三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 2

2017年05月28日 | 国民国家日本の侵略犯罪
2、海南島での朝鮮人強制労働
 日本企業は、日本占領下の海南島で、日本軍と共に、資源を略奪し、住民を虐待し、朝鮮や台湾・中国大陸各地から連行した人たちを酷使し、暴行死・事故死・病死・餓死させた。日本企業の経済侵略は、日本軍の軍事侵略とむすびついていた。
 1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、資源・労働力を掠奪していた日本窒素は、1940年4月から海南島に侵入し、海南島西部の石碌鉱山の鉄鉱石略奪を開始した。
 「朝鮮報国隊」の人たちは、日本軍用飛行場建設、港湾建設、鉄道・鉄橋建設、特攻艇格納用洞窟建設などをさせられ、石碌鉱山や石原産業が経営する田独鉱山でも働かされた。
田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されている。

3、海南島に日本軍兵士としておくられた朝鮮人
  해남도로 일본군병사로서 가게 된 조선인
 1943年7月27日に、日本政府は、「勅令」第608号として、「海軍特別志願兵令」を出した。
 その第一条には、
   「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子ニシテ海軍ノ兵役ニ服スルコトヲ志願スル
   モノハ海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ銓衡ノ上之ヲ特別志願兵ニ採用シ海軍兵籍ニ編入ス」
と書かれていた。
 「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子」とは、当時国民国家日本が植民地としていた朝鮮と台湾の「男子」 であった。「海軍特別志願兵令」は、朝鮮や台湾の知事や警察署長が、16歳~21歳の朝鮮と台湾の青年を強制的に「特別志願兵」として日本海軍の兵士とする「勅令」であった。
 朝鮮で「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が1943年8月1日に施行されてから2か月後、10月に最初(第一期)の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,6か月間の「訓練」のあと、「海兵団」に入団した。
 しかし、その後、日本政府・日本軍は、長期間「訓練」する余裕がなくなり、「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」を廃止し、「訓練」ぬきで、ただちに「志願者」を「海兵団」に入団させた。
 海南島に日本海軍の兵士として入った最初の朝鮮人は、「鎮海海兵団」に入団した「海軍特別志願兵」の第1期生であった。この人たちが乗って南方に向った船は、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で沈没し、生き残った人たちは、マニラを経由してベトナムのサイゴンに行き、サイゴンから海南島に行った。
 かれらが、海南島に上陸したのは、1944年の中ごろだと思われる。
 1939年2月に海南島に奇襲上陸した日本海軍は、武力行使を集中的におこなう「Y作戦」を9回おこない、抗日反日武装部隊を制圧し抗日反日闘争の深化を阻止しようとして住民虐殺をくりかえした(「Y1作戦」:1939年2月~11月、「Y2作戦」:1940年2月~4月、「Y3作戦」:1941年2月22日~3月31日、「Y4作戦」:1941年8月9日~8月30日、「Y5作戦」:1941年11月25日~1942年1月25日、「Y6作戦」:1442年6月、「Y7作戦」:1942年11月~1943年6月、「Y8作戦」:1943年12月から1年間断続的に、「Y9作戦」:1944年12月)。
 日本海軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、6年半の占領の全期間に継続的に海南島各地で住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、略奪、人権侵害を重ねた。
 「海軍特別志願兵」の第1期生が海南島に日本海軍の兵士として上陸したのは、日本海軍が海南島で「Y8作戦」をおこなっているさなかであったと思われる。
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人と書かれている。
 ここでは、当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人であったとされている。
1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで日本政府に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、 “日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人であり、そのうち軍人は175人、軍属は110人、「其ノ他」は1335人であった”、と書かれている。
 そこでは、第15警備隊:軍人36人・軍属2人、第16警備隊:軍人21人・軍属4人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊:軍人52人・軍属5人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊:軍人22人・軍属1人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊:軍人44人、軍需部・運輸部:軍属31人、施設部:軍属5人、特務部:軍属9人、気象部:軍属1人、「朝鮮報國隊」:軍属52人・「其ノ他」606人、居留民:「其ノ他」729人とされている。
 日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人軍人・軍属は、「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」では733人、伍賀啓次郎の「帰還報告書」では285人(軍人175人・軍属110人)とされており、大きく違っている。
 海南島に朝鮮人が何人日本海軍兵士として送り込まれたのかは、はっきりしていない。
 瓊山の捕虜収容所には第15警備隊と舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の将兵が、三亜の捕虜収容所には第16警備隊と横須賀鎮守府第4特別陸戦隊と佐世保鎮守府第8特別陸戦の将兵が収容されていた。
伍賀啓次郎の「帰還報告書」の「朝鮮籍民ノ移管」と題する節には、
   「集中セザル居留民ヲ中心トシ朝鮮人民聯合会ヲ結成シ韓国独立光復軍ノ編成等ヲ
  標榜活溌ナル運動ヲ開始シ特ニ集中セル軍人軍属ニ働キカケタル為軍人軍属中一部
  ノ者ハ日本軍人軍属ト共ニ集結スルコトヲ潔シトセズ事毎ニ反抗的態度ヲ執リアリタル
  処一九四五年十月中旬第十五警備隊ノ特別志願兵十九名ハ朝鮮人民聯合会ノ策動
  ニ呼応遂ニ聯合会ヘ逃亡スルニ至レリ」(原文は「元号」使用)
と書かれている。
 海南警備府の名で1946年3月1日付けで出された「海南島地区局地処理要報(居留民関係)」には、
   「朝籍民ハ終戦前別ニ会ヲ組織セザリシモ終戦後独立ノ声ニ応ジ朝鮮人民会(後ニ
  韓国人民聯合会ト称ス)ヲ組織ス 彼等ハ台湾籍民ニ比シ其ノ数モ尠ク且其ノ大部分
  ハ開発会社ノ労務者ニシテ知識分子尠シ 彼等ノ一部ノ者ハ穏健ニシテ軽挙ヲ慎ミ帰
  還迄ハ従来通日本人ト行動ヲ共ニスルヲ穏当ナリトセルモ大部分ハ独立国家ノ国民ト
  シテノ自覚ニ生キ従来ノ従属的関係ヲ絶チ独立独歩ノ自己ノ生活ヲ営ムベシト主張シ
  遂ニ朝鮮人民会ノ大勢ヲ支配スルニ到レリ 従テ終戦直後ハ我方ニ対シ其ノ態度冷然
  タルモノアリタルガ十一月分迄ノ我方ノ配給物資モ消費シ尽シ生活ニ窮スルニ及ビ中
  国側の食料支給ノ措置ナキ儘食料問題ニ関シ我方ニ申入レスルノ余儀ナキニ到リ遂
  ニ昨年十二月一日海口人民会長等数名ハ海南海軍特務部溝口政務局長ト会談ノ際
  狙撃死ニ到ラセシメタル不祥事件ヲ惹起セリ」、
   「朝鮮籍居留民ニ対シ大体中国側ノ態度ハ台湾籍居留民ニ対スルモノト同一ナリ 又
  会社従業員ニ関シテモ各会社ニ於テ台湾籍居留民ニ準ジ取扱ヲ為セリ 鮮籍民ハ終戦
  後相当ノ人口移動ヲナシ目下海口地区ニ約一七〇名楡林三亜地区ニ二三七名集結セ
  リ」
と書かれている。
                                   佐藤正人
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