三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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植民地の「開発」は侵略の手段である(一) 1

2010年03月04日 | 個人史・地域史・世界史
■20年前、朴慶植編『アジア問題研究所報』4号(アジア問題研究所、1989年8月10日発行)に掲載された「植民地の「開発」は侵略の手段である――“アジア侵略の理想とエネルギイの復権”を阻止するために――」を9回に分けて連載します。


    「いわゆる「王道楽土」は、偽瞞的なものであったと烙印をおされているが、そう簡単に
   見棄てられぬものがあったのではないか。結果として「満州国」は、中国側から言う「偽国」
   におわったが、その過程には、多くの理想とエネルギイが投入されたのだから、そのすべ
   てを無益にしたくはない。当然、ある部分については復権を考えてみる必要がある」、
    「日本国民のかなりの部分が、植民地生活の体験をもっている。植民地でうまれた世代
   も成長している。彼らのそれ自体として自然な郷土喪失感が、放置され、屈辱に押し込め
   られている現状は、正常ではない」(「満州国研究の意義」、『週刊読書人』一九六三年十
   月二一日号)。

 中国東北部を侵略した日本人の「理想とエネルギイ」なるものの一部分を「復権」したいという妄言を、日本経済の高度成長が開始された時期にのべていたのは、当時「「満州国研究会」という小グループ活動」をやっていた竹内好という日本ナショナリストの一人である。
 同じ一九六三年に、竹内は、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」と放言していた(「中国問題についての私的な感想」、『世界』一九六三年六月号)。
 このとき、竹内は、日本人が、一九六〇年代に入ってから、「中国についての統一イメージ」を失っていると言い、「チャンコロ」という「中国についての統一イメージ」を日本人がもっていた時代――すなわち、日本が中国を軍事侵略していた時代をなつかしんでいた。だが、もし、日本民衆が、中国について、「チャンコロ」という「統一イメージ」を粉砕し、豊かでリアルで多様なイメージをもっていれば、中国侵略をあれほど残酷に遂行できなかったはずである。
 他民族の人びとを差別語で呼んでいた時代、日本人は、日本国内とアジアの各地で、数百万の人びとを虐殺した。竹内好は、そのことを熟知しつつ、あえて、「チャンコロ時代」というコトバを使い、侵略の時代を「なつかしい」と言った。竹内好は、こうして、一九六三年の時点で、アジア人虐殺を彼自身がなお再び行ないうる人間であることを公言したのである。
 殺された人びとは、自らが虐殺された時代をなつかしむことはない。虐殺を許容し肯定する者でなければ、いかなる意味においても、虐殺の歴史をなつかしむことはできない。

 一九三一年九月一八日の「柳条湖事件」以後の半年間に限っても、関東軍と朝鮮駐屯日本軍は、重火器、爆撃機までも使って数十万の民衆を殺傷し、翌年三月一日に偽国(植民地)「満州国」をつくりあげた。だが、この時点では、日本侵略者は、「満州国」の全域を支配しえていなかった。彼らは、植民地としようとする地域(中国東三省および「内蒙古」の一部)をあらかじめ囲いこんで「満州国」とし、そののち、「満州国」内の政治的・軍事的・経済的・文化的支配を進めた。
 日本政府は、一九三二年三月以後も、侵略軍をたえず増強し、民衆殺戮をくり返した。侵略者に対して、中国東北部の民衆は、東北義勇軍、東北人民革命軍、東北抗日連軍を中核として持久的に戦い続けた。この戦いのなかで、多くの戦士が犠牲となった。三十歳になる前にいのちを失った戦士が少なくなく、アンソジ(一九一五~三四年)、ホヮンチョンシン(一九一七~三四年)、劉福林(一九一九~三六年)、何畏(一九二二~三八年)のように、十歳代でいのちを失った人もいた。
 一九一〇年、吉林省安図県に生まれた朝鮮人金順姫は、一九三二年十一月、和竜県薬水洞で日本軍に抵抗して殺された。彼女は二二才であり、臨月をむかえていた、という。
一九一〇年、朝鮮京畿道に生まれた李紅光は、六才のとき父母につれられて吉林省に移った。一九三二年春、李紅光は赤衛隊を組織し、抗日武装闘争をおしすすめ、戦うことによって組織を強化していった。一九三三年九月一八日に東北人民革命軍第一軍独立師が創立され、李紅光は参謀長に選ばれた(師長は楊靖宇)。一九三四年十一月に東北人民革命軍第一軍が正式に建設され、李紅光は第一軍第一師の師長兼政治委員となった。第一軍第一師の部隊は、吉林省南部、朝鮮北部国境地域で戦った。一九三五年五月、李紅光は戦死した。

 金順姫や李紅光と同じく、一九一〇年に生まれた竹内好は、一九三二年八月に、「日本外務省対支文化事業部」から半額補助をもらって、「朝鮮満州見学旅行」を行なった。その後竹内は、一九四三年末に中国湖北省に日本軍兵士となって侵入し、翌四四年六月に機関銃隊の一員となり、「部落を占拠していた敵軍〔ママ〕と正面衝突した」(本人談)という(『竹内好全集』一七巻、筑摩書房、一九八二年)。ここで竹内は、自分を一員とする日本軍部隊に反撃した中国人を、自分のコトバで「敵軍」と言っている。
 日本軍は、湖北省でも吉林省でも黒竜江省でも、「エネルギイ」を「投入」して、民衆を殺傷した。湖北省に日本軍兵士の一員として侵入した竹内の「エネルギイ」もそのなかに含まれていた。竹内は一九七七年に病死したが、それまで、数十年間にわたり、中国にかかわって饒舌にあれこれと語っていた。だが、彼は、自分が中国で、日本軍兵士として一九四三年末から八・一五までの約二年間、何をやったかについては、極めてか黙であり、具体的な行動については何ひとつ明瞭に語っていない。
 竹内が中国東北部を「見学」して歩いていたころ、中国東北部の各地で、抗日武装部隊がどのような苛酷な戦いを戦っていたか、竹内は、八・一五以後に知ることができなかったのだろうか。一九六三年の時点で、竹内は何を「復権」したいと考えていたのだろうか。
 「復権」とは、失った権利を回復するということである。竹内が回復したいと願っていた権利とは、侵略という権利(あるいは、侵略の正当性)であった。侵略の「復権」を主張したあとまもなく、竹内は、次のようなことも言っている。
    「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。……大東亜戦争の侵略的
   側面はどんなに強弁しても否定できぬと思う。ただ、侵略を憎むあまり、侵略という形
   を通じてあらわされているアジア連帯感までを否定するのは、湯といっしょに赤ん坊ま
   で流してしまわないかをおそれる。それでは日本人はいつまでたっても目的喪失感を回
   復できないからだ」、
    「日露戦争は、アジアの自覚をうながした。大東亜戦争は、おなじ役割りを果たしもし
   たが、それとともに憎しみも買った」(「日本人のアジア観」、共同通信配信、一九六四
   年一月)。

 竹内は、「連帯感のゆがめられた表現」なるものに関して、具体的な形態を語っていない。竹内は、その表現形態のひとつとして、日本兵の軍事行動をも想定していたのではないだろうか。
                                           
                                        佐藤正人     
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