三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「済州4・3受刑被害者、70年ぶりに再審請求へ」

2017年04月18日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27099.html
「The Hankyoreh」 登録:2017.04.18 00:39 修正 : 2017.04.18 07:49
■済州4・3受刑被害者、70年ぶりに再審請求へ
 受刑者18人、19日記者会見後に再審請求書提出 
 「不法軍事裁判による人権蹂躪行為に司法判断を要求」

【写真】第69周年済州4・3追悼式が開かれた3日、済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園行方不明者の石碑前で、遺族が京仁地域刑務所で行方不明になった犠牲者に祈りを捧げている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 済州(チェジュ)4・3事件当時、法律的手順を踏まず、または形式的手続きだけで収監生活を強いられたいわゆる「4・3受刑者」たちが70年ぶりに再審を請求する。
 4・3島民連帯は17日、4・3当時軍事裁判により無念な受刑生活を経験した18人の生存者とともに19日に済州地方裁判所に「4・3受刑犠牲者不法軍事裁判再審請求」を申請すると明らかにした。
 今回の再審請求の請求人には、4・3当時全州(チョンジュ)刑務所生存者(9人)と仁川(インチョン)刑務所生存者(6人)、大邱(テグ)刑務所生存者(2人)、ソウル麻浦(マポ)刑務所生存者(1人)の計18人の生存者が参加する。島民連帯は「今回の再審請求が4・3当時に不法な軍事裁判により行われた人権蹂躪行為に対して70年ぶりに司法判断を求める歴史的事件」と話した。
 生存者は19日午前11時、済州地裁前で再審請求書提出記者会見を行った後、裁判所に申請書を提出する予定だ。
 2007年、「済州4・3事件真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法」が改正された後、申告した受刑者は計302人だ. このうち2011年1月と2014年5月の2回にわたって計245人が首相室傘下の済州4・3委員会で4・3受刑犠牲者に決定された。
 4・3島民連帯が先月28日、済州市のハニホテルで開いた「4・3歴史証言および済州4・3仁川刑務所受刑犠牲者実態調査報告会」で証言したヒョン・チャンヨン氏(86)は、容疑の内容も知らされずに連行され、懲役5年の刑に服したと語った。1948年当時16歳だった彼は「済州市老衡洞(ノヒョンドン)の自宅で寝ていたが、深夜に母親とともに警察に連行され無差別暴行にあった。そこで食事の仕度をするおばさんが『生きたいなら警察の言う通り認めなさい』と言ったのでそれに従って生き残った」とも証言した。
 済州4・3事件が起きた1948年と1949年には軍事裁判や一般裁判の形式を経て収監生活をした済州島民のうち、相当数は当時の罪名や刑量も知らなかった。一部の生存者は、裁判を受けた記憶はまったくないと証言したり、数十人が一度に裁かれたと証言している。
 2002年、済州4・3研究所が出した証言集『墓から生き返ってきた4・3受刑者』には「誰それの村が燃えるのを見た」という話をしたという理由で受刑生活を送ったが、刑務所に移送されてしばらくしてから15年刑を受けた事実を知り、7年6カ月間にわたり収監生活した後に釈放されたケースもあった。4・3当時、軍事裁判を受けた受刑者は2500人あまり、一般裁判を経た受刑者は1300人あまりに達する。

済州/ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-04-17 17:17
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/791061.html



