は日本国内に残された遺骨とドイツの頭骨を照合し、元の状態に復元した上で慰霊することを目指している。遺骨返還の実現には、日独の外交交渉が不可欠だ。

★ドイツに運ばれた遺骨の収集地と数
 https://mainichi.jp/graphs/20160807/hrc/00m/040/001000g/2
   国が所有し政府系機関SMBが管理=計11体
     ・サハリンで収集された頭骨6体
     ・北海道で収集されたとみられる頭骨4体
     ・収集地不明1体
   民間団体BGAEUが所有=計6体
     ・札幌で収集された頭骨(シュレージンガーが収集)1体
     ・サハリンで収集されたとみられる頭骨5体
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「国立慶州博物館、光復直後に日本人から押収した文化財2600点の真偽を鑑定」

2017年06月20日 | 韓国で
http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/941510/1
『東亜日報』 Posted June. 02, 2017 08:29, Updated 02, 08:30
■国立慶州博物館、光復直後に日本人から押収した文化財2600点の真偽を鑑定
 国立慶州博物館が、光復(日本の植民地支配からの解放)直後に日本人たちから押収した文化財約2600点に対して真偽の鑑定をすることを決めた。慶州博物館が所蔵する中国北魏時代の仏像の押収品が、日本の植民地支配期に作られた複製品であることが明らかになったことによる措置だ。
 同館の兪炳夏(ユ・ビョンハ)館長は1日、「押収品のうち植民地支配期に民間業者が製作した文化財の複製品の数がどれほどかを調査する計画だ」とし、「当時、複製品がどのように活用されたのかも具体的に把握する」と明らかにした。このため、博物館は外部の専門家と共に全体の押収品を調査することを検討している。
 これに先立ち同館は、光復直後に押収した香椎源太郞コレクションのうち、この北魏の仏像の成分を分析し、複製品であることを確認した。同館のチョン・ヒョス学芸研究士は最近発表した論文「日帝強占期の文化財複製に関する考察」で、「1915年に忠清南道洪城郡(チュンチョンナムド・ホンソングン)で日本の考古学者、鳥居龍蔵が撮影した白黒写真に写っている仏像が同館の所蔵品と同じ形だと調査された」と明らかにした。白黒写真に撮られた仏像は、当時、洪城で暮らしていた日本人判事が所蔵していたもので、現在は行方が分かっていない。
 興味深いのは、中国山東省の臨ジュツ県博物館にも同じ形の北魏の仏像が所蔵されているということだ。そのうえ、これらの仏像の光背の裏には、「正光6年(525年)6月10日に北京に暮らすソン・ギョンコン夫婦が弥勒仏像の1体をつくる。上には国家と四方が安定し、広く万民の望みが叶うよう助けるためだ」という内容の明文が同じように刻まれている。
 明文には明らかに1体を作ったとされているが、仏像は少なくとも3体発見されている。チョン研究士は、「少なくとも中国の博物館か白黒写真に写る仏像のうちの1体は複製品であることは明らかだ」と指摘した。本物の所在は現在確認されていない。
 これと関連して京都帝国大学の濱田耕作教授の提案で、1920、30年代、日本の上野製作所が作った文化財の複製品が注目される。濱田教授は韓半島の古墳の発掘に参加した日本の考古学者だ。
 最近同館が入手した1931年の「考古学関係資料模型目録」によると、上野製作所は教育・展示用に韓国と中国、日本の文化財約400点を精密に複製した。このうち韓国の文化財は、高麗時代の仁宗諡冊と慶州入室里(キョンジュ・シプシルリ)の青銅器をはじめ計17件、53点と調査された。
 彼らはなぜ韓国文化財の複製品を作ったのか。チョン研究士は、韓国の歴史の独自性を傷つけて日帝植民史観を強化しようとする目的もあったと分析する。平壌(ピョンヤン)楽浪墓から出土した文化財のように、中国から影響を受けた形跡が濃厚な文化財が複製の対象として多く選ばれたためだ。実際に模型目録が植民地支配期に国民学校(現小学校)に教育資料として配布されたことが確認されている。

            金相雲 sukim@donga.com
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ(이신호)…彼は不良な犠牲者か」

2017年06月19日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/20477.html
「The Hankyoreh」登録 : 2015.04.28 22:06 修正 : 2015.05.03 06:26
■[現地ルポ]「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ(이신호)…彼は不良な犠牲者か
 4・3特別法への反撃、再審査を巡る議論
 その主人公、南労党幹部イ・シンホ

★済州島の南西端には、慕瑟浦(モスルポ)の港がある。特産品であるブリと付近の馬羅島(マラド)観光で有名な地域が西帰浦(ソギポ)市大静(テジョン)邑モスル浦だ。 解放直後、米軍政期の1947~48年、そこには互いに異なるイデオロギーを持った人たちが暮らしていた。いずれも 4・3事件の主要人物だ。武装闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(本名イ・スンジン)、社会主義者だったが武装闘争には否定的だった南労党幹部イ・シンホ、“アカ”を捕えて殺すことを躊躇したモスル浦支署長ムン・ヒョンスン。 イ・シンホを中心に、彼らの人生を覗いてみる。

【写真】済州4・3事件に連累して銃殺された済州島の代表的な社会主義政治家イ・シンホ(1901~48)の唯一の写真 //ハンギョレ新聞社

 家族たちが忘れられることを望んでいる彼の名前を、見知らぬ人たちが呼び起こす。彼は済州島の南労党(南朝鮮労働党)幹部であり、政府が指定した4・3犠牲者だ。軍人と警察官(と推定される)の銃弾に倒れた48年間の彼の人生を、一部の人々は「4・3事件の不良位牌」と定義する。保守団体は、犠牲者1万4231名のうち一部が加害者から犠牲者に化けたために再審査しなければならないと主張する。今年初め、チョン・ジョンソプ行政自治部長官と元喜龍(ウォン・ヒリョン)済州道知事が犠牲者再審査について言及し、論議が再び浮上した。
 “不良位牌”と呼ばれる犠牲者103人のうちから、一人の人物を覗いてみた。 時代と歴史という大きな裾野からイ・シンホを抽出し、その足跡をたどってみた。済州島という空間的背景と朝鮮半島情勢、世界史的脈絡を探ってみた。日帝強占期に抗日運動をしていたイ・シンホは、新しい国家の建設を夢見たが挫折した。 彼は、米軍政期の1947年3月1日、3・1記念行事を指揮した疑いで投獄される。南労党の世代交代過程で、急進的な武装闘争の系列によって押し出された。 歴史が過去と現在の絶え間ない“対話”であるならば、現在の観点から過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って行って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。

【写真】4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される //ハンギョレ新聞社

★いきなり銃殺された彼、社会主義者だったから被害者でないとは…
 1948年11月20日(旧暦10月20日)、済州道モスル浦支署では朝早くから南労党済州道党(訳者注:韓国の政党組織は、中央党、道党、市党、郡党、面党のようになっている)の副委員長イ・シンホ(1901~48)を捕えて行った。済州4・3事件の発生後、自宅で本ばかり読んで過ごしていたイ・シンホの家には警察官たちがよく訪れた。米兵がやってきて動態把握をしたり家宅捜索もして、イ・シンホが自宅で読んでいた本も押収された後だった。いつものように警察官について支署に出かけたイ・シンホは、午後になって帰ってきた。家の門を出て道路一つ過ぎると、手が届くくらいに慕瑟浦支署は近かった。 その日疲れた顔で戻ってきたイ・シンホは、家の手すりにもたれるようにしてぐったりと座り込んだ。彼は長女を呼んで言った。「のどが渇いた。水をくれ」。 続いて軍人と警察官と思われる二人の男がイ・シンホの後から入ってきた。二人はイ・シンホを庭に引き出して銃を撃った。娘は、父が銃に撃たれて死んでいくのを目の当たりにするしかなかった。四十八歳、イ・シンホの生涯はこうして閉じられた。
 日本の植民地時代に抗日運動をし、村で尊敬を得ていたイ・シンホが死んだという話は村中に広がった。村の人々は安心して眠ることができなかった。それ以来、何かといえば銃殺だった。朝起きてみれば、誰かが死に、誰かが銃殺されていた。イ・シンホの死後、4日目に彼のいとこも銃殺された。家族たちは葬儀も行なえなかった。息を殺すようにして、遺体を仮埋めのような形で埋めた。 12歳年下だった妻のソン氏は、子供を食べさせるために小さな店を始め、子供たちは恐怖の中で数年を過ごした。 1961年冬、妻ソン氏はイ・シンホが死亡した年令と同じ48歳で亡くなった。 イ・シンホの葬儀は妻が死亡してから初めてまともに執り行なわれた。名前の三文字、生まれた日、死亡した日。石碑は短く書かれた。娘三人と息子一人。残された子供たちは、一人二人と故郷を離れた。(済州4・3研究所機関誌『4・3 長程(チャン・ジョン)』第6号参照、1993年6月発行)
 イ・シンホが埋葬された場所は西帰浦市大靜邑下モ里の大静女子高等学校の東側だ。済州島の南西端にある慕瑟浦の港から海風が吹いてくる松林。ノルン岬と呼ばれる松林に彼は埋葬された。ハンギョレはイ・シンホの4人の子女のうち3人と接触した。 「(記者と会うこと、または父に関する記事を)望んでいない」「(父について)覚えていない」という答えが返ってきた。早春、大静女子高の周りには水仙が咲き始め、寂しい松林を慰める。

【写真】2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文の刻まれていない碑石、白碑が横たわっている //ハンギョレ新聞社

★「不良位牌」と呼ばれる103人
 親しい人々に忘れ去られた彼の名が、見知らぬ人たちによって呼び起こされる。「4・3犠牲者不良位牌」という名前だ。首相室傘下の「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」(以下、済州4・3委員会)は2002年~2014年にかけて犠牲者1万4231名を指定し、済州奉蓋(ボンゲ)洞の済州4・3平和公園内の奉安室に1万4091名の位牌を祀った。「不良位牌」とは、済州4・3事件の犠牲者ではない者が犠牲者に化けているという意味だ。
 「大韓民国アイデンティティ回復国民協議会」など16の団体で構成された「済州4・3事件真相究明国民の会」は2月11日、ソウルの言論会館20階にある国際会議室で「済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー」を開いた。 「申采浩(シン・チェホ)先生は『歴史を忘れた民族には未来がない』と言われました。 4・3事件の現場で直に目撃し体験した私たちまでが目を閉じるならば、歴史の真実が歪曲され、また別の問題と葛藤を生むことになり、それはそっくり我が子孫に弊害となって帰することが明らかである故に、見過ごしてよい問題ではないと考えます」(セミナー資料集抜粋)。 彼らはこの日のセミナーで、不良位牌103基のリストを公開した。
 昨年、政府は4月3日を国家追悼日に指定した。 しかし、不良位牌と犠牲者再審査の論議は、政府の済州4・3真相調査報告書が採択された2003年以降、一向に絶えない。主務省庁である行政自治部のチョン・ジョンソプ長官が1月15日、「犠牲者に指定された一部の人物が武装部隊の首魁級だという問題が解消されなくては、大統領の位牌参拝は難しい。 このような主張が事実ならば、犠牲者指定の取り消しが妥当だ」と明らかにし、論議が再び浮上している。済州4・3審査小委員会はこの4日、再審査するかどうかについて話し合ったが結論は出なかった。「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(4・3特別法)には、遺族の申請による再審査規定があるだけで、第3者による再審査規定はない。
 「済州4・3事件真相究明国民の会」が公開した不良位牌103人は大半が南労党幹部で、人民遊撃隊員、警察・検察の秘密諜報部員、入山した武装隊員、入山した警察官、3・1ゼネスト参加の警察官、第9連隊の脱営兵、人民軍に志願した教師などが含まれている。 この基準は、憲法裁判所が判示した犠牲者の除外対象者と類似した脈絡だ。憲法裁判所は2001年9月27日、李哲承(イ・チョルスン)自由民主民族会議代表と予備役将軍の集まりである星友会の鄭昇和(チョン・スンファ)会長など346人が起こした4・3特別法違憲審判で、却下決定を下した。 ただし、犠牲者の除外対象については次のように判示している。
 「済州4・3事件と関連した死亡者のうち、自由民主的基本秩序とこれに付随する市場経済秩序および私有財産制度に反対した者は、その程度により犠牲者決定の対象から除外していく方法を採用することが、憲法の理念と4・3特別法の立法目的に符合すると言えよう。 (中略)済州4・3事件勃発に責任がある南労党済州道党の中心幹部などは犠牲者から除外されるべきだ」。 憲法裁判所は、1948年7月17日に制定され現在まで続いている憲法の観点から、犠牲者の除外対象者基準を定めた。
 10年余り続いた不良位牌論議の中で、常に登場する名前がイ・シンホだ。『済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー資料集』の68ページに彼の名が見える。 「南朝鮮労働党済州道党副委員長イ・シンホ。1931年農民テーゼ事件に連累。1932年細花里(セファリ)海女事件の背後勢力の容疑で2年の求刑・判決が下される。 大静面人民委員会副委員長を務め、委員長に推挙さる。1947年3・1大会後検挙され、6カ月の刑宣告」

4月3日を国家追悼日に指定したが
10年間絶えず続く
不良位牌と犠牲者再審査の論議
その中で常に登場する名が
南労党副委員長出身のイ・シンホ

米軍政下、混沌の時代状況
南労党主導の1947年3・1記念大会
イ・シンホは大静国民学校で演説
その日、済州で予期せぬ事故
警察の発砲と大々的なゼネスト…

【写真】4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される //ハンギョレ新聞社

★5000人を集めたイ・シンホの群衆演説
 3月23日、春の日差しが降り注ぐ西帰浦市大静邑(1956年に大静面から昇格) 上モ里の大静小学校の運動場は鮮やかに輝いていた。緑の人工芝が敷かれたサッカー場、そしてサッカー場の外側をワイン色の陸上トラックが取り巻く。人口1万7000人の大静邑の小学校にしては、規模も大きく新品のように無傷だった。学校の歴史は100年を超える。
 68年前の1947年3月1日。緑の芝生のグラウンドやワイン色の陸上トラックは未だなかった同校の運動場の土を、イ・シンホも踏んでいた。当時、人口2万余だった大静の住民のうち5000人余りが結集した。近くの加波島(カパド)からも住民100人余が漁船に乗って参加するほど、運動場はにぎわっていた。学校の近くに住んでいたイ・シンホも、大静国民学校の運動場まで歩いていった。
 当時は米軍政期(1945年9月8日~48年8月15日)で、政治・経済が不安定だった。米軍政下だった1946年、農村のコメを強制徴収する米穀収集令が発令され、これに抗議するデモが全国に広がった。第2次世界大戦終了後、済州島では凶作が続き、海外に移住していた済州島民が帰国して失業率が高まった。米軍政の「対日貿易および日本商品流通禁止」により済州島の経済が急激に萎縮し、米軍政の穀物収集政策に対して済州島人民委員会が米穀収集阻止運動を主導するなど、経済的不安と米軍政に対する不満が次第に深まっていった。(2001年憲法裁判所決定文)
 3・1運動28周年を迎え、南労党が組織した記念大会は邑・面単位で開かれた。済州邑は涯月(エウォル)面と朝天(ジョチョン)面を合わせて済州北国民学校で、大静面は大静国民学校で開かれた。イ・シンホと大静中学のイ・ドイル校長が演説を、イ・ウンバン氏が司会を務めた。大静国民学校では歓声が沸き起こった。

