三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「台湾少年工の歩み、本に 台北で関連した特別展も」

2017年04月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201704080006.aspx
「フォーカス台湾」 2017/04/08 17:00
■台湾少年工の歩み、本に 台北で関連した特別展も
(台北 8日 中央社)戦時中に神奈川県の高座海軍工廠で訓練を受け、日本各地で戦闘機の製造と整備に従事した台湾少年工。この歴史をしっかりと台湾の若い世代に引き継いでもらおうと、南部・台南出身で早稲田大学などへの留学経験を持つ林景淵氏が先月初め、関係者の証言などをまとめた本「望郷三千里:台湾少年工奮闘史」を出版した。
 「台湾高座台日交流協会」の李雪峰理事長によると、第2次世界大戦中の1943年以降、日本に渡り戦闘機「雷電」の製造などに携わった台湾の少年たちは8400人以上に上るという。本書には、一部の元少年工の証言、海軍工廠での生活を記録した古写真のほかに、少年工が登場する日本の文学作品やエッセイの中国語訳なども収録されている。
 本の出版に合わせ、台北市内の書店・レストラン「飛頁書餐庁」では、先月下旬から少年工に関連した写真や文物の特別展示が行われている。今月25日まで。


http://japan.cna.com.tw/search/201311210007.aspx?q=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%B7%A5
「フォーカス台湾」 2013-11-21 18:13
■日本で戦闘機造りに従事した台湾少年工、彰化で最後の同窓会
(台北 21日 中央社)日本統治時代に神奈川県高座など日本各地の海軍工場で少年工として働いていた「台湾高座会」彰化分会のメンバーが集まって20日、“最後の同窓会”を開き、同会の活動に終止符が打たれることになった。自由時報が21日付で伝えている。
 太平洋戦争末期の1943年、8000人余りの台湾の少年が日本の“内地”に渡り、各地で戦闘機の生産に従事した。今年はこの台湾少年工の派遣からちょうど70年目にあたるが、これまで日本でも交流会や記念大会などを開いてきた元少年工の同窓組織、「台湾高座会」はメンバーの高齢化が進んでいるが、20日、台湾中部・彰化県出身の23人が集まり“最後の同窓会”が開かれた。
 戦争末期に海軍工場で少年工として戦闘機「雷電」を造っていた蔡天開さんは当時まだ14歳。台湾の家族のもとを離れたが、日本の冬は思いもよらぬ厳しい寒さだった。少年らはいつもひもじい思いをし、また空襲に遭って危うく死にそうになったこともあるという。
 1945年、終戦を迎え、台湾の少年工たちは6艘の船に分乗して台湾に戻った。戦後の台湾でも互いに連絡を取り合い、戒厳令解除の翌年1988年に「台湾高座会」を結成した。当時の会員数は3000人。しかし、その後会員の高齢化が進んで93年には1400人、現在は250人にまで減った。会設立当時1000人以上いた彰化県の出身者も2001年には150人余り、今年は僅か33人となった。
 今回で最後となった高座会彰化分会の“同窓会”では、メンバーらが台湾語や流暢な日本語で互いに声をかけ合い別れを告げた。



http://japan.cna.com.tw/search/201305050006.aspx?q=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%B0%91%E5%B9%B4%E5%B7%A5
「フォーカス台湾」 2013-05-05 18:00
■戦中の台湾少年工、最後の同窓会に想い語る=中国時報
(台北 5日 中央社)日本統治時代に神奈川県の高座海軍工場で働いた台湾の元少年工らの同窓組織「台湾高座台日交流協会」の幹部らが、今月9日に神奈川で開く記念大会を前に、“最後の同窓会”への想いを語っている。台湾紙「中国時報」が5日付けで報じた。
 第二次世界大戦末期の1943年、8000人余りの台湾の少年が日本に渡り、高座で訓練を受け各地で戦闘機の生産に従事した。今年はちょうど少年工が派遣されてから70年目にあたり、協会は「3回目にしておそらく最後」という同窓会を神奈川県座間市で開催する。
 今年春の叙勲で、台日民間交流に貢献したとして旭日小綬章を受章した同協会の李雪峰理事長は中国時報の取材に対し、「みな若くして故郷を離れ、夢を抱いて日本で汗を流した」と振り返り、少年工の特別な友情を力説。結社が禁じられていた戦後の台湾でも互いに連絡を取り合い、戒厳令が解除された翌年の1988年には正式に高座会を立ち上げた。
 以来メンバーたちは毎年、想い出の地である日本へ行き、日本の文化団体などとも交流、派遣50年目の1993年からは「10年ごとの約束」として日本での記念大会を開いてきた。だが、元少年工も高齢となり、設立当初は3000人を超えた会員数も今では1000人以下に。大会出席者も、1993年には1400人を数えたが、2003年の60周年大会では600人にまで減り、今回は250人ほどになってしまった。
 協会の訪日活動は毎回、「這ってでも行きたい」というメンバーと反対する家族とのトラブル続きで、ようやく家族を説得したのに無理がたたり亡くなってしまった人もあれば、糖尿病で義足となったメンバーが訪日を強硬しようとして家庭崩壊寸前に陥ったこともあるという。会とは長い付き合いで、今大会で講演を予定していた李登輝元総統も、健康を考慮し出席を取りやめた。
 「10年後にまた日本で会おう!」という合言葉も叫びにくくなり、「これが最後」との想いを込めて今大会の準備してきたと、秘書長の謝清松さんは感慨深げだ。2人の元“少年”工はそれでも、笑顔で最後にこう語っている。「みなもう遠くに行くのは難しくなり、解散は仕方がない。でも“また会おう”と言いたい」。
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