三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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過去を知り、現在を生きる 東アジア史総論 朝鮮史をとおして考える 3

2017年06月15日 | 個人史・地域史・世界史
■世界戦争としての朝鮮戦争
(1)はじめに
    67年前、1950年5月25日に開始された朝鮮戦争は、1953年7月27日に休戦した。
    朝鮮戦争は朝鮮民主主義人民共和国軍の南下によって開始された。朝鮮戦争の3年
   1か月の間に、おおくの民衆の命がうしなわれた。
    金日成が共和国軍を南下させなければ、朝鮮戦争は開始されず、おおくの民衆の命
   が失われることも、家が焼かれ、朝鮮の大地が焼土となることもなかっただろう。
    朝鮮戦争を金日成らは「祖国解放戦争」と規定していた。いまなお共和国の官僚らはこ
   の規定を取消していない。
    第二次世界戦争後、フランス、イギリス、オランダ、ポルトガル、ベルギー、日本……の
   植民地とされていた地域の国家が独立した。
    第二次世界戦争後の戦争の一部を以下に示すが、それは、独立戦争、侵略戦争、内戦
  (市民戦争)、代理戦争であった。朝鮮戦争は、独立戦争でも解放戦争でもなかった。


◇インドネシア独立戦争:1945年8月17日~1949年12月27日
◇ギリシャ戦争:1946年3月30日~1949年10月16日
◇第一次ベトナム戦争:1946年12月19日~1954年8月1日
    ディエンビエンフーの戦い:1954年3月13日~5月7日
◇第一次インド・パキスタン戦争:1947年10月21日~1948年12月31日(停戦)
◇シオニスト、パレスティナ侵略戦争(第一次中東戦争):
   1948年5月15日(ナクバ)~1949年3月10日
◇中国人民解放軍、チベットに侵入:1950年10月7日~1951年(占領)
◇朝鮮戦争:1950年6月25日~1953年7月27日(休戦)
        国連軍(22か国)
        韓国軍・国民防衛軍
        人民軍・中共軍・ソ連軍
◇ケニア独立戦争:1952年~1963年12月12日(ケニア共和国独立)
◇アルジェリア独立戦争:1954年11月1日~1962年7月5日(アルジェリア民主人民共和国独立)
◇第一次スーダン内戦:1955年8月18日~1972年3月27日。16年7か月
◇第二次ベトナム戦争:1955年11月~1975年4月30日
◇ソ連軍、ハンガリーに侵入:1956年10月23日~11月10日(1989年)
   のちに、10月23日はハンガリー人民共和国の祝日に
◇第二次中東戦争(スエズ戦争):1956年10月29日~1957年3月(エジプト、スエズ運河国有化)
◇アンゴラ独立戦争:1961年2月4日~1974年4月25日(停戦)。
   1975年11月11日(アンゴラ共和国独立)
◇エリトリア独立戦争:1961年9月1日~1991年5月29日
◇ジンバブエ独立戦争(「ローデシア紛争」):1965年11月11日~1979年12月29日。
   1980年4月18日、ローデシア、ジンバブエとしてイギリスから独立
◇第二次インド・パキスタン戦争:1965年8月~9月23日
◇第三次中東戦争:1967年6月5日~6月10日
◇ビアフラ戦争(ナイジェリア内戦):1967年7月6日~1970年1月15日(ビアフラ共和国崩壊)
   2年半に、飢餓、病気、虐殺により150万人を超えるビアフラのイボ族が死亡
◇第三次インド・パキスタン戦争:1971年12月3日~12月16日
   1971年12月16日、東パキスタン、バングラデシュとして独立
   1972年7月2日、パキスタン、バングラデシュ独立承認
◇第四次中東戦争:1973年10月6日~10月24日
◇西サハラ戦争:1975年~1991年(停戦)。
   ポリサリオ戦線、サハラ・アラブ民主共和国結成:1976年2月27日。
◇モザンビーク内戦:1977年5月30日~1992年10月4日(停戦)
◇中国人民解放軍、ベトナム北部に侵入・撤退:1979年2月17日~3月16日
◇ソ連・アフガン戦争:1979年12月24日~1989年2月15日
◇イラン・イラク戦争:1980年9月22日~1988年8月20日
◇マルビナス戦争(「フォークランド戦争」):1982年3月19日~6月14日
◇第二次スーダン内戦:1983年4月23日~2005年1月9日(スーダン政府・スーダン人民解放軍〈SPLA〉、南北包括和平合意〈CPA〉調印)
   2011年1月:南部スーダン独立住民投票実施
   2011年7月9日:南スーダン共和国独立
◇ナゴルノカラバフ戦争:1988年2月20日~1994年5月12日(停戦)。
   ナゴルノカラバフ共和国(アルツァフ共和国)独立宣言:1991年9月2日
◇湾岸戦争(第一次イラク戦争):1991年1月17日~2月28日
◇第一次チェチェン戦争:1994年12月11日~1996年8月31日(休戦)。
   1997年、ロシア軍完全撤退
◇第二次チェチェン戦争:1999年8月26日~2009年4月15日(戦闘は2000年5月に終了)
◇アメリカ合州国、アフガニスタン侵略戦争:2001年10月7日~2014年12月28日~
   国際治安支援部隊(International Security Assistance Force):2001年12月20日の国連安保理決議1386号により設立。
◇ダルフール戦争:2003年2月26日~
◇アメリカ合州国、イラク侵略戦争(第一次イラク戦争):2003年3月20日~2011年12月15日~
◇シリア戦争:2011年3月15日~