http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/26981.html
「The Hankyoreh」 登録:2017.04.05 23:57 修正 : 2017.04.06 07:46
■[コラム]大韓民国の呪い、“アカの烙印”
【写真】69周年済州4・3犠牲者追悼式が開かれた3日、済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園内の犠牲者らの名前が刻まれた刻名碑を訪れた遺族たちが、用意した供え物を捧げている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 この文は、3日に行われた黄教安(ファン・ギョアン)大統領権限代行による69周年4・3犠牲者追悼式追悼辞への対応のために書くことを先に言っておく。「安保、経済など様々な分野で私たちが直面している危機状況を克服する最善の道は、国民的和合と統合」という話は当然の話だ。しかし「北朝鮮の無謀な挑発策動が続く中で、最近一連の事態で拡大した社会的葛藤と分裂様相も深刻だ」という部分にはむせかえった。いったい何故、10人に9人が“アカ”だと言われ、討伐軍に虐殺された犠牲者の遺族の前で、北朝鮮の挑発策動を云々したのだろうか。
 4・3当時、米軍政は「済州島メーデー」という広報映像物を製作し、全世界に向け済州島に「レッド アイランド」の烙印を捺した。米軍政の警務部(部長チョ・ビョンオク)は公式に「済州島民の90%は共産主義者」と公言した。政府も樹立後、李承晩(イ・スンマン)大統領は「(そんなアカどもは)徹底的に鎮圧しろ」と命令した。1948年5月、中山間以上の村に対する焦土化を強要する米軍防諜隊将校に、当時9連隊の情報参謀(イ・ユンラク)はこのように反問した。「はな垂れ小僧もアカだとして殺さなければならないのか?」。返事は残酷だった。「子供たちも全部洗脳された共産主義者だ」
 しかし、1948年4月済州島駐留国防警備隊9連隊のキム・イクリョル連隊長は、武装隊の規模を300人余、武器は旧式の日帝小銃27丁に拳銃3丁だとマンスフィールド済州軍政官に報告した。1年後の駐韓米軍情報参謀部情報報告は、武装隊500人余、支援勢力1千~1700人と記録した。犠牲者の80%以上が討伐軍によって死亡し、ソ連背後説や北朝鮮支援説はすべて根拠がないと結論付けた。それなら、なぜ3万人余りも殺したのだろうか。
 1999年、ソウル大医学部のファン・サンヨク教授は「医学史的側面から見た4・3」という論文を発表した。「4・3は私たち皆を抑圧し病にかかるようにしてきた韓国社会の病理を覗き見ることのできる通路だ。…アカという単語は、らい病患者という意味の“ムンドゥンイ”(ハンセン氏病患者)という言葉を想起させる。しかし、ハンセン氏病患者という話とは違い、アカには実体がない。しかし実体がないがゆえにムンドゥンイという言葉よりはるかに破壊的だった」
 済州4・3以後「アカの烙印」は老若男女誰でも思いのままに処理できる即決処分命令だった。李承晩政権はアカの烙印を利用して抜粋改憲をして、四捨五入改憲もし、チョ・ボンアムなどの政敵を処刑した。戦争中には一方的の検束された30万人余りを虐殺した。
 朴正煕政権は5・16クーデターの直後、いわゆる容共分子2万8千人あまりを検挙して集団虐殺しようとした(ユ・ウォンシク准将証言)。集団虐殺はあきらめたが、その後留学生スパイ団事件、越北者家族スパイ団事件、在日同胞留学生スパイ団事件、北に拉致された漁夫スパイ団事件などをでっち上げ、国民の息の根を締め付けた。全斗煥(チョン・ドゥファン)は5・18民衆抗争を北朝鮮の操縦による大韓民国転覆企図事件に追い込んだ。済州4・3とそっくりであった。
 軍事政権が終息してもアカの烙印は相変わらずだった。李承晩-朴正煕(パク・チョンヒ)の後継者は、地域、世代衝突に理念的分裂を煽りたて、政権を掌握して維持することに利用した。国民が選択した金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権を「従北(北朝鮮に追従する)政権」と言い、良心的知識人と労働者には「従北左派」「チャパル(左翼アカ)のレッテルを貼った。
 18代大統領選挙の時、朴槿恵(パク・クネ)候補はそれによる国民分裂の危険性をよく知っていた。彼女は「100%大韓民国」のスローガンを前面に出した。行く先々で国民統合のために渾身の力を出すと約束した。しかし、当選後に国家情報院大統領選挙介入事件、セウォル号沈没で政権が動揺し、もっとも容易なアカの烙印を持ち出した。さらにセウォル号遺族たちまでも従北に追い立てた。知識人や文化芸術家を大挙“チャパル”として弾圧したブラックリスト事件はその象徴だった。解放空間の分裂に戻ったような現在の分裂はその結果だ。
 文在寅(ムン・ジェイン)共に民主党大統領候補は、候補確定後の最初の日程で顕忠院(ヒョンチュンウォン)を訪問し、李承晩・朴正煕の墓地を順に参拝した。芳名録に書いた字句は「国民すべての大統領!」だった。文字は違うが、朴槿恵候補のスローガンと精神は同じだ。
 統合の最も大きな障害物は“アカの烙印”だ。もちろん李承晩-朴正煕追従者が、そのよく切れる刃物を捨てることは難しいだろう。だが“アカの烙印”は、彼らにとっても致命的だった。そこに安住した人権蹂躪と虐政、無能と不正腐敗のために追い出され、殺されて、罷免されて、処罰された。朴槿恵が最後でなければならない。