「民主主義的愛国闘士を即時釈放せよ! 人民抗争関係者を即時釈放せよ! 最高指導者 朴憲永先生逮捕令を即時撤回せよ!」
「民主主義臨時政府樹立万歳! 政権はただちに人民委員会に渡せ! 日帝的統治機構を粉砕せよ!」
「親日派・民族反逆者・親ファッショ分子の根絶! 三相会議の決定即時実践! 人民経済を破壊する輩の徹底掃蕩!
「言論・出版・集会・結社・スト・示威・信仰の絶対的な自由! 食糧問題解決は人民の手で!」(南労党済州道委員会の3・1運動記念闘争の方針に出てくるスローガン)

 スローガンを理解するには時代状況を知る必要がある。韓国の独立のために民主臨時政府を樹立するという議定書が1945年12日、モスクワ三相会議で採択された。 しかし、これを実践するための米ソ共同委員会が1946年1月に決裂し、国の未来が不安な時期だった。南だけの単独政府樹立の可能性が高まり、米軍政は左派を弾圧した。 1946年9月、南労党指導者、朴憲永(パク・ホニョン)らに対する逮捕令が下され、『人民日報』『現代日報』『中央新聞』の3つの左派新聞が停刊に追い込まれる。 このような時代状況に対応するために、3・1記念行事が行われたわけだ。
 1947年3・1記念日を前後して、これを抑えるための済州の警察力増強に伴い、済州邑一帯には緊張感が漲っていた。済州島司(現在の済州道知事に当たる。当時は米国人・韓国人共同で務めた)兼米軍第59軍政中隊の指揮官スタウト少佐は、3・1記念日行事を控えてデモを禁止する一方、記念行事をするなら西飛行場(現在の済州国際空港)で挙行するよう通告を発した。その中で忠清南道・忠清北道警察庁所属の100人の応援警察隊が済州島に入った。 しかし、同日午後2時頃、記念行事が終ってから軍政当局の禁止にもかかわらず、許可されていない街頭デモが始まった。午後2時45分頃、観徳亭(クァンドクチョン)前広場で騎馬警官の乗った馬に子供が蹴られて騒動が起こった。群衆がブーイングを浴びせ、石を投げつけた。慌てた騎馬警官が同僚のいる警察署に向かって馬を走らせ、その瞬間、銃声が轟いた。騎馬警官を追って群衆が押しかけ、警察署襲撃と誤認して発砲したのだ。民間人6人が死亡し、6人が重傷を負った。警察は終始一貫、警察署襲撃事件と規定し、民心を収拾しようとはしなかった。
 3月5日、南労党済州道委員会の数十人の幹部たちが、済州邑三徒(サムド)里のキム・ヘンベクの家に集まり「3・1事件」対策を議論した。イ・シンホ、イ・ウンバンらの属した南労党大静面党が3・10ゼネストを建議し、道党は受け入れた。 「事件の重大性に鑑みて、黙過できないことだ。 しかし、相手は頭のてっぺんから爪先まで完全武装をしているのに我々は徒手空拳であり、彼らの銃剣部隊と直接の正面衝突は到底考えられないことだ。したがって、平和的抗議の意思表示として全島ゼネストを全員一致で可決して、組織部イ・スンジン(キム・ダルサム)を連絡員として道党本部に派遣することを建議することにした」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)
 3月10日、済州島では韓国で類例のない官民ゼネストが展開された。官公庁、通信機関、運送会社、学校、米軍政庁通訳団、公務員などが参加した。警察の3・1記念行事への発砲に抗議するストは南労党済州道委員会が背後から支援した。同日、パク・ギョンフン済州島司とキム・ドゥヒョン総務局長など100人の職員が大会を開いた。 スタウト少佐兼済州島司に対し、発砲警官に対する処罰と拷問の廃止など6項目を要求した。 この要求が受け入れられるまで、済州道庁職員140人余がストライキを決意したと明らかにした。 『済州警察史』は「警察や司法機関を除く全機関団体がゼネストを実施し、その数は166の機関団体、参加人員4万1211人」と説明する。 済州警察の集計から漏れている一部の警察官や機関・団体に属さない民間人のストまで考慮すれば、さらに多かったと推定される。 ストは3月20日前後に小康局面に入った。
 4・3特別法は第2条第1号で「済州4・3事件は、1947.3.1.を基点として1948.4.3.に発生した騒擾事態および1954.9.21.までに済州島で発生した武力衝突と鎮圧過程において住民が犠牲になった事件」と規定している。

スト主導容疑で検挙されたイ・シンホ
出獄後活動せずに家で過ごす
武装闘争に賛成しなかったが
支署に行ってきた後、自宅で銃殺さる
今もその子女はインタビューを拒否

南労党員ならば犠牲者と言えないのか
モスル浦にはイ・シンホの墓碑と
南労党員名簿を虚偽作成して
住民たちを救ったモスル浦支署長
ムン・ヒョンスンの功徳碑が共存している

★イ・シンホと一緒に連行されたコ・チュンオンの証言
 イ・シンホと南労党大静面の責任者イ・ウンバン(1910~2013)らは、集会と不法ストを主導した疑いなどで1947年3月17日、米軍政に検挙された。イ・シンホは同年4月30日、米軍政済州地方審理院(裁判所)で罰金5000ウォンに6カ月の刑を言い渡され、木浦(モッポ)で服役した。判決文を見ると、イ・シンホは「南労党大静面委員会委員長兼人民委員会副委員長であり、左翼過激分子」と紹介されている。彼の肩書きは南労党済州道党副委員長、南労党大静面委員長、あるいは大静面副委員長と、記録物によって異なる。
 出獄後イ・シンホは公開的な活動を中断して主に自宅で過ごした。日帝時代からの酒類卸売業が生計手段だった。彼が出獄した翌年の1948年4月3日、夜中の2時、漢拏山麓のオルム毎に上がった烽火を合図に、南労党は済州島内11の警察支署を襲撃した。警察官4人、右翼人士など民間人8人、武装隊2人が死亡するという人命被害が発生した。
 「イ・シンホはイ・ドイルの漢南焼酎工場の酒類卸売権を持っていた。時々巡査たちがやってくると、酒も一緒に飲み交わす方で。 私の家と近いので時々訪ねたが、行ってみれば、ひげも剃らずに本を読んで過ごしていた。一緒に話してみれば、武装闘争については賛成していなかった。あの事件は長くは続かないだろうと言っていた。 3日(1948年4月3日)の爆弾事件が起きたときには病院に入院していた」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)
 大静面は4・3事件の要注意地域だった。闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(1925~50?)が大静中学の社会科教師だったからだ。イ・シンホをはじめ住民たちは、慕瑟浦(モスルポ)支署に何度も呼び出された。イ・シンホが死亡するしばらく前に一緒に支署に連行されたコ・チュンオン氏(90)に3月5日大静邑の自宅で会った。耳の遠いコ氏に紙に書いて質問し、コ氏は口で答えた。

 「西北(ソブク)青年団(解放後に北から南にやってきた青年たちが1946年に立ち上げた右翼団体)がいきなり捕まえていく。家にいたら出て来いと言うので行ってみると、三十人ほどがめちゃくちゃに殴られていた。 私の前の奴は棍棒で叩かれた。『お前、山に行って来ただろう』と言われながら。 私の番になって、(西北青年団員に)一撃蹴られて「ウッ!」と声を上げた。そのとき、地位の高い特攻大将が『取調べ中止!』と言って集合させた。特攻大将が警視だ。『イ・シンホって誰ですか。出て来なさい』と言うので、イ・シンホが(縄に縛られていて)『出て行けません』と言った。 すると、『あなたがイ・シンホですね。名前はよく聞きました。立法議員に選出されたそうだが。(1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院の創設に関する米軍政法令第118号が発表され、全国で90人が選出された。イ・シンホは選出直後に辞任した。) あなたのような人は大韓民国のために一緒に努力しましょう』と言った。 懐柔し、タバコもくれた。次の日、家に帰してやった。そしていくらも経たずに銃殺された」。

 南だけの単独選挙の輪郭が明らかになった1948年2月頃、米軍政と左派は激しく対立した。同年1月、組織名簿が流出して致命打を受けた南労党済州道党は1・22検挙事件などを経て、世代交代とともに路線変更の岐路に立たされることになる。危機説を掲げた強硬派が4・3事件が起こる前に党組織を掌握した。日本植民地時代に社会主義抗日運動をしていた壮年層から、若くて急進的な新進勢力への交代があった。新進勢力のリーダーは23歳の青年キム・ダルサム。本名はイ・スンジンで、彼は義父カン・ムンソクが使っていた仮名キム・ダルサムを受け継いだ。 1947年3・1記念行事の当時、南労党大静面組織部長だったキム・ダルサムは以後、済州道党組織部次長、組織部長として急浮上した。武装闘争について党指導部内ですら時期尚早論と強行論が対立していた。武装闘争は済州朝天邑新村里で決定された。 いわゆる「新村(シンチョン)会議」だ。 新村会議に出席して武装闘争に参加し、日本に逃れて東京に住んでいたイ・サムリョンは当時の状況をこのように証言する。

 「武装蜂起が決定されたのは1948年2月末から3月初め頃のことだ。新村で会議が開かれたが、19人が民家に集まった。 この席でキム・ダルサムが蜂起問題を提起した。慎重派はチョ・モングと城山浦(ソンサンポ)出身の人など7人だったが、我々は何も持ってないのだから、もう少し状況を見守ろうと言った。強硬派は私とイ・ジョンウ、キム・ダルサムなど12人だ。 キム・ダルサムは20代だったが、組織部長として実権を握っていた。 そしてアン・セフン、オ・デジン、カン・ギュチャン、キム・テクスなど壮年派はすでに服役中か、逃避状態だった。 (中略)とにかく、我々の知識と水準はその程度でしかなかった。 (中略)キム・ダルサムは自分が軍事総責任者を引き受けると言って日付を通知した。事件勃発の10日ぐらい前に日が決定された」(済州4・3事件真相調査報告書)。

 当時大静面には、日本植民地時代に社会主義運動をしていたイ・シンホの同僚たちはもういなかった。南労党大静面の責任者だったイ・ウンバンは4・3事件後、3カ月ほど故郷にいたが、松岳山(ソンアクサン)付近のカルモッ海岸から発動機船に乗って釜山へ、そして日本へ密航した。 イ・ウンバンの隣に住んでいてイ・シンホなどに社会主義の影響を与えたオ・デジン(1898~1979)は、4・3当時は忠清南道江景に逃避していたと伝えられており、1949年に日本に向かった。
 「父に対する拷問はひどいものでした。母に言われて父に食事を持って行くのは私の役目でした。行って見ると、拷問はあまりにもひどいものでした。村の人たちが日本に行こうと言うと、父は悪いことをしたわけでもないのにどこへ行くというのかと言って、家にいました」(1993年6月、済州4・3研究所機関誌『4・3 長程』第6号に掲載されたイ・シンホの次女の発言)

★社会主義は済州の主流だった
 1948年、南労党の活動は米軍政から“事実上”非合法化され、地下運動として維持されていた。 しかし明白なのは、当時南労党もまた表面的には合法政党であったという事実だ。朝鮮半島問題を国連に上程した米国は、いかなる政治集団も制約なしに活動できるという格好を維持していた。 1948年1月23日、ソウルに入ってきた国連韓国臨時委員団が南北選挙協議の対象に、南から6人、北から4人を指名し、この中に南労党指導者許憲(ホ・ホン)と朴憲永(パク・ホニョン)を含めた。済州道で南労党員名簿が流出し大量検挙された1948年の「1・22検挙事件」発生から1週間後の1月30日。キム・ヨンベ済州警察監察庁長と『済州新報』記者の一問一答を見て見よう。

 記者:被検挙者の数は? 警察の方針は?
 キム・ヨンベ庁長:これらは一部の不穏分子の扇動に惑わされ付和雷同したものであって、改悛の情が顕著な者に対しては警察が雅量をもって臨んでいる。警察は南労党に加入した者を弾圧するのではなく、彼らの非合法的行動に鉄槌を下すのだ。

 解放後に南で組織された左派政党は、朝鮮共産党(1945年9月)、朝鮮人民党(1945年11月)、南朝鮮新民党(1946年2月)の3政党だ。朝鮮共産党は朴憲永、人民党は呂運亨(ヨ・ウニョン)、新民党は白南雲(ペク・ナムン)が主導した。 1946年11月、左派3党の合同により南朝鮮労働党(南労党)が結成された。『独立新聞』などは11月23日に開かれた南労党結党式に、代議員558人のほか、米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将の代理としてボブフェロ少佐、米軍防諜隊(CIC)関係者、米国の新聞記者と国内取材陣が集まったと報道した。
 済州には、日帝時代からの社会主義運動の根が強く引き継がれていた。 4・3特別法および政府の真相調査報告書は4・3事件の始まりを1947年3月1日と見ているが、この頃、在韓米陸軍司令部の日次情報報告書にはこう記録されている。 「1947年3月25~26日。2件の防諜隊報告書によれば、済州道の右翼、大韓独立促成国民会と韓国独立党済州道支部は、組織も貧弱で資金も不十分だ。両党は道全体にわずか1000人の会員がいるだけで、左翼人士たちの激しい反対で政治的活動が困難な状況にある。済州道の左翼に関する多くの報告書によれば、左翼人士は済州道人口の60~80%に達している」。当時、済州道民は28万人余だ。
 選挙結果もまた、済州道は他の地域と違っていた。 1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院創設に関する米軍政法令第118号が発表された。立法議員90人のうち半数は民選議員で、残りは米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将が任命した。 1946年10月31日、民選立法議員選挙が行なわれた。「立法議員選挙で右翼が勝利」。 UP通信を引用した『漢城(ハンソン)日報』の関連記事だ。韓国民主党15人、大韓独立促成会14人、無所属12人、韓国独立党2人、人民委員会2人。人民委員会を除いては右翼の勝利だった。 ところで、この2人の人民委員会出身者はいずれも済州地域だった。当時、南済州郡の面代表14人がイ・シンホを選出したのだが、彼は辞任してしまった。人民委員会は当時公式の政党ではなく、住民が構成した団体だ。済州道で南労党は1946年12月に結成されており、立法議員選挙当時は出馬できなかった。
 済州島の社会主義的性向は日本植民地時代から続いている。 1932年済州の海女たちが日本人の島司(道知事)の車両を包囲して、500人余が細花(セファ)駐在所を包囲すると、日本は背後勢力を探り始めた。背後勢力として済州島ヤチェイカ(共産党組織の基本単位である細胞のロシア語)が眼を付けられた。当時、ヤチェイカ組織40人余りが拘束され、光州(クァンジュ)地方裁判所木浦(モッポ)支所で裁判を受けた。 イ・シンホは当時、懲役2年を言い渡された。

