三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島 2009年6月 3

2009年06月23日 | 海南島
■旧州で 2
 王瓊梅さんは、自宅の前で、つぎのように話しました。
   「この村には日本軍の基地はなかった。旧州から日本兵が来ると、村人はみんな道美嶺に逃げた。日本兵は山の中までは追ってこなかった。
    人がいなくなった村で、日本兵は豚やにわとりを盗んだ。
    盗んだ豚を日本兵はすぐに村の中で焼いて食べたこともあった。そのとき内臓などは残してあった。
    旧州の日本軍の望楼工事をやらされたことがある。望楼の地下には防空洞があった。
    日本軍は、あちこちの民家を壊し、そのレンガや木材を材料にして望楼をつくった。
    日本軍の仕事をしても金はくれなかった。食べ物も水も自分の家からもっていって働いた。
    近くの川辺で、日本兵が人を殺すのをむりやり見せられたことがある。日本兵が男の人を3人縄でつないてつれてきて、背中から銃剣で突き刺した。銃剣の先が腹から飛び出した。死体は河に流した。日本兵はその人たちが働かなかったからだと説明した」。

 王瓊梅さんと別れて旧州に向かう道の途中に、3人が殺された川辺の近くを通りました。そこには灌漑用水ダムが作られてありました。
 旧州の市街地の自宅で、呉徳礼さんに話を聞かせてもらいました。97歳でしたが、杖を突きながらも力づよく歩き口調もしっかりしていました。呉徳礼さんは、望楼で日本軍の食事をつくる仕事を2年近くしたそうです。炊事や焚き木集めをしたほか、日本兵といっしょに市場に食材の買出しに行ったこともあったそうです。
 「市場で日本兵は軍票で支払ったが、わずかな額だった。なにをされるかわからないので、市場の人たちは、日本兵のいいなりになって品物を渡さないわけにはいかなかった。それを見るのはつらかった。わたしの給料も軍票だった」と、呉徳礼さんは話しました。

 呉徳礼さんの家を出て、呉徳礼さんが働かされていた旧日本軍の望楼跡を探しました。
 そこは、バナナ畑になっていました。
 旧州人民政府から旧日本軍の望楼跡の土地を借りて整地してバナナ畑にしているのは、湖南省から来た一家でした。
 整地していると、近所の住民から、爆弾が埋まっているかもしれないからあまり深く掘らないでくれと言われたそうです。
 整地中に地下壕があるのがわかったそうです。長い銅線も見つかり、売ったら100元近くになったそうです。
 バナナ畑のすこし小高くなっているところに、古いレンガがいくつもころがっていました。

 この望楼跡から300メートルほど離れたところに、昨年10月にわたしたちが訪ねた旧日本軍の望楼跡があります。
 旧州には日本軍の望楼がふたつあったようです。
                                      佐藤正人
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