クァク・ビョンチャン論説委員
韓国語原文入力:2017-04-05 19:34
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/789456.html



http://japan.hani.co.kr/arti/politics/26947.html
「The Hankyoreh」 登録:2017.04.02 22:35 修正 : 2017.04.03 07:21
■[ルポ]済州、観徳亭広場は解放の広場…70年前の“その日”を再現
 70年前、3・1事件の現場である観徳亭広場は 
 4・3とセウォル号の出会いの場 
 3日、「歴史を迎える祭祀」には 
 国内外の公演チームが参加して 
 『順伊おばさん』(スニサムチョン)を再現 
 2日に開かれた「解寃相生祭祀」では 
 セウォル号犠牲者も共に解寃 
 詩の朗唱、4・3とセウォル号犠牲者を悼む 
 鎮魂の舞には切なる気持ちがあふれ

【写真】済州4・3事件69周年をむかえて2日午後、済州市観徳亭広場で済州民芸総主管で開かれた4・3文化芸術祝典で、「歴史を迎える祭祀」を公演している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 今年の4・3文化芸術公演は、4・3とセウォル号の出会いだった。公演チームは各々4・3を象徴する赤い椿の花とセウォル号犠牲者を悼む黄色いリボンを象徴する菜の花を持って現れた。済州市のかつての政治・行政・文化の中心地だった観徳亭(クァンドクチョン)広場は、4・3犠牲者とセウォル号犠牲者を悼む椿の花と黄色い菜の花が入り混じった。
 3日午後2時からは済州民芸総4・3文化芸術祝典が、同推進委員会の主管で済州市観徳亭広場で開かれた。「歴史を迎える祭祀」は4・3の悲劇を描いた小説家ヒョン・ギヨン氏の小説『順伊おばさん』(スニサムチョン)と4・3民衆抗争の絵を描いた画家カン・ヨベ氏の『椿散る』を素材に劇化した。
 観徳亭広場は1947年3月1日、警察の発砲により街頭行進を見ていた小学生など6人が亡くなり8人が負傷したいわゆる「3・1事件」が起きたところだ。この事件は、翌年の4・3事件の導火線になった。
 市民と観光客が観徳亭広場をいっぱいに埋めた中で進行されたこの日の「歴史を迎える祭祀」は、解放と帰郷、1947統一独立を戦取しよう、1948漢拏(ハルラ)山麓の百姓たち、椿散るの4パートで構成された。解放以後の夢を求めた済州島民が1947年3月1日、観徳亭広場で米軍政警察による発砲で6人が犠牲になったいわゆる「3・1事件」を経て、翌年の1948年「弾圧には抗争だ」というスローガンで起きた4・3武装蜂起、そしてその後に殺された無数の済州島民を描いた。

【写真】「済州4・3抗争69周年精神継承全国労働者大会」が2日、全国から労働者が参加した中で民主労総済州本部の主催で開かれ、平和(遺跡)紀行と労働者大会、街頭行進を行った済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 2008年から9年連続で4・3行事に参加している日本人たちにより構成された沖縄の漢拏山会40人あまりが「トラジの花」などの歌を合唱し、在日同胞3世のキム・ギカン氏の歌公演なども行われた。ソウルのポギョルダンスライブ、チェ・ナジン少年少女合唱団、済州作家会議なども舞台に立った。
 今回の文化芸術祝典を企画したチェ・サンドン芸術監督は「ヒョン・ギヨン先生の『順伊おばさん』とカン・ヨベ画伯の『椿散る』は、済州島4・3芸術の根幹をなす。その作品を後輩芸術家たちが解釈し動かない文と絵を動くようにした」として「広場がすなわち民衆だということを見せたかった。「解寃相生祭祀」(ヘウォンサンセングッ)と「歴史を迎える祭祀」を一つの場所で行うことは初めてだ。今年が70周年の事実上の始まりだ」と話した。
 これに先立って、この日午前11時には民主労総主催により済州市庁前で「済州4・3抗争69周年全国労働者大会」が開かれ、全国から労働者1千人あまりが行事場所の観徳亭広場まで街頭行進を行った。

【写真】済州4・3事件69周年をむかえ、1日済州市観徳亭広場で済州大祭祀保存会の執典で3・1事件犠牲者を含む4・3事件犠牲者およびセウォル号惨事犠牲者を慰める和解相生祭祀を行っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 2日、同じ場所で行われた行事は、4・3文化芸術祝典のハイライトであった。「戊子年に亡くなった霊魂/70年ぶりに初めてこの場に遺族がいらっしゃいました/2014年4月16日に海中で亡くなった霊魂/セウォル号も陸に上がり、木浦(モクポ)に着きました/まだ9人が閉じ込められて見つからない霊魂…」
 この日、「解寃相生祭祀」はセウォル号犠牲者を慰め、3・1事件で犠牲になったオ・ヨンス、ヤン・ムボン、キム・テジン、ソン・トギュン、パク・ジェオク、ホ・ドゥヨンの名前を呼ぶと、これを見守っていた遺族たちはハンカチを目に当てた。「解寃相生祭祀」は文化芸術と伝統的な儀式である祭祀(グッ)の形を借りて、死者と死んだ地を慰める。
 遺族を呼んで祭祀をする時は、セウォル号犠牲者の檀園高生イ・ミヌ君のお父さんイ・ジョンチョルさんも参加した。ソ・スンシル大祭祀(クングッ)保存会会長は「セウォル号事故犠牲者には子供が多い。檀園高の子供たちと4・3の時に亡くなった多くの幼い魂が、冥土の楽園である逝川花畑に行くように祈りをささげた」と話した。