【写真】済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園にある行方不明者の標示石の様子

★激しい理念葛藤、碑文の書かれていない碑石
 2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文を刻めずにいる碑石が横たわっている。白碑だ。名付けられずにいる歴史的な碑石の前で、案内文を読んでみる。「蜂起、抗争、暴動、事態、事件などと様々に呼ばれてきた済州4・3は、いまだに正しい歴史的な名前を得ていない。分断の時代を越えて南と北とが一つになる統一のその日、真の4・3の名前を刻むことができるであろう」。 2003年に政府が採択した真相調査報告書でも、理念的性向を表わさない単語である「事件」と書かれている。 4・3事件の被害規模は2万5000~3万人と推定される。当時の済州島人口の約10%だ。 4・3委員会が確定した犠牲者の加害者別統計を見れば、警察・軍人・右翼団体などの討伐隊(84・3%)、南労党武装隊(12.3%)、不明(3.4%)の順だ。
 済州は世界史的渦に巻き込まれていた。 4・3事件は第2次世界大戦終了後、ドイツと日本に共同対抗した米ソ間の協力が終了し、資本主義と共産主義の体制対立が始まった背景の中で発生した。国内的には一時的な米軍政下での聞き慣れない左右イデオロギーおよび統一国家に対する意見対立が渦を巻き、最も弱い輪である 済州で建国を控えて物理的衝突が起きた。 島という限定された空間で、血縁共同体の中で報復が起きて悪循環が繰り返され、被害が拡大された。歴史は過ぎ去った時間に対する記憶だが、加害者が誰であるかによって、同じ島の中で4・3を眺める視点、歴史観が異なる。 ヤン・シンハ大静邑誌編纂委員長は「父母が討伐隊によって亡くなった遺族は軍人・警察官の位牌があるので4・3平和公園に行きにくく、武装隊によって亡くなった遺族は、南労党員の位牌のために平和公園に行くことをためらう」と説明した。
 4・3特別法は金大中(キム・デジュン)政権時代だった2000年に制定され、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時に真相調査報告書が確定されるなど、活気を帯びた。歴史との和解が強調された。鎮圧作戦に参加した軍人と警察官を犠牲者と見ることができるかどうかが議論になると、4・3委員会は2006年4月21日、法制処に質疑した。法制処は「特別法で済州4・3事件を住民が犠牲になった事件と規定しているが、犠牲者を住民に限定してはいない。犠牲者を可能な限り広く認めることが妥当であり、武力衝突と鎮圧過程で犠牲になった軍人や警察官も解放前後の混乱したイデオロギー対立の過程で発生した犠牲者に含めることが同法の趣旨に符合する」と回答した。 4・3委員会は討伐に参加した大韓青年団など、国家有功者519人、警察官91人、軍人28人を犠牲者として追加認定した。
 一方、憲法裁判所は2001年、4・3特別法の違憲確認審判請求を却下し、「(1)武装遊撃隊に加担した者の中で首魁級の共産武装兵力指揮官又は中間幹部として軍と警察の鎮圧に主導的・積極的に対抗した者 (2)冒険的挑発を直接・間接的に指導又は指示したことで、4・3事件勃発に責任ある南労党済州道党の核心幹部 (3)その他、武装遊撃隊と協力した鎮圧軍や警察官及びその家族 (4)制憲選挙関与者等を殺害した者 (5)警察官などの家屋と警察官署など公共施設に対する放火を積極的に主導した者」を犠牲者の除外対象とすべきだと明らかにした。 2002年3月、4・3委員会は憲法裁判所の基準を狭めて「(1)済州4・3の勃発に直接的責任のある南労党済州道党の核心幹部 (2)軍と警察の鎮圧に主導的積極的に対抗した武装隊首魁級は除くものの、その行為を客観的に立証する具体的かつ明白な証拠資料がなければならない」と決定した。

★“アカ”の命を救ってくれた支署長はどうするのか
 ところが、加害者と被害者、加害者でありながら被害者でもある籍集合の部分を区分できるだろうか。
 그런데 가해자와 피해자, 가해자이면서 피해자인 교집합 부분을 분절하여 구분할 수 있을까. 제외 기준이 남로당원 또는 경찰 등의 직위가 될 수 있을까.
除外基準が南労党員または警察などの職位になり得ようか。社会主義思想を持っていたが武装闘争には反対した南労党員、警察・軍人だったけれども虐殺には同意しなかったり、上部の指示によって仕方なく殺戮に参加して精神的トラウマを負った人たちは、加害者だろうか、被害者だろうか。モスル浦にはイ・シンホの寂しい墓碑も、南労党員名簿に載った大静面の住民たちの調書を虚偽作成して命を救ったモスル浦支署長ムン・ヒョンスンの功徳碑も、共存している。
 歴史が過去と現在の絶え間ない対話なら、現在の観点で過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。 時代状況とともに、個人の生き方を眺望することも実体的真実に接近する一つの道だ。個人の歴史が集まって時代と歴史を成す。議論が起きている103人の不良位牌リストに対する判断もまた、総合的かつ均衡的考察の中で行われなければならない。 103の位牌には103人のそれぞれ違った生き方がある。人間を判断するのに、いくつかの物差しの書かれた紙一枚で審判することは、あまりにも軽い。

【写真】第67周年済州4・3犠牲者追悼式が開かれた3日午前、済州市奉蓋洞の4・3平和公園で遺族と追慕客が犠牲者の御霊を慰め献花している。 済州/キム・ギョンホ先任記者//ハンギョレ新聞社

文:西帰浦、大静邑/パク・ユリ記者、写真:済州道庁・米国国立文書記録管理庁・済州4・3平和財団提供、グラフィック:ソン・グォンジェ記者
韓国語原文入力:2015-03-29 10:24
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/684407.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「済州4・3事件、認定が先だ」

2017年06月18日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/14427.html
「The Hankyoreh」登録 : 2013.04.09 09:06 修正 : 2013.04.11 21:58
■[世相を読む] 済州4・3事件、認定が先だ/金東椿聖公会大社会科学部教授
 1948年4月3日韓国単独政府樹立に反対する済州島(チェジュド)南労働党はストライキと蜂起を起こした。 しかし当時、西北青年団,警察の残酷な弾圧で民心は武装隊側に向かっており、ついに軍は300人余りの武装隊を討伐する過程で彼らに同調していると疑われる民間人を無惨に虐殺した。 軍の焦土化作戦で山間地帯の数多くの村が地図上からなくなり、老人・児童・女性を含む3万人余りが犠牲になり、残った家族は暴徒の頚木をかけて今日まで65年間にわたり国民でない国民として生きてきた。
 ところがナム・ジェジュン国家情報院長は2008年から「済州4・3事件は北(韓)の指令で起こした武装暴動ないしは反乱」と講演し、前回の聴聞会で彼の考えを再度尋ねると「我々軍人が知っていることは…(そのように承知している)司法府は別の判断をした」として自らの主張を曲げなかった。 一方、参与政府の国防部長官だったキム・ジャンス大統領府安保室長は過去のインタビューで「4・3事件は明確に左派による武装暴動」としつつ「軍警による一部民間人被害は認めるが、それは暴動鎮圧過程で避けられない事故であった」と主張した。
 今まで学校で済州4・3事件をまともに教えてこなかったし、特に陸軍士官学校と軍では完全に軍の恥ずかしい過去については教えなかったために、彼らがこのような認識を持つようになったことは理解する。 しかし今、彼らは国家安保ラインの最前線に立つ責任者であり、軍の不法を擁護してはならない位置にある。 特にキム・ジャンス室長は参与政府の閣僚まで務めた人であり、盧武鉉大統領が4・3犠牲者に公式謝ったことまで知っている。 済州4・3真相調査委員会による調査の結果、被害申請者1万4000人の内80%が軍警の無理な鎮圧作戦で虐殺されたことが確認されたが、それは決して正当な作戦でも‘一部の被害’でもなかった。
 ところでこのように新たに確認された事実を知ろうともせず、以前の政府が公式に決めた報告書と前大統領の公式謝罪まで全く無視して、北韓と左翼にすべての責任を転嫁しながら、司法府と軍の立場は違うと主張するならば、果たして軍の体面が立つのだろうか? 真に力のある軍隊ならば敵との戦闘には勇敢でなければならず、民間人には寛大でなければならないのに、‘国民のいない軍隊’は戦闘に敗北すれば罪なき民間人にうっぷん晴らしを日常茶飯に行なう。 済州4・3事件当時、そして韓国戦争前後に軍がどうだっただろうか? 私は真実和解委常任委員の仕事をしながら軍の公式歴史と異なる戦争期の国軍の残虐性を証言する数千名の陳述を読んだし、済州4・3事件当時に強硬鎮圧を拒否して9連隊長から追い出されたキム・インニョル将軍のように不当な命令を拒否した義に徹した軍警も多かったということを知っている。
 北韓との戦争危機が高まるこの渦中で、安保責任者の神経はより一層鋭くなるはずだ。 ところで真正な安保とは何か? 彼らが済州4・3事件をこのように見ているという言葉は、未だに安保という伝家の宝刀を突きつけて軍と情報機関が民間人にこのような残酷行為をしてもかまわないという言葉ではないのか? 自身の恥ずかしい過去は認めずに、民間人を不法査察したり政治に介入してきた国家情報院と機務司がどうして国民の信頼を受けられるだろうか? 去る65年間、国家を恨みながら傷を抱いて生きてきた犠牲者に、率直な謝罪をできないばかりか、これらの人々を暴徒として追い立てるならば、寝つこうとしていた魂が再びむくっと起き上がるだろう。
 済州4・3当時、無理な討伐を展開したことを軍が公式‘認定’し、陸軍士官学校でそれを教える時に国民の軍隊として新たに出なおせるはずだ。

韓国語原文入力:2013/04/08 19:15
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/581820.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「4・3、ついに国家追悼日に指定さる」

2017年06月18日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/16991.html
登録 : 2014.03.24 23:29 修正 : 2014.03.25 07:02
■4・3、ついに国家追悼日に指定さる
 改正案議決・・・慰霊祭 国家行事に格上げ
 「国家の過ち 公式認定を意味する」

【写真】米国サンダンス映画祭で‘ワールドシネマ劇映画’部門 審査委員大賞を受賞した映画<ジスル(じゃがいも)>の一場面。 この映画は済州(チェジュ)4・3抗争当時、無念に死んでいった住民たちの恨みの霊を慰める低予算映画だ。 写真提供ジャパリフィルム

 「4・3の国家追悼日指定は、国家の過ちを公式的に明らかにしたことと同じ意味だ」。
 18日「4・3犠牲者追悼日」を国家記念日に指定する「各種記念日等に関する規定」(大統領令)改正案が議決されるや、韓国現代史研究の権威者ソ・ジュンソク成均館(ソンギュングァン)大学名誉教授が下した評価だ。
 この日の改正案議決により、今年開かれる第66周年4・3慰霊祭は初めて国家行事に格上げされて行なわれることになる。4・3慰霊祭が国家の追悼日として行なわれるまでに、30年近い歳月がかかった。去る87年の民主化運動によって、当時までタブー視されていた4・3の真相究明運動の糸口が生まれ、その後88年には初めて済州道内の在野諸団体が<4月祭共同準備委員会>を結成し、事件発生40年目にして初めて4・3の追悼祭を開いた。その後毎年続けられ、94年からは合同慰霊祭として行われている。
 4・3国家追悼日の指定は済州4・3中央委員会が2003年10月<済州4・3事件の真相調査報告書>の発刊と共に済州4・3問題解決のために採択した△道民と被害者に対する政府の謝罪△追悼記念日への指定△平和公園造成支援△遺族生計費支援、など7大建議事項の一つだ。
 故盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領が公式謝罪をするなど、7大建議事項が遅々とした歩みではあったが履行されてきた状態で、国家追悼日の指定は事実上最後の段階だった。ソ・ジュンソク教授は「どんな政権かと関係なく、(4・3の追悼日指定は)盧武鉉大統領が謝罪をしたのと同じ意味だ。政府や国家が自ら過ちを犯したということを国家記念追悼日の形式を通して公式的に明らかにしたのと同じ意味だ」と評価した。ソ教授は「これで、済州道民だけのための追悼日でなく、国家全体が追悼する日になり、済州道と済州4・3平和財団がさらに大きな荷を負うことになった」と述べた。
 4・3真相調査報告書作成の先頭に立ってきたヤン・ジョフン<済州4・3中央委員会>前首席専門委員は「国家権力によって何の罪もないのに犠牲になった人々に対する慰労と追悼を全国民が称えるという意味もあるが、理念的汚名に苦しめられてきた遺族たちに対して国家が反省するという意味もある。4・3の名誉回復にとって重大な進展だ」と評価した。チョン・ムンヒョン済州4・3遺族会会長は「政権が変わる度に4・3に対する見方が一進一退する混乱があったが、追悼日指定により、今後はそのようなことがないことを期待する」と歓迎した。
 ウ・グンミン済州道(チェジュド)知事とイ・ムンギョ済州4・3平和財団理事長、チョン・ムンヒョン4・3遺族会会長、ヒョン・チャンハ済州道在郷警友会長らは同日午後、共同記者会見を開き、「4・3特別法の制定に努力した故・金大中(キム・デジュン)元大統領と政府レベルの公式謝罪をした故盧武鉉元大統領、国家レベルの追悼日に指定した朴槿恵(パク・クネ)大統領に、感謝の言葉を申し上げる」として、「これを契機に和解と相生、平和と人権の価値を全国に、そして世界に知らせていくよう努力する」と述べた。

ホ・ホジュン記者 hojoon@hani.co.kr
韓国語原文入力:2014/03/19 09:11
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/628901.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「軍事政権下で起きた捏造事件の責任を問う」

2017年06月17日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23385.html
「The Hankyoreh」登録 : 2016.02.21 16:17 修正 : 2016.02.22 09:18
■軍事政権下で起きた捏造事件の責任を問う(1) 担当判検事の法的政治的責任

再審無罪の75件解剖

【写真】真実・和解のための過去事事件整理委員会は2005年12月1日から2カ月間、隠蔽された真実を明らかにし過去との和解を通じた国民統合に寄与するため作られた一時的な国家調査機関。写真は調査活動開始の記者会見//ハンギョレ新聞社

苛酷・不法行為の責任は?

