三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文昌市錦山鎮湖塘村で

2017年05月17日 | 海南島史研究
 5月3日朝10時すこし前に鑑山村の「革命烈士紀念亭」の前からパイナップルの畑の中の細い道を東に向かいました。まもなく省道203号線にでて広い道を3キロほど南に進むと湖山の市街地(文昌市錦山鎮湖山墟社)に着きました(5月3日については、このブログの2010年5月3日の「1947年5月3日」をみてください)。
 そこで出会った人に日本軍の望楼があったという近くの村に案内してもらうことができました。そこは、湖塘村でした。
 湖塘村で、10時40分ころから約2時間、韓権畴さん(1930年生)に、自宅の前の番石榴の樹の木陰で、話を聞かせてもらいました。韓権畴さんは、力強い声でつぎのように証言しました。

 “いまの湖塘村は、むかしの湖塘村から少し離れている。日本軍がいなくなってから湖山のダムが広げられ、村の一部が水没しそうになったので、移ったのだ。
  むかしの湖塘村にきた日本軍は、望楼をつくった。最初に来た日本軍の指揮官はヤマモト、つぎに来たのはスズキだった。兵隊の数ははっきり覚えていないがあまり多くはなかった。台湾人が多かった。
  兵隊が泊まったところは小学校だった。偽軍はその近くに住んでいた。監獄もその近くにあった。
  偽軍は10人あまりいた。湖塘村の人が一人いた。偽軍は、日本軍を守り日本軍の道案内などをしていた。
  日本軍は学校を新しくつくった。わたしはその日本語学校に3年ほど通った。「アカサタナ、ハマヤラワ、イモウト、オトウト、ニイサン、ネエサン、オカアサン、オジイサン」、「ヒトツ、フタツ」、「イチ、ニ、サン……」、「カッテクルゾトイサマシク……」、「トシノハジメノ……」、「ピイピイトサエズルヒバリ……」。学校に行くのはいやではなかった。
 日本語を教えたのは、はじめは台湾人だった。この先生は日本軍の通訳もしていた。その次は日本人だった。日本人の先生は「アカタノ先生」。はっきり覚えていない。その次に来た先生は朝鮮人だった。大人があの人は朝鮮人だと言っていた。
 学校の生徒は、最初は40人ほどだったがしだいにふえてきた。最初は湖塘村の子どもだけだったが、近くの村の子どもも通うようになった。生徒が多くなったので、よその村の子どもは午前中、湖塘村の子どもは午後に通うようになった。女の子どももいた。日本軍は親のところに行って子どもを学校に通わせるように命令した。
 日本軍が来るまえに湖塘村には国民党の学校があった。その学校には旗はたてられていなかった。
 日本語学校の入り口には海軍陸戦隊の旗がたてられていた”。

 このとき、韓権畴さんは、日本の旗と言わず、はっきりと海軍陸戦隊の旗と海南語で言いました。「海軍陸戦隊」というコトバを韓権畴さんは知っていました。「ヒノマル」ではなかったかと訊ねると、赤い丸から何本も線がでている旗だと言いました。
 続いて韓権畴さんは、わたしたちの質問にこたえつつ、次のように話しました。

 “もとの湖塘村には、いまは簡単には近づけない。日本軍の望楼のあった場所の近くに、偽軍の建物、治安維持会の建物、慰安所の建物があったが、いまは無くなっている。
 湖の際の道路の山側に日本軍の兵営、その右に偽軍の建物、その右に治安維持会の建物、その右に日本語学校、その右に警察所、その右に慰安所があった。湖の際の道路の湖側には、店がならんでいた。
 望楼は日本軍の兵営からすこし離れた高台につくられていた。黒い石でつくられていた。日本軍がいなくなったあと国民党の軍隊が使った。
 その場所は水没してはいないが、そこに行く道には灌木が茂っている。わたしの生まれ育った家もその近くだ。少し高いところなので、水没しないで残っているが、いまは人は住めない。
  湖塘村の近くで、日本軍は捕まえてきた人を首を切って殺した。399人殺した。
  首を切った日本兵は有名だった。殺人するまえに酒をのんでいるのを見たことがある。日本語学校のまつりの時、「キミガヨ」が歌われたが、そのときその日本兵もきていた。殺人班長といわれていた。名前は知らない。殺人班長だけが殺人したのではない。
  子どものとき日本兵と話しをしたことがある。「オハヨウゴザイマス」、「コンニチハ」、「コンバンハ」。日本軍の兵舎の前を通るときおじぎしないと殴られた。
  日本軍は、殺した人とその人たちの村の名前を記録していた。
  日本軍が敗けていなくなる前、日本軍は殺した人を弔う儀式を湖塘村の市場の近くの寺でおこなった。
  その儀式には村の人がたくさん来ていた。日本軍が敗けた年の5月か6月か7月ころだった。はっきり覚えていないが、日本軍が敗ける前だ。
  儀式のとき、僧侶が、399人の名前とその人たちの村の名前を全部ひとりづつ読みあげた。
  読んだのは海南島人の僧侶だったが、名簿をつくったのは日本軍だ。
  その名簿がいまどこにあるかは知らない。399人ということははっきり覚えている。
  その儀式のとき、大空を白い鳥がたくさん飛んできて、渦をつくってなんどもぐるぐる回った。その中心に1羽の黒い鳥がいた。白い鳥が黒い鳥を中心にして、黒い鳥のまわりをしばらくの間回って飛んでいた。儀式を見ていた人は、みんな空を見上げていた。わたしも見ていた。鳥の名はわからない。
  日本軍は399人を一度に殺したのではない。場所はこの近くの東山だ。日本軍は何度もなんども東山に人を連れて来て殺した。
  399人のなかに湖塘村の人はいなかった。
  父の仕事は農業だった。父も母も日本軍の仕事をさせられたことがある。大きな樹を切る仕事だった。わたしもしたことがある。日本軍はカネをくれなかった。
  日本軍が来る前の生活はまあまあだった。日本軍が来てからは、日本軍、国民党軍、共産党軍にコメやカネを渡さなければならなくなった。
  日本軍がいなくなってからは、すこしほっとしたが、国民党軍と共産党軍にコメやカネを渡さなければならなかった」。

 長い間そばで話をきいていた連れ合いの雲秀花さん(85歳、旧坡村の人)が、番石榴の実をもいでくれました。鶏が何羽も走り回っていました。
 韓権畴さんが子どものとき見たという白い鳥は白鷺で、黒い鳥は岩鷺(黒鷺)あるいは黑鳽だったかも知れません。http://hnrb.hinews.cn/html/2017-05/08/content_13_1.htm 
 
                                        佐藤正人
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