【写真】済州4・3事件69周年をむかえて1日、済州市観徳亭広場で済州舞踊芸術院の主管で3・1事件犠牲者とセウォル号惨事犠牲者を慰める鎮魂の舞を熱演している//ハンギョレ新聞社

 詩人のホ・ヨンソン氏(済州4・3研究所長)が行った「老いた母親の祭文」朗読は、観徳亭広場を埋めた聴衆の心をぎゅっと締め付け、済州舞踊芸術院の鎮魂の舞「息をする記憶」もセウォル号犠牲者遺族と3・1事件で犠牲になった若い夫人たちを想起させ強い感動を抱かせた。
 済州民芸総のカン・ジョンヒョ理事長は「3・1事件は昨年のろうそく集会と同じ脈絡で起きた。4・3の始まりもまともな国を作ろうという思いから始まった。その要求が出た場所がこの観徳亭広場という場所性に注目した」と話した。

済州/ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2017-04-02 18:56
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/788982.html


http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26938.html
「The Hankyoreh」 登録:2017.03.30 22:27 修正 : 2017.03.31 06:39
■“平和の島”済州、そして“ダークツーリズム”
 済州、風と石は知っている、惨い苦難の歴史 
 太平洋戦争など日帝の痕跡から 
 済州島民が虐殺された4・3事件まで 
 島のあちこちに歴史の現場が残る 
 美しい風景に劣らない感慨 
 “平和の島”意味を探す人が増加

【写真】中日戦争、太平洋戦争当時、日本軍が中国爆撃用に使った済州特別自治道、西帰浦市大静邑サンモ里のアルトゥル飛行場跡。手前に古墳群のように並んでいるのは日本軍の飛行機格納庫跡だ。飛行場の後方に山房山と漢拏山が見える=西帰浦/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 3月12日午後、済州島(チェジュド)の西南部にある西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)サンモ里の旧アルトゥル飛行場周辺は、ジャガイモの農作業が真っ盛りだった。 この地域の農民がトラクターで畑を耕し、腰を曲げて手で農作業をしていた。畑と畑の間にまばらに咲いた黄色い菜の花と周辺の青い草が、寒い冬を振り払い背伸びをする済州の春を知らせていた。日帝が作ったバンカー陣地の上に上がると、100余万坪の広大な野原が一望できた。畑になっている平野の所々に日帝強制占領期間に建設された格納庫が見え、山房山(サンバンサン)が手に取るように近くに見えた。その後ろには壮大な漢拏山(ハルラサン)が屏風のようにアルトゥル飛行場一帯を抱いていた。その横には松岳山(ソンアクサン)が高く聳え、加波島(カパド)と韓国最南端の馬羅島(マラド)がはるか先に点々と浮かんでいた。
 松岳山とアルトゥル飛行場一帯は、済州オルレ(小道)10コース(和順金砂海岸~モスル浦)の通り道だ。“トゥル”とは済州語で“広い平野”を意味し、“アル”は“下”という意味だ。“アルトゥル”はモスル峰の下の平野に由来する。旧日本海軍が1931年に建設したアルトゥル飛行場は、1945年の終戦まで約15年間にわたり日本軍の主要軍事拠点だった。付近には朝鮮戦争時期に予備検束され211人が集団虐殺されたソアルオルム4・3遺跡もある。
 穏やかな陽気の下でオルレ愛好者が一人、または二人で歩く姿がしばしば目についた。 ソアルオルム4・3遺跡付近を歩いていたパク・レソンさん(51・京畿城南市盆唐区)はこの日、一人で済州オルレ10番コースを歩くため、日帰り済州旅行に来たと話した。
 パクさんは「済州にこのような隠れた歴史遺跡があるとは知らなかった。本で見ただけの歴史の現場を自分の目で見て感じながら歩くのがとても良い」と所感を話した。パクさんは「松岳山海岸の絶壁に全く知らなかった日本軍の戦争遺跡である人工洞窟(坑道陣地)もあった」と言って「良いカフェもあって景色もずば抜けていて、今度また来たい」と明るく笑った。

