三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「木本事件」は終っていない 3

2016年11月12日 | 木本事件
「木本事件」は終っていない
     ―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――

■朝鮮人虐殺を肯定する「木本人」
 「木本人」は、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨であったらしく、朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖がらせ大問題になっていたらしく……」と述べてはいますが、当時の「木本人」が朝鮮人を虐殺した事実は述べていません。こうして「木本人」は、当時の多くの木本町民と同じく、朝鮮人虐殺を肯定しています。
 「木本人」は、当時朝鮮人が住民のために木本に来てトンネルを掘っていたことを知りながら、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨であったらしく……」と書いています。
 そして、その朝鮮人労働者を当時の木本町民が集団で殺害した事実を知りながら、
    「朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖がら
   せ大問題になっていたらしく、小さな村の木本警察などでは、手に追えなかった
   らしいです」
と述べ、朝鮮人虐殺を肯定しています。こうして「木本人」は、木本虐殺90年半後に、木本町民の朝鮮人虐殺に加担しています。
 「私は父からこの事件について話を聞いたことがあります」と言う「木本人」に、本名を名乗ること、「木本人」が証言者としている「父」の名も明らかにすることを求めます。

■「木本事件」は終っていない
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、「木本事件」の63年後に出発しました。
 「木本事件」から90年。いまなお、朝鮮人虐殺を肯定する木本町民(現、熊野市民)がいます。
 「木本人」の発言は、熊野市が30年あまりまえの1983年に発行した『熊野市史』中巻に、住民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている問題につながっています。
 木本トンネルは、木本町民らの生活を便利にするためのものでした。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、木本町民らが集団で襲撃し、ふたりを虐殺しました。在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りをしました。
 その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。
 熊野市は、いまなお、このような記述が『熊野市史』でおこなわれた原因を明らかにしようとしておらず、この記述を取消していません。
 「木本人」の「朝鮮人の捏造記事」というコメントは、『熊野市史』問題が解決されていないことを示しています。熊野市と熊野市教育委員会が、「木本事件」について事実をみずから明らかにし、その歴史的責任をとろうとし、このような犯罪がくりかえされることを阻止する活動をすすめていれば、「木本人」が、このようなコメントをすることはなかったでしょう。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立集会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで27年あまりの間、求めつづけていますが、熊野市も熊野市教育委員会も、拒否しつづけています。
 「木本人」がこのような発言をするという状況を維持しつづけてきた熊野市・熊野市教育委員会の責任は重大です。

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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