 「過去事」事件に対する再審無罪確定判決をきっかけに、誤った捜査と裁判を担当した人々の責任問題が再び持ち上がっている。直接苛酷行為を行なった司法警察、起訴独占権と捜査指揮権を持ちながら、これを正すことができなかった検察、最終判断を下した裁判所などは責任から自由ではあり得ないと指摘される。

「捜査官問責」は法曹界の衆論
公訴時効満了が問題
判検事の責任問題は見解分かれ

国家の求償権行使も可能
保守回帰の現政権では可能性低い
「国会立法通じて包括的清算」の指摘

 不法監禁や苛酷行為を直接犯した捜査官に対し法的責任も問うべきだという点では、法曹人の意見は概して異論はない。判事出身のある弁護士は「直接捜査を通して事件を最初に捏造した司法警察の責任が一番大きいと言える」と言った。今回の取材対象である75件の過去事事件再審無罪判決文では大部分、捜査官の不法逮捕、苛酷行為など不法行為が事実として認められた。
 不法行為には刑事処罰が伴う。問題は公訴時効だ。 1960~80年代に起ったスパイ捏造事件などは、発生後数十年が経って不法逮捕公訴時効(7年)など捜査官が犯した罪の時効が満了して久しい。 2009年、ソウル高裁は1980年代の「パク・トンウン・スパイ捏造疑惑事件」の再審を決定して「捜査官が被告人を不法に連行・監禁して苛酷な行為を加えた事実が認められる」としながらも 、「公訴時効が満了し有罪判決が下せない」と明らかにした。
 このため、不法を犯した捜査官に対し国家が求償権を行使して民事上の責任を問うべきだという主張が説得力を得ている。 過去事の事件の被害者は裁判所で再審無罪判決を受けた後、これを根拠に国家を相手取り民事上の損害賠償請求訴訟を提起してきた。国家賠償判決が下された場合、国家が被害者にまず損害賠賞金を支給するが、後で実際に過ちを犯した公務員から賠償額を受け取る手続きが求償権請求だ。
 実際に、第5共和国時代のスパイ捏造事件「スージー・キム事件」の被害者遺族に対する国家賠償判決が下された時、2003年、法務部は責任者の張世東(チャン・セドン)元安全企画部長と当時の安全企画部職員に求償を請求して勝訴した。朴鐘哲(パク・チョンチョル)氏事件の国家賠償判決の時も、法務部は拷問警察官に求償を請求して 2000年に一部勝訴判決を受けた。
 検事と判事の責任については見解が分かれる。道徳的責任を越えて法的責任を問うことができるのかどうか、明確ではないというのである。パク・チャヌン漢陽(ハニャン)大学法学専門大学院教授は「捜査官の拷問・不法拘禁は国家賠償法上、公務員の故意・重過失と判断することができるから求償権行使を通して責任を問うことができるが、検事や判事の故意・重過失を立証することは現実的に容易でない」と述べた。
 一方、ある検事出身の弁護士は「検事が捜査をしながら捜査機関の不法拘禁の有無が分からないはずはなく、判事も意志さえあったら法廷で被害者が主張した人権侵害の事実などを明かすことができたわけだから、これら判検事に対し連帯責任を問うことができる」と主張した。法務法人トクスのキム・ヒョンテ弁護士も「過去事事件で検事が被疑者を殴るとか法廷で被告人が拷問を受けた事実を訴えたのに、判事がこれを無視した事例が無数に出てくる」として「このような場合、国家が判検事にも求償権を請求することができる」と述べた。
 しかし現政権が不法な捜査・裁判過程に法的責任を問う可能性は低いと見られる。検事出身のキム・ヒジュ弁護士は「国家が過誤を認め関連公務員に求償権を積極的に行使して初めて予防的効果が生じ得るのに、現政権には求償権を請求する意志はなさそうだ」と語った。 朴槿恵(パククネ)政権になって裁判所が国家責任を軽減させる判決の傾向がある点も目につく。大法院(最高裁)の全員合議体は去年1月、「文人スパイ団事件」の被害者たちが国家を相手に提起した損害賠償訴訟で「拷問被害者であっても民主化運動補償金を受け取れば国家賠償は受けることができない」と、以前とは異なる判決を下した。
 このため、国会が立法を通して包括的に過去事清算作業をしなければならないとも指摘される。 キム・ヒョンテ弁護士は「権力を利用した不法行為が繰り返されないように国家犯罪に対する公訴時効適用を排除する特別法を作り、真実・和解のための過去事整理基本法を制定・改定して、被害者に対する賠償・補償問題と加害者責任を包括的に処理すべきだ」として「別途の常設独立機構も設けて過去事清算作業を持続して行かなければならない」と語った。

キム・ギョンウク、コ・ナム、キム・ミンギョン記者
韓国語原文入力 : 2016-01-27 01:21
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/728045.html



http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23387.html
「The Hankyoreh」登録 : 2016.02.21 16:40 修正 : 2016.02.22 09:14
■軍事政権下で起きた捏造事件の責任を問う(2) 捏造・誤判でも政界・法曹界の中枢に

無罪に覆った原審の判検事 505人を分析

【写真】ヤン・スンテ大法院長官はソウル刑事地方裁判所に在職していた1976年、「在日韓国人留学生キム・ドンヒのスパイ事件」の合議部1審陪席判事だった。ハンギョレはヤン大法院長官に当時の裁判について尋ねたが答えなかった//ハンギョレ新聞社

 「真実・和解のための過去事整理委員会」(真実和解委)で再審を勧告した確定判決のうち、再審で無罪確定判決の出た75件の原審判決文224件を担当した判検事505人(重複除外)のその後の履歴を分析すると、少なからぬ人たちが高位法官や検察高位職に昇進した事実が明らかになった。
 捏造スパイ事件などを判決した判事378人のうち、事実審である1・2審で判決を担当した判事は333人。そのうち107人が、その後、高裁の部長以上の高位法官を務めた。また裁判所長任命者は45人、大法院(最高裁)長官・判事は29人、憲法裁判所長・判事になった判事は12人だ。また大法院判事として過去事事件の3審を担当し、裁判後に大法院長官に任命された判事は4人いる。
 検察の場合、過去事事件の捜査・公訴維持を担当した検事59人は、事件後アン・ガンミン元ソウル地検長など12人が地検長など検事長に任命された。キム・ギス元検察総長とシム・サンミョン元法務長官も、過去事事件担当後、高位職に上った。「カン・ギフン遺書代筆疑惑事件」の捜査を担当したカン・シンウク元ソウル高等検察長は、2000年に大法院判事に任命されるなど、検事出身の元大法院判事は2人、憲法裁判所判事も1人いる。

1・2審判事のうち107人は高位法官に昇進
裁判所長45人、大法院長官・判事29人…
カン・イルウォン憲法裁判所判事「覚えていない」
ヤン・スンテ大法院長官は回答拒否

捜査検事も14人が高位職に
検事長12、検察総長1、法務長官1 …
「国民の党」イム・ネヒョン議員「申し訳ない」
コ・ヨンジュ放送文化振興会理事長「覚えていない」

 これらのうち16人が現職の判事、国会議員、公職者として在職中だ。ヤン・スンテ大法院長官はソウル刑事地方裁判所に在職していた1976年、「在日韓国人留学生キム・ドンヒのスパイ事件」の合議部1審陪席判事だった。クォン・スンイル大法院判事もソウル刑事地裁に勤めていた1985年、「イ・ジュノ家族スパイ事件」の1審裁判部に陪席判事として判決に参加した。 イ・ジュノ氏の家族は当時1審法廷でスパイ罪の嫌疑を否定し苛酷行為を暴露した。ハンギョレがヤン大法院長官とクォン大法院判事に当時の裁判について尋ねると、答えようとしなかった。ヤン大法院長官は以前、緊急措置違反事件の裁判部にいた事実が知られた経緯がある。
 カン・イルウォン憲法裁判所判事は1985~1986年、ソウル刑事地裁第13部で4件の捏造スパイ事件の判決に加わった。カン判事が1審陪席判事として担当した事件は「在日韓国人留学生ユン・ジョンホンに対するスパイ捏造疑惑事件」「在日韓国人チョ・イルチに対するスパイ捏造疑惑事件」、「ク・ミョンソに対するスパイ捏造疑惑事件」、「ホン・ジョンニョル、パク・ヒジャ、ピョン・ドゥガプに対するスパイ捏造疑惑事件」だ。再審無罪判決文によると、ク・ミョンソ氏は当時1審裁判部に「拷問に耐えられず、ない事実をあるかのように作り上げて話した」という嘆願書を送っていたが、受け入れられなかった。カン判事はハンギョレ記者と会い 「判決の時点から見て2件は判事任官1カ月後に判決したもので主審ではなかったようであり、他の2件はよく思い出せない」として「最近再審が出たという事実も知らなかった」と話した。
 国家機密伝達未遂の嫌疑で有罪判決を受けた在米同胞キム・チョル氏の原審判決には、ソン・ナクソン水原地裁所長とキム・イス憲法裁判所判事がそれぞれ1審と破棄差し戻し審の陪席判事として参加した。当時、大法院は拷問で捏造されたキム・チョル氏の多くの容疑のうち一部を無罪主旨で破棄差し戻しにし、破棄差し戻し審を担当したソウル高裁は1990年、大法院の破棄差し戻しの主旨通りの判決を下し、懲役 10年から 7年に減刑した。キム・チョル氏の事件は再審で全ての容疑が無罪となった。
 キム判事は「事件は思い出せない。再審の事実も知らなかったが、再審で無罪が宣告されたならば (事実を)見分けることができなかった責任がある」と言った。ソン地裁所長はハンギョレに「答えることはしない」と伝えた。
 現職国会議員4人も過去に担当した事件の再審無罪判決を知らなかった。セヌリ党のファン・ウヨ議員は「全民学連・全民労連の反国家団体捏造疑惑事件」の2審など2件、同じくセヌリ党 のヨ・サンギュ議員は「ソク・タルユン等に対するスパイ捏造疑惑事件」の1審など2件、セヌリ党のイ・インジェ最高委員は1件(「アラム会事件」の 1審 )の裁判に参加した。これについてファン議員は「よく分からない。主審か陪席か裁判長かを確かめてみなくてはならない」と語り、ヨ議員も「判決に対して責任を負う問題ならば、判決が確定された最終審の判事に聞くべきだ」と答えた。 ハンギョレはイ・インジェ最高委員に何回も電話したが出なかった。
 検事の中には国民の党のイム・ネヒョン議員とコ・ヨンジュ放送文化振興会理事長が目につく。イム議員は仁川地検に在職していた1983~1984年、「拉北帰還者チョン・ヨンなどに対するスパイ捏造疑惑事件」の捜査と公訴維持を担当した。チョン・ヨン氏は無期懲役を宣告されて16年間服役した。 イム議員はハンギョレとの電話インタビューで「本人が自白したし、不当さを訴えるとかいうことがなかった。安全企画部の拷問・暴行があったとしたら、捜査過程で明らかにすることができなくて申し訳ない」と語った。コ・ヨンジュ放送文化振興会理事長はソウル地検に在職していた1985年、「イ・ジュノ家族スパイ事件」を捜査した。これについてコ理事長は「覚えていないので何も言えない」と答えた。

キム・ミンギョン、コ・ナム、キム・ギョンウク記者
登録 :2016-01-27 01:17修正 :2016-01-27 13:40
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/728044.html



http://japan.hani.co.kr/arti/politics/23386.html
「The Hankyoreh」登録 : 2016.02.21 16:27 修正 : 2016.02.22 09:16
■軍事政権下で起きた捏造事件の責任を問う(3) 責任なき判検事「選挙に向け突撃!」 
 再審で無罪が確定された過去事事件を担当した判検事505人(重複除外) のうち4・13総選挙に出馬するのは、「国民の党」のイム・ネヒョン議員、セヌリ党のファン・ウヨ議員、イ・インジェ最高委員、ヨ・サンギュ議員、イ・サチョル前議員、大統領府のクァク・サンド元民政首席の6人だ。

【写真】イ・サチョル//ハンギョレ新聞社

 6選に挑戦するファン・ウヨ議員(仁川ヨンス)は、1976年にソウル刑事地裁と1982年にソウル高裁に在職中に「在日韓国人の姜宗憲(カン・ジョンホン)に対するスパイ捏造疑惑事件」と「全民学連・全民労連反国家団体捏造疑惑事件」を担当した。 2014年から社会副首相兼教育部長官として在職し歴史教科書国定化を主導したファン議員は、総選挙出馬のために1月12日に長官職を退き、党に復帰したところだ。
 1982年大田(テジョン)地裁判事として在職して「アラム会事件」を担当したイ・インジェ最高委員(忠南論山・鶏竜・金山)は今回当選すれば7選の国会議員となる。1980年代初盤の「ソク・タルユン等に対するスパイ捏造疑惑事件」の1審裁判と「九老(クロ)分配農地訴訟詐欺捏造疑惑事件」の破棄差し戻し審を担当したヨ・サンギュ議員(慶南四川・南海・河東)は3選のために飛び回っている。
 「共に民主党」から国民の党に所属を移したイム・ネヒョン議員(光州北区乙)は再選に挑戦する。イム議員は1984年仁川地検に在職中「拉北帰還者チョン・ヨン等に対するスパイ捏造疑惑事件」の捜査と公訴維持を担当した。
 4件の過去事再審無罪事件で捜査や公訴維持を担当した検事出身のイ・サチョル元セヌリ党議員は先月、京幾道富川ウォンミ乙のセヌリ党候補予備選挙に出ると明らかにした。 大邱忠南セヌリ党候補の予備選挙に出るクァク・サンド元大統領府民政首席は、1991年ソウル地検勤務当時、「カン・ギフン遺書代筆疑惑事件」の捜査に加わった。
 総選挙出馬者たちは概して当時の事件について「覚えていない」とか「責任者ではなかった」と答えた。ファン議員とヨ議員は「古い事件なのでよく覚えていない」と言い、イ・インジェ最高委員側は 「その事件と関連して特に言うことはないと聞いている」と伝えた。

【写真】クァク・サンド//ハンギョレ新聞社

 イ・サチョル元議員は「安全企画部と警察など捜査機関が被害者を不法拘禁した事実が分からなかったのか」というハンギョレの質問に「覚えていない」と答えながらも 「当時は普通凶悪事件や公安事件の場合、検察に来る前の捜査段階で捜査官が被疑者を旅館部屋や事務室に何日も閉じ込めていたのが慣行だった」と答えた。 事件被害者に対する所感を尋ねる質問には、「2000年代に入って実体的真実より捜査の手続き的正当性を重要視する方向に刑事法手続きが変わったため、有罪が無罪に覆ったケースが多いと聞いている」として「その人たちがスパイでないと言えるわけではない」という立場を明らかにした。 しかしイ元議員が担当した4件とも皆、再審でスパイ容疑そのものに対して無罪判決が下された。
 カン・ギフン事件捜査に加わったクァク・サンド元民政首席は通話で「初任検事として捜査の補助をしたことは事実だが、意思決定をする位置にはなかった」と答えた。「真実・和解のための過去事整理委員会」はこの事件の決定文に「当時の検察がカン・ギフンに対して眠らせずに長時間の徹夜調査などにより自白を得ようとした事実が認められる」と明らかにした。クァク元首席はこれに対して「当時は夜間の調査が許されていた」と主張した。
 ハンギョレの分析結果、過去事事件を担当した判検事505人のうち現職国会議員4人を含め国会議員を務めた人はイ・フェチャン元自由先進党代表とチェ・ヨニ元ハンナラ党事務総長など 19人だった。

キム・ギョンウク記者
韓国語原文入力:2016-01-27 21:39
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/728225.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「卑屈で卑怯な検事だった最高裁判事候補者」

2017年06月16日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/h21/20238.html
「Hankyoreh Media」登録 : 2015.04.07 22:06 修正 : 2015.04.08 07:27
■[週刊ハンギョレ21] 卑屈で卑怯な検事だった最高裁判事候補者

 「パク・ジョンチョル事件」のパク大法院判事候補者
 意図的に不良な捜査をしたという証言
  隠蔽疑惑については知らぬフリを通す
 出世街道をひた走った検事たちの面々