【写真】太平洋戦争当時、日本軍が使った済州特別自治道西帰浦市大静邑サンモ里の日本軍地下壕=西帰浦/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 “平和の島”済州が“ダーク ツーリズム”の現場として注目を集めている。ダークツーリズムとは、単純に楽しむ旅行ではなく、歴史的に死や苦痛、惨劇が起きた地域を旅行して真実を悟る旅行だ。ホロコーストの現場であるポーランドのアウシュビッツ収容所、カンボジアのキリングフィールド、原爆が投下された日本の広島と長崎、数十万人の中国人が日本軍に虐殺された中国の南京大虐殺記念館、原発の危険性を教えたチェルノブイリ、旧ソ連の原発付近などは代表的なダークツーリズム地域だ。
 例えばアウシュビッツが観光地になることに拒否感を感じる人もいるだろうが、おかげで多くの人々が現場学習を通じてナチの蛮行を生々しく感じて、再びこうした歴史が繰り返されないよう誓い、社会的共感を形成することができる。『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』の著者である東浩紀氏の次のような指摘はダークツーリズムの本質をよく示している。彼は「この本を貫く一貫した問題意識は、チェルノブイリの記憶、福島の記憶を未来に継承するために『忘れてはならない』と唱える以外に何ができるのかという問い」と明らかにした。本は「ある場所で生じた悲しみは、その場にいてこそ、その重さや辛さをリアルに感じることができる」とも指摘した。
 他に類を見ない美しい自然を抱いた済州の近現代史は苦痛で綴られた。中日戦争時期、日帝は済州島を中国爆撃のための基地として使い、太平洋戦争末期には日本本土を守るための最後の拠点として朝鮮人を強制動員して済州島を要塞化した。解放以後に起きた韓国現代史最大の悲劇の一つである済州4・3事件では、済州島の全人口の10%が犠牲になった。また朝鮮戦争時期には、中国軍の捕虜収容所があり、大静邑の陸軍第1訓練所で訓練を受けた延べ50万人の青年が前線に出て行った。大静邑にはまだ当時の指揮所、医務隊建物、第1訓練所の正門柱と強兵台教会、空軍士官学校の勳籍碑などが残っている。
 済州島にはこのような歴史的背景ゆえに旧日本軍の軍事施設をはじめ解放以後に起きた済州4・3事件遺跡、朝鮮戦争時期の韓国軍の軍事施設など韓国近現代史の現場を見ることができる歴史の現場があちこちにある。こうした現場はほとんど済州のずば抜けた絶景と共に見てこそ感慨を伝える。

【写真】朝鮮戦争当時、予備検束されて211人が集団虐殺された済州特別自治道西帰浦市大静邑サンモ里のソアルオルム。ソアルオルムは済州オルレ10番コースにあり、オルレを歩けば自然に4・3事件の遺跡も見ることができる=西帰浦/キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 韓国政府は2007年に済州島を「世界平和の島」に指定した。政府は「平和の島」指定の根拠として多くを挙げたが、その中でも解放以後に起きた済州4・3事件の廃虚を歩いて済州の人々の意志と和解・共生の精神を平和の概念の中に入れた。
 最近では済州4・3事件をひと目で見られる済州市奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和公園を訪れる人も増えた。10日、4・3記念館で会ったピョン・ジョンウンさん(32・女・済州市)は「済州に住んでいるのに、他の展示会を見に来て今回初めて記念館を訪ねた」として「4・3という歴史的事件に対してより深く知ることができたし、歴史と人権について考える時間になった」と話した。

 記念館の出口にある願いの木に付けられた短冊の字句も目についた。
 「教科書には4・3事件と短く書いてあるだけで、どんな事件かもよく知らないままで過ぎてしまったが、大学入試を終えてここに来て自分自身の無知が恥ずかしかった。覚えられないからと調べてみもしなかった態度を直さなければと思いました。ここに多くの人が訪ねてきて、多くのことを感じて学んだら良いと思いました」(2016年12月9日全羅南道順天(スンチョン)のある女子高生)
 「4・3事件の辛い歴史を記憶します。再びこの地にこうしたことが起きないよう切に祈ります」

 済州発展研究院のパク・チャンシク済州学研究センター長は「多くの人々に済州島は“美しい島”、“世界自然遺産の島”として知られたが、済州を訪ねる人々がダークツーリズム体験を通じて平和と人権についても考えることができればうれしい」と語った。

済州/ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-03-29 16:55
http://www.hani.co.kr/arti/culture/travel/788462.html
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