三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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文昌市東閣鎮竹根村(竹君村)で 1

2017年05月13日 | 海南島史研究
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている『海南警残務処理報告綴(別冊)』にふくまれている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」という文書の「冨田堯人」(「所轄 十五警」、「配置 王橋嶺・白鷺砲台・東坡・文昌中隊長」、「官職 大尉」、「被抑留年月日 1946年3月13日(原文「元号」使用)」、「本籍地 山口県豊浦郡……」)の項目の「被抑留者ノ理由(中国側)及所轄長所見並ニ處置」の欄につぎのように書かれています。

  「文昌、東坡、王橋嶺ノ敵指揮官タリシ時抱芳郷竹根村人民十数人ヲ屠殺シ家屋ヲ燬焼ス(中国側理由)
   一、1942年(1941年?)還島道路竹根村(文昌北方二粁)ニテ共匪ノ軍車襲撃あり、アト
    竹根村ニ対シ報復攻撃シタル際ノ文昌中隊長」(原文「元号」使用)
   二、几帳面ニシテ緻密ナルモ稍クドイ感アリ物に執着強シトノ噂アリ軍属等ノ誤解ヲ招キタ
    ルヤモ知レズ」
と書かれています。

 ことし、5月6日に、冨田堯人が指揮する日本海軍の部隊が襲撃したと書かれている「抱芳郷竹根村」を訪ねました。
 「抱芳郷」という名の地域も「抱芳鎮」という名の地域もいまはなく、竹根村は東閣鎮にありました。
  竹根村は、竹根東村と竹根西村にわかれており、竹根東村の入り口には、「竹君東村」と刻まれた石碑が、村中には2011年に建てられた「竹君東村」と書かれた碑がたてられていました。「竹君東村」と刻まれた石碑のすぐそばの家の住所板には「東閣鎮李山村委会竹根村三隊」と書かれていました。「竹」と「君」の海南語の発音は同じです。
 竹根西村には高齢の人はいませんでした。竹根東村で、林志芳さん(85歳)と陳詒成さん(1936年生)に話しを聞かせてもらうことができました。

 冨田堯人前文昌中隊長は、1947年7月26日に広東で処刑されました(今井豊平『嗚呼天哉命哉』〈1978年。海南海軍警察隊戦友会発行。91、108頁〉など)。
 1945年8月の日本敗戦後、戦犯容疑者として逮捕された日本軍司令官・参謀はごく少数でした。
 海南島では、日本軍の司令官・参謀は1人も戦犯として逮捕されなかった。日本敗戦時に海南警備府の司令長官であった伍賀啓次郎中将も参謀たちも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊や舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊などの特別陸戦隊の司令官も、すべて帰国しました。
 海南島から日本への帰国直前に、約100人が戦犯容疑者として中華民国軍によって逮捕され広東に送られました。海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったん逮捕されたが数日後に釈放され帰国しました。
 海南島で逮捕され広東で処刑されたのは7人で、6人は日本人(兼石績、富田堯人、望月為吉、前田三郎、鮫島宗義、中村三郎)、1人は台湾人の姜延壽さんでした。中村三郎は、軍人ではなかったが海南島でアヘンを生産・販売していた厚生公司の支配人であったとして1947年4月21日に広東で死刑を執行されました。日本海軍巡査補として海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属させられていた姜延壽さんは、1947年8月4日に広東で処刑されました。 
 このブログの2007年2月8日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 1」、2007年6月8日の「元日本海軍海南警備府海軍巡査の証言」、2010年5月5日の「「旧海軍戦犯」 2」、2011年9月5日の「海南島文昌市東閣鎮 1」、2012年2月1日の「「広東裁判」・「香港裁判」 6」、2012年2月19日の「「広東裁判」・「香港裁判」 19」、2016年9月6日の「海南島における日本の侵略犯罪と「戦犯裁判」 3」などをみてください。
                                    佐藤正人
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