三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における日本の侵略犯罪と「戦犯裁判」 9

2016年09月14日 | 海南島史研究
■海南島における日本の侵略犯罪と「戦犯裁判」 9

★互助郷の住民を虐殺した佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属していた2人の処刑 (4)
 かって日本海軍海南警備府佐世保鎮守府があり、現在日本海軍 (海上自衛隊)佐世保基地とUSA海軍第7艦隊佐世保基地がある佐世保市内に「海軍墓地」がある。
 そのなかに、1973年9月に建てられた佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の「海南島忠魂碑」があり、その左脇に、1983年9月に建てられた「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」があり、右脇に「佐八特は上陸作戦を共にした各鎭の陸戦隊と協同作戦を行い敵主力を島の中央部五指山方面に制圧した後佐世保鎭守府第八特別陸戦隊本部を嘉積におき極めて治安の悪い地域の警備につき終戦時の森本司令に至るまで約6年有余炎熱と険しい「ジャングル」をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に多数の尊い戦没者を出すに至った……。ここに海南島忠魂碑と佐世保鎭守府第八特別陸戦隊慰霊名碑を併設し永遠に武勲を讃えその御霊を慰めるものなり」という「碑文」が書かれた石がある。
 「佐世保鎭守府第八特別陸戦隊慰霊名碑」には、日本人231人と台湾人55人の氏名が書かれている。このなかに、「広東裁判」で死刑を宣告され処刑された佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の2人の日本人の名(前田三郎、鮫島宗義)がふくまれている。
 鮫島宗義は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の海軍兵士ではなく、海軍巡査部長であった。鮫島宗義は、1946年10月7日に「広東裁判」で起訴され、1947年2月13日に死刑を宣告され、5月10日に銃殺された。海南島から連行された日本人にたいするはじめての死刑執行だった。鮫島宗義は、鹿児島県川辺郡知覧町の出身で、台湾新竹県から海南島に行っていた。

 1945 年 農暦3月1日(普通暦4月12日) に、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊( 中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊) が、楽会県互助郷(現、瓊海市中原鎮)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村の9か村を襲撃した。このとき、日本軍は、子どもや高齢者を除くおおくの村人を中原の燕嶺坡に集めて殺害した。
 1947 年農暦3月に、燕嶺坡の虐殺現場に「“ 三・一” 被難公塚」が建てられた。その前の墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれている(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月〉14頁を見てください)。燕嶺坡から10キロあまり西に行くと陽江に着く。
 毎年農暦3月1日に、そこにおおくの村人が集まって追悼集会をおこなっている(2008年の追悼集会については、佐藤正人「2008年農暦3月1日」、海南島近現代史研究会『会報』第2号、49~50頁を見てください)。
 幸存者のひとりである曹靖さんは、ご自分の体験をもとに、おおくの村人の証言を聞き記録し、2000年4月に『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』をだした。2005年8月にその修訂版をだしたあと、曹靖さんは、さらに細部を厳密に書いて2008年5月に新版をだした(『海南島近現代史研究』第2号・第3号に掲載した曹靖『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史(新版)』の抄訳〈鐘翠雅・佐藤正人訳〉をみてください)。
 わたしたちが、はじめて曹靖さんから直接話を聞かせてもらったのは、2007年10月19日だった。曹靖さんは、『海南島近現代史研究』創刊号(2008年8月)に、「熱烈祝賀日本《海南島近現代史研究会》成立」を寄せてくれた。
 わたしたちは、曹靖さんになんども話を聞かせてもらった。
 2011年10月31日に、“三・一”被難公塚で、曹靖さんは、こう語った(このブログの2011年12月21日の「海南島瓊海市中原鎮で 2」をみてください)。
   「日本軍はここに村人を連れてきて殺した。あらかじめ掘っておいた穴に遺体を捨
   てた。
    遺体は、村民に埋めさせた。生きている人もいた。深く埋めないでくれというのを、
   軍人が監視しているから、そうできなかった。
    長仙村では共産党組織が活動していた。坡村では、国民党組織が活動していた。
    長仙村を襲撃したあと、日本軍は、坡村も襲撃した。日本軍の通訳をしていた人が、
   陽江の部隊から機関銃やら武器を盗んで、坡村に逃げ込んだ。それで、日本軍が坡
   村を襲撃した。坡村に逃げ込んだ人は台湾人だったかもしれない。日本の敗戦が近
   づいていたので、日本軍にいるとよくないと考えたのかもしれない。
    日本軍の駐屯地は、中原、陽江、橋園。
    日本兵の人数は陽江がいちばん多かった。あのときは、中原の部隊が指揮して襲
   撃したが、陽江、橋園の部隊も合流した。陽江、橋園の部隊は村から逃げた人を山
   の方に包囲して、子どもも老人も殺した」。

 鮫島宗義の「起訴理由概要」は、「楽会県互助郷坡村において民衆を集団虐殺せり」というものであった。
                                 佐藤正人
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