【写真】パク・ジョンチョル氏は1987年1月、警察の捜査過程で水拷問により亡くなった ハンギョレ21//ハンギョレ新聞社

 パク・サンオク大法院(最高裁)判事候補者は1987年、「パク・ジョンチョル拷問致死事件」の1、2次捜査検事だった。 1987年1月、ソウル大生だったパク・ジョンチョル氏が警察の捜査過程で水拷問により死亡した直後に捜査に着手した1次捜査チームは、拷問警察官2人を起訴しただけで捜査を終えた。 しかし、同年5月に天主教正義具現司祭団が他に追加すべき犯人がいると明らかにすると、検察は2次捜査チームを設け、残りの拷問警察官3人を追加で起訴した。 当初の1次捜査は“不良捜査”であったわけだ。 真実・和解のための過去事整理委員会(真和委)はこのような不良捜査の原因について「検察が事件の真相を十分認知していながら外圧に屈して捜査権を適切に行使できなかった」と指摘した。
 パク・サンオク候補者は1次捜査当時に担当検事として追加犯人の存在を知りながら、隠ぺいしたことはなく「知らなかった」と主張する。しかし1次捜査で起訴された拷問警察官の法廷陳述とマスコミのインタビュー、真和委報告書、アン・サンス昌原市長(当時、捜査検事)の回顧録などの資料を調べれば、彼が1次捜査の段階で追加犯人がいる事実を認知していながら積極的捜査をしなかった可能性を示す根拠が明らかになる。民主化運動の象徴になったパク・ジョンチョル拷問致死事件を不良捜査した検事に、果たして大法院判事の資格があるかという論議は4月7日に開かれる国会人事聴聞会で結論が出る予定だ。
 2009年真和委は、パク・ジョンチョル拷問致死事件を1次捜査した検察が「事件の真相を十分に認知していたにもかかわらず職務を遺棄し捜査をまともに進行できなかった」として「憲法で独立性を保証されていながら権力層の圧力に屈して真実の歪曲を正せなかった点に対して謝る必要がある」と決定した。 しかし、表に見られるように事件当時の検察総長をはじめ1次捜査に関与して隠ぺい・捏造に責任がある検事らは、事件以後に安全企画部長、検察総長、憲法裁判所裁判官、国会議員などを歴任し出世街道を“常勝疾走”した。彼らは当時事件の隠ぺい・捏造疑惑に関してまだ一度も謝っていない。
 パク・テチュル セヌリ党報道官は、3月8日の国会ブリーフィングでこう話した。「当時、経歴17年の主任検事だったシン・チャンオン検事は与野党表決の結果、圧倒的な賛成で憲法裁判所裁判官に任命された。 経歴14年のカン・シンウク検事は何の問題も提起されず与野党表決を通じて大法院判事に任命された。 経歴8年のアン・サンス検事はスター検事になって以後、ハンナラ党の代表まで歴任した。 経歴2年を越えたばかりの末端検事だったパク・サンオク候補者の大法院判事任用を阻むのでは理屈が通らない」
 しかし、パク報道官の話には誤りがある。シン・チャンオン検事が憲法裁判所裁判官に任命されたのは1994年で、当時はまだ検察が当該事件を隠ぺい・捏造したという疑惑が起きる前の時期だ。 2009年真和委報告書が出てきた後に当時の検察も事件の隠ぺい・捏造に加担していたことが明らかになった。 また、大法院判事を務めたカン・シンウク検事は3次捜査に合流した検事で、隠ぺい・捏造疑惑が提起された1~2次捜査には関与していない。 アン・サンス昌原市長も2009年に真和委報告書が出てくるまでは“意志が強い検事”として知られていたが、事件の真実が明らかになった後にはパク・ジョンチョル記念事業会から批判された。“不良捜査”の罪人は全員が出世した。 そして今、当時の末端検事までが大法院判事になるなら、子孫はこの歴史を通じて果たして何を学ぶことになるだろうか。

【図】その時のパク・サンオクと検事らは//ハンギョレ新聞社

ソンチェ・ギョンファ記者
韓国語原文入力:2015-04-07 10:35
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/685792.html



http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/19566.html
「The Hankyoreh」登録 : 2015.02.04 07:20 修正 : 2015.02.04 08:07
■[社説]拷問致死の隠蔽検事は最高裁判事になるな
 パク・サンオク大法院(最高裁)判事候補者が1987年のパク・ジョンチョル拷問致死事件を矮小化して隠した検察捜査チームの検事であることがわかった。このような事実は国会に提出された最高裁判事の任命同意案からも欠けていたという。朴候補者がわざわざ削除したのではないか疑わしい。歴史的責任を最終的に避けようとしたという批判は免れ難い。
 朴候補者をはじめとする検察の捜査チームは当時ソウル大生だったパクさんを水につけて拷問して死なせた治安本部の対共捜査官から「犯人はあと3人いる」という自白を聞いても、それ以上の捜査をせずに当初明らかになっていた捜査官2人だけを起訴する線で捜査を終わらせた。カトリック系の天主教正義具現司祭団の暴露によって再捜査が始められた後も、関係機関対策会議等を通じて起きた組織的な事件隠蔽と操作についてはまともに捜査せずに責任者だったカン・ミンチャン治安本部長を嫌疑不十分と処理するなど、事件の矮小化に汲々とした。パク候補者は当時捜査チームに参加した検事として権力に屈して国家暴力の殺人と隠蔽工作を手助けした責任は免じ難い。過去の歴史委員会が2009年の検察の謝罪を促したにもかかわらずパク候補者はこれまで何の言及もしてこなかった。人権蹂躪と歪曲にまみれた汚辱の歴史を反省する意志はないと見るほかない。
 これは大法院判事としては致命的な欠陥である。大法院は司法の正義と人権の最後の砦であるべきだ。ヤン・スンテ大法院裁判長が「人権の最後の砦としての役割を忠実に遂行することが司法府が向かうべき目標かつ方向」と話すなど、司法府自ら繰り返し自認してきたことだ。パク・ジョンチョル事件のような拷問と過酷な行為そしてそれを通じて作りあげる虚偽の自白と事件の工作は人権を威嚇する代表的な国家犯罪である。このような犯罪に目をとじても反省さえしない人がどのように最高の法院の裁判官になることができるという言葉なのか。
 パク候補者はパク・ジョンチョル事件以外にも、無実の市民を水拷問した疑惑で1992年に立件された警察官を被害者と合意したという理由だけで在宅で処理することも少なくともしている。警察が被害市民に合意を勧めるなど、事件を縮小化しようとした疑惑があるのにそのようにしたのだからパク・ジョンチョル事件の処理とそっくりである。そのような考え方にこり固まった人が大法院の判事として国家権力の恣意的行事をはねつけて国民の基本権を守るだろうと期待することは難しい。
 パク候補者は今からでも自ら取りやめるべきである。このような人物を大法院の判事候補に推薦した大法院の判事候補推薦委員会と大法院判事に推薦して任命同意を要請したヤン・スンテ大法院裁判長とパク・クネ大統領は当然謝罪し、それを撤回すべきである。

韓国語原文入力:2015/02/03 18:40
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/676628.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

過去を知り、現在を生きる 東アジア史総論 朝鮮史をとおして考える 3

2017年06月15日 | 個人史・地域史・世界史
■世界戦争としての朝鮮戦争
(1)はじめに
    67年前、1950年5月25日に開始された朝鮮戦争は、1953年7月27日に休戦した。
    朝鮮戦争は朝鮮民主主義人民共和国軍の南下によって開始された。朝鮮戦争の3年
   1か月の間に、おおくの民衆の命がうしなわれた。
    金日成が共和国軍を南下させなければ、朝鮮戦争は開始されず、おおくの民衆の命
   が失われることも、家が焼かれ、朝鮮の大地が焼土となることもなかっただろう。
    朝鮮戦争を金日成らは「祖国解放戦争」と規定していた。いまなお共和国の官僚らはこ
   の規定を取消していない。
    第二次世界戦争後、フランス、イギリス、オランダ、ポルトガル、ベルギー、日本……の
   植民地とされていた地域の国家が独立した。
    第二次世界戦争後の戦争の一部を以下に示すが、それは、独立戦争、侵略戦争、内戦
  (市民戦争)、代理戦争であった。朝鮮戦争は、独立戦争でも解放戦争でもなかった。


◇インドネシア独立戦争:1945年8月17日~1949年12月27日
◇ギリシャ戦争:1946年3月30日~1949年10月16日
◇第一次ベトナム戦争:1946年12月19日~1954年8月1日
    ディエンビエンフーの戦い:1954年3月13日~5月7日
◇第一次インド・パキスタン戦争:1947年10月21日~1948年12月31日(停戦)
◇シオニスト、パレスティナ侵略戦争(第一次中東戦争):
   1948年5月15日(ナクバ)~1949年3月10日
◇中国人民解放軍、チベットに侵入:1950年10月7日~1951年(占領)
◇朝鮮戦争:1950年6月25日~1953年7月27日(休戦)
        国連軍(22か国)
        韓国軍・国民防衛軍
        人民軍・中共軍・ソ連軍
◇ケニア独立戦争:1952年~1963年12月12日(ケニア共和国独立)
◇アルジェリア独立戦争:1954年11月1日~1962年7月5日(アルジェリア民主人民共和国独立)
◇第一次スーダン内戦:1955年8月18日~1972年3月27日。16年7か月
◇第二次ベトナム戦争:1955年11月~1975年4月30日
◇ソ連軍、ハンガリーに侵入:1956年10月23日~11月10日(1989年)
   のちに、10月23日はハンガリー人民共和国の祝日に
◇第二次中東戦争(スエズ戦争):1956年10月29日~1957年3月(エジプト、スエズ運河国有化)
◇アンゴラ独立戦争:1961年2月4日~1974年4月25日(停戦)。
   1975年11月11日(アンゴラ共和国独立)
◇エリトリア独立戦争:1961年9月1日~1991年5月29日
◇ジンバブエ独立戦争(「ローデシア紛争」):1965年11月11日~1979年12月29日。
   1980年4月18日、ローデシア、ジンバブエとしてイギリスから独立
◇第二次インド・パキスタン戦争:1965年8月~9月23日
◇第三次中東戦争:1967年6月5日~6月10日
◇ビアフラ戦争(ナイジェリア内戦):1967年7月6日~1970年1月15日(ビアフラ共和国崩壊)
   2年半に、飢餓、病気、虐殺により150万人を超えるビアフラのイボ族が死亡
◇第三次インド・パキスタン戦争:1971年12月3日~12月16日
   1971年12月16日、東パキスタン、バングラデシュとして独立
   1972年7月2日、パキスタン、バングラデシュ独立承認
◇第四次中東戦争:1973年10月6日~10月24日
◇西サハラ戦争:1975年~1991年(停戦)。
   ポリサリオ戦線、サハラ・アラブ民主共和国結成:1976年2月27日。
◇モザンビーク内戦:1977年5月30日~1992年10月4日(停戦)
◇中国人民解放軍、ベトナム北部に侵入・撤退:1979年2月17日~3月16日
◇ソ連・アフガン戦争:1979年12月24日~1989年2月15日
◇イラン・イラク戦争:1980年9月22日~1988年8月20日
◇マルビナス戦争(「フォークランド戦争」):1982年3月19日~6月14日
◇第二次スーダン内戦:1983年4月23日~2005年1月9日(スーダン政府・スーダン人民解放軍〈SPLA〉、南北包括和平合意〈CPA〉調印)
   2011年1月:南部スーダン独立住民投票実施
   2011年7月9日:南スーダン共和国独立
◇ナゴルノカラバフ戦争:1988年2月20日~1994年5月12日(停戦)。
   ナゴルノカラバフ共和国(アルツァフ共和国)独立宣言:1991年9月2日
◇湾岸戦争(第一次イラク戦争):1991年1月17日~2月28日
◇第一次チェチェン戦争:1994年12月11日~1996年8月31日(休戦)。
   1997年、ロシア軍完全撤退
◇第二次チェチェン戦争:1999年8月26日~2009年4月15日(戦闘は2000年5月に終了)
◇アメリカ合州国、アフガニスタン侵略戦争:2001年10月7日~2014年12月28日~
   国際治安支援部隊(International Security Assistance Force):2001年12月20日の国連安保理決議1386号により設立。
◇ダルフール戦争:2003年2月26日~
◇アメリカ合州国、イラク侵略戦争(第一次イラク戦争):2003年3月20日~2011年12月15日~
◇シリア戦争:2011年3月15日~

(2)朝鮮戦争にいたるまで
    ※1945年8月14日、日本、ポツダム宣言受諾。
    ※朝鮮の38度線以北をソ連軍、以南を連合軍、日本軍の武装解除
    ※1945年12月27日、モスクワ宣言で、朝鮮の5年間信託統治、公表
  1945年8月~
  1 南朝鮮で
      ◇1945年9月8日:米軍、38度線以南に軍政を布くと発表(「布告第1号」)
      ◇共産党系、信託統治支持。民族派は、信託統治、反対。
      ◇1946年10月:大邱10月抗争
      ◇1948年4月3日~:済州4・3烽起
      ◇1948年8月15日:大韓民国、樹立
      ◇1948年10月19日~:韓国軍の麗水・順天烽起
      ◇パルチザンのたたかい(智異山、白峨山、白雲山、徳裕山……)
       (参照 李泰『南部軍 知られざる朝鮮戦争』平凡社、1991年。原著は1988年刊)
       ※1963年 12月 11日、鄭順徳さん(~2004年4月1日)、李ホンフィさんが智異山で
       「発見」され、鄭順徳さんは銃傷を負って逮捕、李ホンフィさんは射殺された。
  2 北朝鮮で
       ◇1945年9月上旬 金日成、ソ連軍とともに北部朝鮮に帰国
       ◇信託統治、支持。
       ◇1948年9月9日 朝鮮民主主義人民共和国、樹立
  3 日本で
      
(3)1950年6月25日、共和国軍が38度線を南下
    ※金日成政権の歴史の偽造
     ◇「売国奴李承晩一味が引き起こした内乱に反対してわれわれが進めている戦争は、
      祖国の統一と独立、自由と民主主義のための正義の戦争であります」(『金日成著作
      選集』第1巻、外国文出版社、平壌、1970年、280頁)   
     ◇「一九五九年六月二五日、アメリカ帝国主義と李承晩一味はついに朝鮮民主主義
     人民共和国にたいし侵略戦争を起こした」(金漢吉『現代朝鮮史』外国文出版社、
     平壌、1979年、285頁)
     
    参考:「開戦時における南北朝鮮軍の戦力の比較」(『朝鮮戦争』1、陸戦史研究普及会
      編、原書房、1966年)
       戦力
         朝鮮民主主義人民共和国:陸軍 135438人(うち、戦闘員98000人)
         韓国:陸軍 98000人(うち 戦闘員65000人)
       装備・補給
         朝鮮民主主義人民共和国:47~50年のソ連製、補給品十分
         韓国:米国の第2次大戦の中古と日本の小銃、補給品1~2日分

 1 韓国で

     李西根さん(1923年1月生)の証言2(014年3月2日、ソウルで)。    
       「6・25のとき、済州島にいた。海兵隊には士官学校がなかったから、海兵隊から
     の委託生として陸軍士官学校に入り、1950年1月14日に卒業。少尉になって、済州島
     に駐屯していた海兵隊に行き、原隊復帰。じぶんは少尉、小隊長になって海兵隊司令
     部に残り、作戦室で作戦監の任務。そのわたしが6月25日のことを知らなかったのだ。
     韓国側が先に北を攻撃したという人もいるが、それはありえない。
      仁川上陸作戦の時、作戦監として参加。12日に済州で船に乗って釜山に来た。新しい
     制服が用意されていて、左ポケットには、海兵隊と書かれていた。どこに行くのかも何
     をするのかも説明がなかった。14日に艦内で、みな集まれ、仁川上陸作戦に参加する
     と言われた。
      第1大隊第1中隊第1小隊小隊長。戦区は中央庁だったが、26日夜、米軍海兵隊が攻
     撃して西大門刑務所裏のほうに入ることになっていたが、襲撃を受けて打撃を受け裏
     山に陣地を張り、動けなかった」。

