三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における日本の侵略犯罪  とくに「朝鮮報国隊」について 3

2017年05月29日 | 海南島史研究
4、海南島に連行された朝鮮人女性・台湾人女性
 2000年3月に、わたしたちは、海南島南部の保亭に行き、朝鮮人女性朴来順さん(1912年生)の墓を訪ねた。保亭県公路局が建てた墓誌には、「生於一九一二年卒於一九九五年」、「祖妣韓国僑工来順朴氏墓」と刻まれていた。朴来順さんは、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海南島北部の海口につれてこられ、海口の「慰安所」にいれられ、1943年1月に、海南島南部の三亜紅沙の「慰安所」に移された。日本敗戦後も故郷に戻らず、保亭県の公路局で働き、1995年に亡くなり、保亭郊外に埋葬された。
 2002年10月に、わたしたちは、保亭で、保亭文史資料工作委員会主任であった張応勇さん(1940年生)に、朴来順さん(1912年生)について、くわしく話しを聞かせてもらった。
張応勇さんは、
   「日本の罪悪史を調査していて、朴来順さんのことを知った。なんども訪ねて、ようや
  くすこしづつ話しを聞かせてもらうこができた。故郷に帰りたかったら、領事館を通じて
  話してあげようといったが、ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬといった」
と話した。2003年7月に、わたしたちは、張応勇さんに、朴来順さんが死ぬときまで住んでいたところ(保亭亭県公路局宿舎)にも案内してもらった。
 海南島に連行され、「慰安婦」とされられた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。わたしたちの調査と海南島で発行されている『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。
 1945年に日本海軍「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばさ荘」という名の「慰安所」に、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年)。
 2003年春に、わたしたちは、慶尚南道生まれの朴来順さんが2年7か月間入れられていた紅沙の「慰安所」跡を訪ねた。
 子どものころからその近くに住んでいた蘇殷貞さん(1931年生)は、
   「建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。一般人はそこに入るこ
  ともできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカートだった。(チマ・チョ
  ゴリの絵を書いて見てもらうと)。これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が
  長かった。日本人は髪が短い。“アリラン”は聞いたことがある」
と、話した。蘇洪槙さんは、朴来順さんを見かけたことがあったかもしれない。
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死した。おなじ「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さん(1926年生)は、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を1999年にはじめた。
 2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、
   「看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、紅沙の「慰安
  所」に入れられた。そこには30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮
  人女性や日本人女性もいた」
と証言した。
 わたしたちは、2004年2月に、朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安を訪問した。朴来順さんの家のあった場所は空き地になっていた。
 盧満妹さんは2011年8月に亡くなった。
                                    佐藤正人
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