     丁炳碩さん(1936年12月生)の証言」(2010年12月4~5日)。
      「(朝鮮戦争時住んでいた江原道麟蹄郡麟蹄面院岱里の家の)隣の家は、38度線の
     北側だった。
      石橋のむこうは、北韓。オモニの実家は、1000メートルくらい離れた北側にあった。
     農業をしていて、外祖父母、叔父さん。こっちの石橋向こうは、南側。
      7歳のとき、アボヂが日本に連れていかれた。一年生のときだった。学校では、朝鮮
     語を使えなかった。学校では日本語だけ、家ではもちろん朝鮮語だ。
      朝鮮は解放されたが、38度線で南北に分けられた。わたしの家の中を38度線が通っ
     ていた。畑は北にあった。それから3年半後に朝鮮戦争がはじまった。わたしが13歳
     の時だった。オモニ、弟たち、妹たちは、家から8キロほど離れた山の中に避難した。
     わたしは南西に60キロほどの洪川に行った。アボヂも洪川にきた。いっしょに松の木
     で薪をつくって売って生活した。
      1951年のはじめころ、洪川で、韓国軍にスカウトされた。14歳になったばかりだ
     ったが、地理にくわしかったからだ。入ったのは、韓国軍第3師団第3大隊11中隊8ミ
     リ砲部隊だった。わたしは、部隊の案内をした。銃は使ったことはなかった。まだ14
     歳だったから。
      1953年7月、休戦になったときには、江陵にいた。帰郷証明書をもって故郷に戻
     った」。

  2 日本で
     가 在日朝鮮人の志願兵
         1950年 7月5日:民団、在日本韓国学生同盟(韓学同)、朝鮮建国促進青
        年同盟(建青)ら在日本韓国民族総決起民衆大会で、義勇軍募集決定
         642人、135人が戦死あるいは消息不明、242人が日本への再入国を拒否さ
        れる。
        (参照 金賛汀『在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史』岩波書店、2007年)
     나 朝鮮戦争反対行動
         ・1951年12月1日:「東成警察署襲撃事件」
         ・1951年12月16日:「親子爆弾事件」
         ・1952年5月1日:血のメーデー
         ・1952年5月25日〜26日:「高田事件」
         ・1952年5月30日:「大梶南事件」
         ・1952年6月24日〜25日:「吹田事件」
         ・1952年6月24日:「枚方事件」
         ・1952年7月7日:「大須事件」
                  ・1952年7月2:日:「破壊活動防止法」施行
            参考:朝鮮戦争にたいする日本共産党の立場
                「在日朝鮮人運動について」日共臨時指導部発指令第
               415号、1950年9月3日
                「武器の生産と輸送を阻止するための在日朝鮮人の闘争
               は、日本から帝国主義勢力を一掃し、その傀儡国内反動
               共を打倒粉砕する闘争と一致している。この点を充分認
               識して祖国の防衛に奮起した在日朝鮮人の大きな動きと、
               青年行動隊の勇敢な行動性を党が指導運用するようにしな
               ければならない」、「党民族対策部全国会議の決定、即ち
               「臨時中央指導部の指導の下に党各級機関と協力して分派
               主義者を粉砕し、それらから朝鮮人党員を引きはなし、……
               日本共産党の強化のために全力を尽すこと」をすべての朝
               鮮人党員に徹底させなければならない」。

     다 日本の朝鮮戦争参戦
         ◇掃海艇の派遣(「特別掃海隊」)
         ◇港湾労働者
         ◇従軍看護婦
            肥後喜久恵さん(1924年生、日赤従軍看護婦の会)
            「敗戦から十三年後、ようやく日本に帰ってきた私は、「二度と
            戦争に協力したくない」、「“生きる”手助けをする看護婦が患者
            を戦地に送りたくない」と願って生きてきました。
             残念なことに、五〇年に始まった朝鮮戦争では、九州地方の看護
            婦に再び招集がかかり、米軍博多キャンプの野戦病院に勤務させら
            れました。
             日赤、国立、公立、民間から千人以上の看護婦が、米軍看護婦の
            指揮下で傷病兵の治療にあたらせられたといいます」。
                       (『しんぶん赤旗』2002年2月27日)

(4)朝鮮戦争前後期の民間人虐殺
  1 韓国軍、警察による
     가 4・3烽起(1948年4月3日~)
       ※「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」2000年1月12日
     나 「保導連盟」関係:1950年7月~8月
       ・慶尚北道慶山  ・忠清北道大田 ・慶尚南道晋州 ・忠清南道洪城
          参考:「慶山コバルト鉱山民間人虐殺、66年ぶりに国家責任認定」、『ハン
           ギョレ』2016年9年16日。 キム・ミンギョン記者
             「韓国戦争の時、軍と警察が1800人以上を虐殺したと推定される慶山コ
            バルト鉱山民間人犠牲事件の国家責任を認める判決が下された。
             慶山コバルト鉱山民間人犠牲事件は、朝鮮戦争勃発後に慶尚北道慶山、
            清道、大邱などから連行され大邱刑務所に収監された国民保導連盟員など
            を警察と軍が1950年7~8月に慶山市のコバルト鉱山などで集団虐殺した
            事件だ。
             国民保導連盟は左翼活動経歴者の思想改造を名分として1949年4月に
            李承晩政権当時に作られた政府系団体で、左翼活動とは関係なく強制加
            入させられたケースも多かった。真実・和解のための過去事整理委員会
            (真実和解委)は、2007~2009年に慶山コバルト鉱山で363体の遺骨を
            発掘し、2009年11月この事件の真実糾明決定を下した。当時、真実和
            解委はこの事件の犠牲者を1800人以上と推定した。
             大法院はこれと共に大邱・慶北刑務所の服役者犠牲事件、軍威・慶州・
            大邱の国民保導連盟事件、慶北・霊泉国民保導連盟事件、朝鮮戦争以
            前の慶山民間人犠牲事件、大邱・高霊・星州・霊泉民間人犠牲事件から
            なる6件の虐殺事件の国家責任も認め、310人余りの犠牲者遺族に117
            億ウォン余の損害賠償金を支払うよう判決した。真実和解委が推定した
            6件の民間人虐殺事件の犠牲者は5000人余に達する」。  
     다 居昌・山清・咸陽の虐殺:1951年2月7日・9日~11日
       ※「居昌事件等関連者の名誉回復に関する特別措置法」1996年1月5日     
       ※「真実・和解のための過去事整理基本法」2005年5月3日、韓国の国会で可決。
        同年12月、「真実・和解のための過去史整理委員会(真実和解委)」発足(→2010年
        6月)。
      参考:「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」
        第1回目:2014年2月24日~3月2日、慶尚南道晋州市鳴石面龍山頭
        第2回目:2015年2月23日~3月1日、忠清南道大田市東区郎月洞(前、忠清
             南道大徳郡山内面朗月里骨嶺谷)
        第3回目:2016年2月24日~29日、忠清南道洪城郡広川邑淡山里
        第4回目:2017年2月24日~3月1日、慶尚南道晋州市鳴石面龍山里
  2 アメリカ合州国軍による
    가 忠清北道永同郡黄澗面老斤里での虐殺:1950年7月
      ※「老斤里事件犠牲者審査および名誉回復に関する特別法」(2004年3月5日)      
    나 生物兵器使用
    다 黄海南道信川での民間人虐殺:1950年10月
    라 慶尚南道馬山、咸安郡
    마 慶尚北道醴泉郡、亀尾市
    바 米軍機、全羅北道裡里駅(現イクサン駅)を爆撃.少なくとも350人の民間人が死傷
    사 忠清北道永春面上里300余名の住民と避難民虐殺:1951年1月20日.
  3 朝鮮民主主義人民共和国人民軍による
    가 「一九五〇年六月、朝鮮半島に戦争が勃発した。……七月には朝鮮人民軍が全羅
     南道をすべて占領した。私か住んでいた面(村)は南労党系列の影響が強かったの
     で、南進した朝鮮人民軍に協調した。占領地域に、北朝鮮の末端行政組織である面
     委員会を組織し、李承晩政権に繋がる勢力を摘発、粛清した。その対象に日本の植
     民地統治下の面長だった朴一東が含まれていた。……北朝鮮人民軍の占領下で朴
     一東は反動分子として捕らえられ、村内を引きずり回された。無残にも朴一東の鼻
     に穴をあけ縄を通して、鼻輪をした農牛のように引きずり回した……。朴一東の家
     族は反動家族として、すべて銃殺された」(朴庸坤『ある在日朝鮮社会科学者の散策
     「博愛の世界観」を求めて』現代企画室、2017年)。
    나 韓国慶尚北道漆谷郡倭館邑(303高地):1950年8月17日

(5)おわりに 南北統一・朝鮮民主主義人民共和国の民主化
    ◇朝鮮分断の根本原因:日本の植民地支配
    ◇朝鮮民衆を犠牲にして日本経済が「復興」(「朝鮮戦争特需」)
      ・1950年6月、横浜にアメリカ合州国軍在日兵站司令部設置。
      ・直接調達方式で大量の物資調達(繊維製品:土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、
      テントなど。鋼材:陣地構築用鋼管、針金、鉄条網など。コンクリート材料:
      セメント、骨材〈砂利・砂〉など。食料品)。
      ・兵器生産:日本企業に兵器や砲弾などの生産許可(実質的命令)。
      車両(戦車など)整備、航空機整備を三菱重工・富士重工・小松製作所などに
      発注。
      ・日本の主要軍事産業は、朝鮮戦争特需と警察予備隊(1950年発足)に供与
      された戦車などの整備をおこない、アメリカ合州国の技術などを獲得し、後に、
      61式戦車などを製造。

    ◇4・19(1960年、李承晩追放)、5・18(1980年、光州民衆抗争)、6月民主
    抗争(1987年→全斗煥死刑判決)、2017年5月(朴槿恵逮捕)

                               金靜美(김정미 キム チョンミ)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「韓国戦争の時 ‘刑務所集団虐殺’」

2017年06月14日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/908.html
「The Hankyoreh」 2009.03.02 23:37  クォン・オソン記者
■韓国戦争の時 ‘刑務所集団虐殺’
 釜山・晉州・馬山3400人余り犠牲
 真実和解委,初めての公式確認

【写真】1950年9月1日釜山刑務所服役者たちが顔を埋めたままトラックの上にぎっしりと乗っている。この写真は英国の有名報道写真作家ポトゥ ハーディが撮影したもので国内言論に初めて公開されたものだ。真実・和解のための過去史整理委員会は2日「撮影時期と情況等からみて集団虐殺現場に移動する直前の姿と推定される」と明らかにした。真実・和解のための過去史整理委員会提供

 真実・和解のための過去史整理委員会(真実和解委)は2日「1950年7~9月釜山・馬山・晉州刑務所などに収監された服役者と民間人最小3400人余りが軍人と警察などによって不法に犠牲になった事実を確認した」と明らかにした。韓国戦争勃発直後、後退する軍警が刑務所服役者たちを無差別的に殺害したという疑惑を国家機関が公式確認したのは今回が初めてだ。
 ‘刑務所服役者犠牲事件’は韓国戦争前に発生した済州4・3事件と麗水順天事件などで全国の刑務所20ヶ所余りに収監されていた最小2万人余りの服役者と拘禁された国民補導連盟員たちが韓国戦争勃発直後に軍警によって集団虐殺された事件だ。
 真実和解委調査結果によれば、釜山刑務所では1950年7月26日から9月25日まで三回にかけて釜山地区特務隊をはじめとする地域警察,刑務官らが服役者と国民補導連盟員など少なくとも1500人を集団殺害した。犠牲者たちは戦争が勃発するや他の刑務所への移監などの理由で引きずられて行った後、釜山,沙下区トンメ山などの地で集団射殺され、一部は釜山,五六島近隣海に落とされて亡くなった。馬山刑務所ではほぼ同じ時期、少なくとも717人の服役者などが銃殺されたり馬山,亀山面近海に水葬された。晉州刑務所でも最小1200人の犠牲者たちが同様の方法で殺害された。これらの中で真実和解委が身元を確認した犠牲者は計576人だ。
 真実和解委は「戦時だったとは言うものの大韓民国が統治していた非戦闘地域である釜山・慶南地域で南下する人民軍に同調することを憂慮し刑務所服役者たちと民間人だった国民補導連盟員たちを不法に殺害したことは犯罪行為」と指摘した。委員会は「服役者の多数が陸軍刑事法などに違反した懲役3年以下の短期囚で死刑囚ではなかった」として「これと共に刑が確定された既決囚を処刑したことは憲法が規定した一事不再理の原則に違反したもの」と判断した。
 真実和解委はこれに伴い遺族に対する謝罪と慰霊事業支援,民間人犠牲内容の公式刊行物反映,人権教育強化などを国家に勧告した。委員会は‘刑務所犠牲事件’に対して2006年11月から職権調査を行っており大田・公州など当時の全国の刑務所に対する調査結果を今年中に発表する予定だ。

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/341788.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「琼中革命老村的美丽变迁——古老黎村看便文」

2017年06月13日 | 海南島史研究
 以下は、昨日(6月12日)の『海南日报』に掲載された記事です。
 海南島近現代史研究会は、2014年3月23日に便文村を、2016年4月28日に什寒村を訪ね、証言を聞かせてもらいました(このブログの2014年3月23日の「細水郷、元門郷、便文村、番陽鎮、万冲鎮」、2016年4月28日の「2016年春、海南島で 6」をみてください)。
 2014年3月23日の便文村での吉家元さんの証言については、『海南島近現代史研究』第4号・第5号(2016年5月発行)の88~89頁をみてくださいい。
 2016年4月28日に什寒村のすぐ近くの牙寒村の自宅で、王玉欽さん(87歳、1922年生?)は、つぎのように話してくれました。
    「日本軍が村を襲ったとき、村人たちはみんな逃げたが、家は焼かれた。日本軍は
   夕方引き揚げていったので、村に戻ったが、そのあと、日本軍が怖くて、村人は、儋州
   の三好村に逃げた。
    わたしの家族は、父母、長兄の妻とその子(女)、わたしの5人だった。わたしは11歳
   だった。長兄の玉琴と次兄の玉皇は、先に儋州に行って玉錦の軍隊に入っていた。
    日間歩き続けた。見つかるといけないので、昼は休んで、夜、歩いた。村の人ぜんぶ、
   30~40人がいっしょだった。妊娠中の人はいなかったと思うが、歩くのがやっとの子ども
   や年寄りがいた。木の葉などを食べながら歩いた。
    だれの命令でもない。いとこの兄、玉錦が儋州の根拠地にいるというので、儋州の
   ほうに行けば、‟我紅軍”がいると聞いて、みんなで行った。玉錦は紅軍の指揮官だ
   った。いとこの兄を探していきたいが、どこにいるかわからない。だれを探して聞い
   たらいいかもわからない。紅軍があっちのほうにいる、北のほうにいると聞いて、‟あ
   っち”のほうに行った。そこが儋州だった。
    儋州で、30~40人が、みんなでうろうろしてたら、声をかけてきてくれた紅軍の人
   がいて、食べ物や寝るところなど世話になった。さいしょの10日間くらい、軍の人た
   ちといっしょに食事をした。そのあと、そのひとの世話で三好村に行った。そこでコメ
   を分けてもらったり、稲刈りをいっしょにした。そのあと、落ち穂を拾って食べたりして、
   生活した。
    兄たちが、白沙から逃げてきている人たちがいる、とうわさを聞いて、三好村に探し
   に来てくれた。それで会えた。
    三好村は黎族の村だったが、わたしたちとはまったくことばが通じなくて、海南語で
   話した。半年から1年足らず、日本軍が敗けるときまで三好村に逃げていた。
    紅軍の人が三好村に来て、日本軍が降参したと教えてくれた。
    もとの村に戻ったら、だれも住んでいなかったので、草や木が茂っていた」。

                                  佐藤正人


http://hnrb.hinews.cn/html/2017-06/12/content_22_1.htm
『海南日报』2017年6月12日  文\海南日报记者 郭畅 通讯员 陈欢欢
■琼中革命老村的美丽变迁——古老黎村看便文

【相片】俯瞰便文村。 海南日报记者 陈元才 通讯员 朱德权 摄
【相片】便文村步行线路上的民族壁画。 郑潮民 摄
【相片】便文村石臼景观。 郑潮民 摄

  日前,国家民委命名717个村寨为第二批“中国少数民族特色村寨”,海南共有11个特色村寨榜上有名。而琼中黎族苗族自治县一地,就有3个村落获此美誉——红毛镇的什寒村、什运乡的便文村和番道村。

  到海南看美丽乡村,“山景”也是一个关键词。虽已是盛夏,被大山环抱的便文村,却依然透着一股沁人心脾的凉意,让人神清气爽。
  琼中黎族苗族自治县便文村,一个闻名遐迩的革命老区村,它见证了中国人民解放军琼崖纵队的成立,是红色爱国主义教育旅游基地。绕山而行,山泉流淌,水声潺潺;梦里梯田,稻穗摇曳,绿意盎然。

★坐落在鹦哥岭半山腰
 最美便文村藏于深闺
  清晨,从琼中县城出发,沿着海榆中线一路向西,会路过琼中什统黑村,在村口,木质的路标写着“琼中全域旅游国家步道系统——番文国家步道”(番道村—便文村),地图显示,最靠近鹦哥岭自然保护的村庄便是便文村。
  五彩路标,秀美梯田、织锦姑娘、凶猛山猪……沿途村庄充满小惊喜,热情邀请远方人做客。
  沿着蜿蜒小路继续前行,便抵达山高水寒、背靠鹦哥岭、面向五指山的革命老区——便文村。云卷云舒,青山葱翠,什运乡便文村坐落在鹦哥岭半山腰,海拔700米左右。
  这里山高坡陡,人烟稀少,是一块难得的热带雨林风貌“处女地”,有着丰富的动植物资源和奇特的雨林景观。穿过狭窄的村道,远道而来的行者可以看见梯田在阳光下肆意地绿着,看到道路旁的溪涧,缓缓流过的清泉,鹦哥岭脚下的琼崖纵队司令部旧址和山谷里漂亮的露营地。
  你来,便忘不了便文村秀美的梯田,沐浴在阳光下的群山,显得分外青翠。盘旋曲折的田埂,宛如一条条凌空的天梯。近几年,随着村民们改稻种桑新发展,天梯的景色也随之变幻,一半稻一半桑,绘出一幅四季多彩画卷。
  春天引水灌溉的时候,梯田犹如镶嵌在群山之间的一块块明镜,光影澹澹,同时,也是桑葚成熟的季节,饱满多汁的果实,令人垂涎欲滴;夏天时,梯田中的禾苗和桑叶滋长,绿意盈阶,油油密密。桑叶,也在为“蚕宝吐丝”孕育力量。
  到了秋天,一半是金黄色成熟稻子,一半仍是绿意盎然的排排桑树,金黄色与绿色的渐变色景致,随风舞动,仿若少女的裙摆;冬天,广袤土地上的光溜溜的根茎,是四季轮回的写照,新希望来年还将如期而至。

★红色革命热土
 琼纵根据地
  便文村位于什运乡西部,境内属山地,什运河水系贯穿村寨。辖有5个自然村,共有138户682人,村内黎族人民世代繁衍,生生不息。
  村子里,有两块显眼的景观石,上面的刻字分别介绍了便文村不同时代的“身份”。一块是“中国少数民族特色村寨”,一块是“广东省琼崖游击队独立纵队首次代表大会会址”。
  当这里是一片红色热土。便文村曾是琼崖纵队孤岛奋战的根据地,也是琼崖区中共党政军领导机关驻地。70年前,琼崖纵队首次代表大会就在村里的大榕树下召开,经过一个多月的会议商讨,中共中央军委指示,将琼崖独立纵队改称“中国人民解放军琼崖纵队”。
  “那时便文村人迹罕至,只有两条崎岖小路通往山上。”琼中党史县志办公室退休干部谢晋颀说,恰恰是险峻高山,庇佑了琼崖革命在此吹响从自卫转向反攻的号角。
  2008年,什运乡政府以便文村“琼崖游击队独立纵队根据地遗址”为依托,以国际旅游岛建设为契机,建立了“琼崖纵队首次代表大会纪念馆”,将便文村打造成了红色旅游爱国教育基地,每年七一、国庆节,大批新老党员来到这里缅怀先烈,传承革命精神。
  站在纪念馆前,放眼望去,崎岖山路,悬崖峭壁,丛林绿野,令人不禁联想革命先烈当年的艰辛不易。
  经过“天为被,地为床”的抗战史,岁月变迁,人们的生活幸福指数不断上升,从上世纪50年代的茅草房到1970年代的水泥瓦房,如今,便文村红瓦白墙的新式民居,充满黎族风情。

★黎族同胞热情好客
 黎家美食美景一路相伴
  沿村行走,菠萝蜜树硕果累累,青芒果挂在树头惹人惦念,村道两旁的黄皮已然成熟。正当你踌躇不前,不知找谁购买时,过路村民会热情地说,“想吃便摘,我们村多着哩!”
  “这里黎族同胞淳朴好客,与没有被修饰过的自然风光一样,让人难忘。”来自辽宁的游客王先生说,便文村能洗净自己内心的烦忧。
  在山里,下点小雨才是最惬意的享受。朦胧的远山,笼罩着一层轻纱,影影绰绰,在缥缈的云烟中忽远忽近,若即若离,就像是几笔淡墨,抹在蓝色的天边。
  不知是哪里传来的黎歌,悠远的歌声似乎传递着大山无比宽厚的深情。一股凉风袭面而来,湿润地打在脸颊,仿佛夹带着溪流,夹带着清泉,夹带着丝丝缕缕的缠绵,在耳边,在心际轻柔地飘浮着。
  赏过山景、梯田、漫水桥的游人,是不是想在便文留宿一晚?村中的民宿是村民自主经营的,环境卫生却不比高档酒店差。近两年,政府出资改造了4家民宿。站在民宿楼上的观景台,蓝天映衬下的群山,若隐若现。
  村中的农家乐店主和民宿主人,都是黎族同胞,炊烟袅袅,飘香的饭菜,让人食指大动。味道鲜美的鹦哥岭山溪鱼茶、能跑会飞的山野土鸡、香醇醉人的山兰米酒等特色黎族美食,待人品尝。
  便文村原生态休闲露营基地,以原生态为理念,让人们告别都市的喧哗,回到自然的怀抱。在大山的怀抱中,夜色渐浓,满天的繁星更加明亮,小小的帐篷坐落在半山腰上,让人恍如遨游在宇宙星空。
  印象中这种情景只出现在童年的世界里,那仿佛是一幅美妙的梦境。这么多的星星,这么些年不知道它们都躲藏到哪里去了,在今夜全都又入了眼中,走进心里。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

過去を知り、現在を生きる 東アジア史総論 朝鮮史をとおして考える 2

2017年06月12日 | 個人史・地域史・世界史
■東アジア史の成立・世界史の成立
(1)はじめに
   1 東アジア史の成立 アジア東部各地域住民がなんらかの関係をもちはじめた時代
       가 チベット高原東部・モンゴル高原南部
          ◇秦(紀元前221年~紀元前206年)・前漢(紀元前206年~8年)・新(8年~
             23年)・後漢(25年~220年)
                ※「東北辺疆歴史与現状系列研究工程」:高句麗・渤海が中国の地方
                 政権であったとする中華人民共和国の国家プロジェクト。
                  1997年開始。
       나 モンゴル高原 
          ◇「匈奴」(紀元前4世紀頃~紀元後5世紀)         
       다 朝鮮半島
          ◇箕子朝鮮(紀元前12世紀?~紀元前194年)
          ◇衛子朝鮮(紀元前195年~紀元前108年)
          ◇漢が朝鮮半島北部に、4郡設置(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)
          ◇高句麗(紀元前37年~668年)。楽浪地域領土化(313年)
            ・広開土王碑(414年10月28日建立)
          ◇弁韓→伽耶
          ◇馬韓→百済
          ◇辰韓→斯蘆国→新羅
            ・白村江の戦い(663年)
            ・新羅、百済・高句麗領土化(676年)
          ◇高麗(918年~1392年) 
            ・契丹、高麗に侵入(993年~1020年)
            ・元、高麗に侵入()
          ◇李氏朝鮮(1392年~1910年)
       라 日本列島:紀元前300年ころに稲作が伝わったとされる
          ◇古墳
            5世紀~6世紀の高句麗式積石塚:大室古墳群(長野県)、針塚古墳(長野県)
          ◇地名
            甲斐国巨麻郡(現在の山梨県巨摩地域)
            武蔵国多磨郡狛江郷(現在の東京都狛江市周辺)
            河内国大県郡巨麻郷
            河内国若江郡巨麻郷
            山城国相楽郡大狛郷、下狛郷
       마 ベトナム地域
          ◇紀元前111年~938年:漢から唐までの中国王朝支配期
          ◇1009年~1225年:李朝大越国
          ◇1225年~1400年:陳朝大越国
       바 チベット高原地域
          ◇吐蕃王国(7世紀初め~9世紀中ごろ)
       사 「沿海」地域
          ◇粛慎
          ◇挹婁
          ◇靺鞨
   2 世界史の成立 13世紀~16世紀
       ・「十字軍」の東方侵略(11世紀末~13世紀)
       ・モンゴル軍の西方侵略(元、オゴタイ汗国、チャガタイ汗国、イル汗国、
       キプチャク汗国)
       ・トルコ軍の西方侵略(1453年:オスマン帝国、東ローマ帝国を崩壊)
       ・コロンブス船団、大西洋横断(1492年)→掠奪・住民虐殺・領土化開始
       ・スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスの世界侵略         
(2) 13世紀~
   1 高麗:918年~1392年
       元が侵略(1231年~1257年、7回)
   2 元:1271年~1368年
   3 ベトナム地域
        李朝大越国:1009年~1225年
        陳朝大越国:1225年~1400年
        元軍の侵略との戦い(1288年、白藤江の戦いで元軍を撃退)
   4 ウルマネシア地域
        1492年:琉球王国、沖縄本島を支配
   5 日本
       鎌倉時代:1185年頃~1333年
         「元寇」(1274年、1281年) 
(3) 14世紀~
   1 李氏朝鮮:1393年~
         ・1446年、ハングル公布
   2 中国
       明:1368~1644年
   3 ベトナム
       黎朝:1428年~1527年
   4 日本
       鎌倉・室町・安土桃山   
         ・豊臣秀吉軍団の朝鮮侵略
(4)17世紀
   1 李氏朝鮮
     ・丁卯戦争(1627年):後金、李氏朝鮮を攻める。後金(明)支配。
     ・丙子戦争(1636~1637年):清、李氏朝鮮を攻め、支配。
   2 中国
       明:1368年~1644年→清(後金1616年~1636年~1912年)
   3 日本
       江戸時代:1603年~
   4 「カムチャツカ半島(チュクチ人、コリャーク人、イテリメン人……の大地と海)
       17世紀末にツアーロシア領とされる。
(5)おわりに 東アジア近現代史
    1840~1842年:アヘン戦争
    1885年:天津条約
    1887年:ベトナム、フランス領インドシナ
    1894~1895年:甲午農民戦争。日本・朝鮮・清戦争。台湾植民地化
    1904~1905年:日ロ戦争
    1910年:「韓国併合ニ関スル条約」
    1911年:辛亥革命
    1912年:中華民国、成立
    1919年:3・1運動。5・4運動
    1921年7月:中国共産党 
    1922年7月:日本共産党 
    1925年:朝鮮共産党
    1926年5月:朝鮮共産党満洲総局(→1930年解散)
    1927年5月:朝鮮共産党日本部(→1928年4月日本総局→1931年解散)
       ※在日本朝鮮労働総同盟(1925年2月22日)は日本労働組合全国協議会(1928年
       12月)に解消朝鮮共産党日本総局は解体し、朝鮮人党員は日本共産党に入党
    1930年:インドシナ共産党
    1931~1945年:日本、中国侵略
    1940年9月:日本軍、ベトナムに侵入      
    1945年3月11日:ベトナムで、バオ・ダイが日本の援助下でベトナム帝国独立宣言
    1945年8月30日:バオ・ダイ、ベトナム帝国皇帝退位
    1945年9月2日:ベトナム民主共和国
    (1951年9月8日:南ベトナムと日本の戦争賠償の2国間協定。1959年5月、賠償協定締結)
    1950~1953年:朝鮮戦争
    1951年:中華人民共和国、チベット侵攻
    1975年:ベトナム統一

※杉原剛さん(1921年10月生)の2015年5月26日の証言。
    「海兵団を卒業し舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に配属され海南島に行った。
     海南島からベトナムに4~5回行き、ベトナムから海南島にコメを運んだ。
     1945年8月に海南警備府の命令で、まだ戦争するということで、食料備蓄の
    ためにベトナムに向かった。15日は、海南島とベトナムの間を航行中だった。
     ベトナムに着いて、ベトナムの戦争―祖国解放戦争に参加した。日本軍人が
    20~30人参加した。
     わたしは、日本の戦争―天皇の戦争とベトナムの解放戦争、二つの戦争を経
    験した。ディエンビエンフーのころ、自転車で20キロの米を運んだ。
     1954年に、日本にもどった
※「治安維持法」:1925年4月22日公布、5月12日施行、1945年10月廃止
 勅令第175号「治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スル件」1925年5月8日公布、12日施行
    ◇1930年~1937年12月に治安維持法違反で起訴された在日本朝鮮人:292人(内全協員
     209人 土建労組、化学労組、出版労組、金属労組など)
    ◇日本人獄死者
      小林多喜二(1933年2月20日)
      三木清(1945年3月-1945年9月26日)
      牧口常三郎(1943年7月6日-1944年11月18日)
      「逮捕者数十万、送検された人75,681人(起訴5,162人)、警察署で虐殺された
      人95人、刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる獄死者は400人余」(治
      安維持法犠牲者国家賠償要求同盟(1968年結成)「治安維持法犠牲者に国家賠
      償法の制定を求める請願の趣旨」より)
    ◇朝鮮で
      ・1928年:斉藤実総督狙撃で2人に死刑判決
      ・1930年:5・30共産党事件で22人に死刑判決
      ・1933年:朝鮮革命党員徐元俊事件でⅠ人に死刑判決
      ・1936年:間島共産党事件で被告18人に死刑執行
      ・1937年~1938年:恵山事件で6人に死刑さ判決(739人検挙、188人起訴)
      ・1941年:治安維持法で5人に死刑判決(第1審)
      ・1942年~1943年:朝鮮語学会事件(16人起訴、内、李允宰、韓澄が獄死)

                                金靜美(김정미 キム チョンミ)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「非転向長期囚カン・ヨンジュ(강용주) 「虐殺者は反省しないのに、なぜ私を処罰するのか」」

2017年06月11日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27206.html
「The Hankyoreh」2017.04.29
■非転向長期囚カン・ヨンジュ 「虐殺者は反省しないのに、なぜ私を処罰するのか」

 28日、保安観察法違反の初裁判で主張 
 「欧米留学生スパイ団事件」と関連し国家保安法違反で収監 
 保安観察法届け出義務を守らなかったとして3回目の裁判に 
 カン氏「申告義務の強制は良心・私生活の自由を侵害する」

【写真】保安観察法違反の疑いで裁判を受けるカン・ヨンジュ氏//ハンギョレ新聞社

 「欧米留学生スパイ団事件」に巻き込まれて14年間獄中生活を強いられた後、保安観察法の届け出義務を履行しなかった疑いで裁判に開けられた非転向長期囚のカン・ヨンジュ氏(55)に対する初裁判が、28日に開かれた。カン氏は「保安観察法の届け出義務が私生活の秘密と自由を侵害する」と主張し、保安観察法に対する違憲法律審判を請求することを明らかにした。
 ソウル中央地裁刑事4単独チョ・グァングク判事の審理で同日開かれた裁判で、カン氏側は「保安観察法の届け出義務を履行しなかったのは良心による不服従行為」だと主張した。カン氏の弁護人は「再犯の恐れがあるとの理由で届け出義務を強制するのは、私生活の秘密と自由など基本権を侵害する」としたうえで、「不服従はカン氏が全人生と全人格をかけて守ってきた真剣かつ切迫した倫理的確信の結果だ。刑事処罰を通じて、良心に反する行為を強要することが妥当かどうか、検討してほしい」と裁判部に要請した。カン氏は同日、申告義務を強制し、これを履行しない場合、処罰する保安観察法該当条項に対する違憲法律審判を請求する計画だと明らかにした。検察は「カン氏に対する保安観察処分は、確定判決に基づいたもので、法に則って下されたもの」だと反論した。
 カン氏も同日、法廷での発言を通じて、「国連が、(政府が)私に転向を要求し、苛酷な処罰を下したことに対し、良心の自由と平等権を違反すると指摘したにもかかわらず、大韓民国政府はこれに従っていない」と話した。彼は「人権と民主主義が私たち国民にとって水や空気のように、保障されなければならないものだと信じている。良心と思想の自由、プライバシーの自由はその根幹であり、自由な個人の前提条件だ」と述べた。彼はまた、最近、全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が自叙伝を出版し、光州(クァンジュ)民主化運動を「光州事態」と規定したことに言及し、「虐殺者は反省していないのに、なぜそれに立ち向かった私には保安観察処分を下すのか」と問いかけた。
 カン氏は全斗換新軍部時代の1985年に安全企画部主導の「欧米留学生スパイ団事件」に巻き込まれて国家保安法違反の疑いで無期懲役を言い渡された後、転向書への署名を拒否した末、14年間の獄中生活を強いられた。カン氏は、国家保安法違反などの疑いで3年以上の刑を言い渡された人を保安観察処分対象者と規定し、届け出義務を強制する保安観察法を守らなかったとの理由で、裁判にかけられた。保安観察処分を受ければ、引っ越したり、10日以上の旅行に出る場合は、3カ月に1度その内容を警察に届け出なければならない。カン氏はこれに先立ち、同じ容疑で2度の罰金刑を言い渡された。
 市民社会では保安観察法が個人の基本権を過度に制限するという批判の声が上がっている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)では「#私がカン・ヨンジュだ」宣言を通じて保安観察法廃止を求める動きが広がっている。

ヒョン・ソウン記者
韓国語原文入力:2017-04-28 22:02
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/792685.html



http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/27162.html
「The Hankyoreh」登録 : 2017.04.25 02:20 修正 : 2017.04.25 07:18
■[寄稿]死ぬまでカン・ヨンジュ     イ・ミョンス心理企画者

【写真】28日、保安観察法違反の疑いで裁判にかけられる医師のカン・ヨンジュ氏//ハンギョレ新聞社

 カン・ヨンジュが裁判にかけられたと聞いて驚いた。保安観察法上の届出義務不履行による起訴だと聞いてさらに驚いた。1999年に出所したから、18年間も塀の外で暮らしてきたのに、まだ過去の鎖が現在を締め付けているとは、驚かざるを得ない。
 カン・ヨンジュは5・18光州(クァンジュ)民主化抗争で銃を手にした高校3年生の市民軍であり、医学部在学中に全斗煥(チョン・ドゥファン)政権によるねつ造の疑惑があった「欧米留学生スパイ団」事件で35日間も拷問を受けた後、14年間服役した良心の囚人だ。転向制度に抵抗し、獄中で合わせて300日間にわたるハンガーストライキを繰り広げ、国際アムネスティが定めた最年少の非転向長期囚となって、結局思想転向制度を撤廃させた。昨年まで光州(クァンジュ)トラウマセンター長を務め、現在はソウル市内に開業し、痛みの治療の名医として知られる家庭医学科専門医だ。そのような彼が再犯が懸念されるとの理由で、18年間も国家の監視の対象となり、言うとおりにしなかったとして今月28日に裁判にかけられるという。
 保安観察法は国家保安法違反などで3年以上の刑期を終えた人を対象とした監視法だ。2年ごとに更新されるが、法務部長官が再犯の恐れがあると判断すれば、死ぬまで国が私生活を監視できる。これまで彼に対する保安観察の更新事由はこのようなものだった。「国家保安法、保安観察法廃止を主張した」、「様々な集会に参加した」、「妻の収入に依存し、下流の生活をしている」。さらには「インターネットに詳しく、活動能力が旺盛だ」など、極めて恣意的かつ反人権的な理由だ。
 保安観察処分を受けると、3カ月ごとに本人の一挙一動を申告しなければならない。引っ越し先を知らせなければならないのはもちろん、未明に突然かかってきた警察の電話にも出なければならない。旅行に行くためには、旅行目的や期間、同行者などを事前に届け出なければならない。他の人との交流や連絡はもちろん、集会、デモ場所への出入りを禁止されることもある。家族、親族だけでなく、家主、職場の同僚、聖堂の信者、マンションの警備などにも被保安観察者に対する情報が要求され、動態を把握する。すでに刑を終えたにもかかわらず、死ぬまで受刑生活を繰り返さなければならないのだ。
 カン・ヨンジュは刑務所で14年間、転向書への捺印を拒否して闘った。拷問に耐え切れず、転向書に署名をしてから自殺した人もおり、拷問による障害を負った人も多い。そのような状況で14年間も転向せず、耐え続けるのは想像を絶する苦痛だったはずだ。ともすれば、懲罰部屋に閉じ込められ、手足が縛られた状態で犬のようにご飯を食べながら彼が守ろうとしたのは、思想や信念ではなく、人間としての尊厳と価値だったという。そして、転向制度を廃止させ遵法誓約書に署名せず、刑務所から出所する際、彼は「もう世の中に借りはない。できる限りのことはやった。社会が私に再びそのような責務を要求してはならないと思う」と話した。
 カン・ヨンジュは良心や表現の自由がいかに空気のようなものなのかを、炭鉱の中のカナリアのように私たちに気づかせてくれた。私たちはその部分でカン・ヨンジュに借りがある。監獄の中で14年間を一人で闘ったのに、再び18年もカン・ヨンジュ一人に今のような闘いを続けさせてはならない。彼が死ぬまで繰り返すかもしれない闘いだ。ともに闘って廃止させなければならない。それはまさに私たちの良心とアイデンティティを守る闘いだ。
 裁判所は、今回の事件の判決を保留し、保安観察法の違憲法律審判提請を再度行ってほしい。そのような常識的な判断が日常になることを願う気持ちが積み重なって、常識的な政権への望みに繋がると、私は信じている。カン・ヨンジュがいるべき場所は法廷ではなく、自由な日常だ。死ぬまで。

【写真】イ・ミョンス心理企画者//ハンギョレ新聞社

韓国語原文入力:2017-04-17 19:07
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/791107.html
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2017年5月27日~30日、済州島で

2017年06月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
 5月25日、大阪労働学校で4月6日から毎週木曜日に「民衆の世界史概要」おこなっていた報告の7回目を「民衆史(とくに海南島民衆史について)」と題しておこないました(このブログの5月25日の「民衆の世界史概要 7、民衆史(とくに海南島民衆史について)」をみてください)。
 その翌日(5月26日)に済州島に行き、5月30日まで滞在しました。
 5月26日夕刻、済州ハン文化ネットワークの沈揆昊さんらと話し合いました。沈揆昊さんは、「ハン文化」の「ハン」には、「ひとつの」、「韓」、「恨(ハン)」、「大きな」という4つの意味がある、と説明してくれました。 
 5月27日に、済州大学校在日済州人センターと済州ハン文化ネットワークが共同主監する国際学術大会(主題:「韓国人徴用問題を考え直す サハリン、海南島、北海道を中心に」)が済州大学校人文大学校震央賢碩館で開催されました。
 この会議では、ドキュメンタリー「長くて長い眠り(So Long Asleeep)」が上映されたあと、わたしが「海南島における日本の侵略犯罪 とくに「朝鮮報国隊」について」と題する報告を、鄭炳浩さんが「70年ぶりの帰郷と平和の踏み石」と題する報告を、鄭惠瓊さんが「サハリン強制動員歴史共有すること――サハリン、アジア太平洋戦争遺跡活用方案」と題する報告を、シム・ジェウクさんが「強制動員'名簿資料'分析を通じてみた千島列島の朝鮮人海軍軍属動員実態――資料紹介を中心に」と題する報告をし、金靜美さん、沈揆昊さん、ヤン・ヂョンピルさんが討論に参加しました。
 この日の集会についての新聞報道は、このブログの6月3日の「済州大、‘韓国人徴用問題を考え直す’学術大会」、6月4日の「済州大在日済州人センター、‘韓国人徴用’国際学術大会」、6月4日の「日帝強制占領期強制徴用を考えよう...27日学術大会」、6月5日の「韓国人徴用問題をあらためて考える」、6月6日の「済州大在日済州人センター国際学術大会、27日<韓国人徴用問題...>開催」をみてください。
 わたしの報告の内容は、このブログに2017年5月27日~31日に連載した「海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について」1~5をみてください)。

 5月28日午前、『ハンギョレ新聞』の許湖峻記者の取材をうけました(このブログの6月8日の「“海南島朝鮮村の遺骸を発掘し日本軍の犯罪を徹底的に明らかにしなければならない”」をみてください。
 この日午後、済州4·3平和公園(제주4·3평화공원。2008年3月開園)に行き、済州4·3平和記念館、済州4・3 犠牲者刻名碑、済州4・3 犠牲者位牌奉安所、済州4・3 犠牲者発掘遺骨奉安館、行方不明者標石を訪ねました。
 5月29日に、江汀村を訪ねました。このブログの4月21日の「「ベトナムピエタ」像、済州に建設される」、4月28日の「「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる」、4月29日の「韓越平和財団、韓国・済州島に「ベトナム・ピエタ像」を建立」をみてください。
 5月30日に、「4・3事件」のときに多くの人が虐殺された觀徳亭が建っている場所を訪ねました。
                                     佐藤正人
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「ソウルの慰安婦被害者追悼公園 歴史学ぶプログラム開設へ」

2017年06月09日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2017/06/01/0200000000AJP20170601001100882.HTML
「聯合ニュース」2017/06/01 10:34
■ソウルの慰安婦被害者追悼公園 歴史学ぶプログラム開設へ
【ソウル聯合ニュース】ソウル中心部の南山近くにある旧日本軍の慰安婦被害者を追悼する公園「記憶の場」で、日本の帝国主義の歴史や慰安婦の強制徴用について学ぶプログラムが運営される。ソウル市は1日、こうした文化解説プログラムを7日に開設すると発表した。参加は無料。

【写真】昨年8月29日に開かれた「記憶の場」除幕式の様子=(聯合ニュース)

 市は慰安婦問題を広く知ってもらい、被害者を追悼するため、昨年8月29日に韓国統監官邸の跡地に記憶の場を完成させた。この日の106年前に、日本が強制的に締結した韓日併合条約が公布されている。
 文化解説プログラムは、旧日本軍の慰安婦制度と日本の帝国主義の歴史、人権弾圧などを解説し、慰安婦被害女性の生きざまも伝えていく。毎週末に小中学生の家族連れ向けに体験プログラムが、毎週水曜日に青少年・成人向けの文化解説プログラムが行われる。市の公共サービス予約システム(http://yeyak.seoul.go.kr)から申し込むことができる。
 市は「慰安婦の歴史に関する現場教育は他にないため、記憶の場の文化解説プログラムな教育的な意味が大きい」と話した。 
 mgk1202@yna.co.kr


http://mainichi.jp/articles/20160830/k00/00m/030/037000c
『毎日新聞』2016年8月29日 20時07分(最終更新 8月29日 20時34分)
■韓国 追悼公園「慰安婦記憶の場」が完成、除幕式 ソウル
【ソウル大貫智子】元慰安婦を追悼する公園「慰安婦記憶の場」が29日、ソウル市中心部の南山公園内に完成し、除幕式が行われた。出席した元慰安婦らは、昨年12月の慰安婦問題に関する日韓合意反対を改めて表明。ソウルの日本大使館前の少女像移転にも応じない考えを強調した。

【写真】元慰安婦の金福童さん(左から4人目)や朴元淳ソウル市長(同3人目)らが出席して行われた元慰安婦追悼公園の除幕式=ソウル市で2016年8月29日午後1時38分、大貫智子撮影

 公園内には、元慰安婦247人の名前や証言などが刻まれた記念碑が設置された。民間団体の発案を受け、1910年に日韓併合条約が締結された旧韓国統監邸跡をソウル市が無償で提供。日韓併合条約が公布されたこの日に合わせ、除幕式が行われた。
 式典で元慰安婦の金福童(キム・ボクトン)さんは、日本政府が謝罪や賠償をしていないとして、韓国政府が設立した財団に日本政府が拠出する10億円は、受け取らない考えを改めて表明。「一人でも多く協力してほしい」と述べ、他の元慰安婦も支援を受け取らないよう呼びかけた。また、公園を造成した民間団体代表は、公園が日本大使館前の少女像の移転先と目されているとし、これに反対する考えを示した。
 式典には、朴元淳(パクウォンスン)ソウル市長や、最大野党「共に民主党」の禹相虎(ウサンホ)院内代表(日本の国会対策委員長に該当)らが出席した。



https://this.kiji.is/142907505734338045?c=39546741839462401
「共同通信」2016/8/29 17:38
■慰安婦「記憶の場」が完成
 ソウル中心部の南山
【ソウル共同】韓国・ソウル市と市民団体が29日、旧日本軍の従軍慰安婦問題を後世に伝えるために市中心部の南山公園に造成した広場「記憶の場」の完成記念式典を行い、元慰安婦を含む計約120人が出席した。朴元淳市長はあいさつで「悲しく苦しい植民地支配が繰り返されないよう、(広場を)整備した」と述べた。
 来年の大統領選で野党候補の一人としても名前が挙がる朴氏は「日本はドイツのような誠意ある謝罪と反省に立った賠償や、再発防止策を取らないだけでなく、軍国主義復活を予告する動きを見せている」と批判した。
【写真】29日、ソウル市で開かれた「記憶の場」完成記念式典に出席した朴元淳市長(左から5人目)と元慰安婦の女性ら(共同)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加