(2)朝鮮戦争にいたるまで
    ※1945年8月14日、日本、ポツダム宣言受諾。
    ※朝鮮の38度線以北をソ連軍、以南を連合軍、日本軍の武装解除
    ※1945年12月27日、モスクワ宣言で、朝鮮の5年間信託統治、公表
  1945年8月~
  1 南朝鮮で
      ◇1945年9月8日:米軍、38度線以南に軍政を布くと発表(「布告第1号」)
      ◇共産党系、信託統治支持。民族派は、信託統治、反対。
      ◇1946年10月:大邱10月抗争
      ◇1948年4月3日~:済州4・3烽起
      ◇1948年8月15日:大韓民国、樹立
      ◇1948年10月19日~:韓国軍の麗水・順天烽起
      ◇パルチザンのたたかい(智異山、白峨山、白雲山、徳裕山……)
       (参照 李泰『南部軍 知られざる朝鮮戦争』平凡社、1991年。原著は1988年刊)
       ※1963年 12月 11日、鄭順徳さん(~2004年4月1日)、李ホンフィさんが智異山で
       「発見」され、鄭順徳さんは銃傷を負って逮捕、李ホンフィさんは射殺された。
  2 北朝鮮で
       ◇1945年9月上旬 金日成、ソ連軍とともに北部朝鮮に帰国
       ◇信託統治、支持。
       ◇1948年9月9日 朝鮮民主主義人民共和国、樹立
  3 日本で
      
(3)1950年6月25日、共和国軍が38度線を南下
    ※金日成政権の歴史の偽造
     ◇「売国奴李承晩一味が引き起こした内乱に反対してわれわれが進めている戦争は、
      祖国の統一と独立、自由と民主主義のための正義の戦争であります」(『金日成著作
      選集』第1巻、外国文出版社、平壌、1970年、280頁)   
     ◇「一九五九年六月二五日、アメリカ帝国主義と李承晩一味はついに朝鮮民主主義
     人民共和国にたいし侵略戦争を起こした」(金漢吉『現代朝鮮史』外国文出版社、
     平壌、1979年、285頁)
     
    参考:「開戦時における南北朝鮮軍の戦力の比較」(『朝鮮戦争』1、陸戦史研究普及会
      編、原書房、1966年)
       戦力
         朝鮮民主主義人民共和国:陸軍 135438人(うち、戦闘員98000人)
         韓国:陸軍 98000人(うち 戦闘員65000人)
       装備・補給
         朝鮮民主主義人民共和国:47~50年のソ連製、補給品十分
         韓国:米国の第2次大戦の中古と日本の小銃、補給品1~2日分

 1 韓国で

     李西根さん(1923年1月生)の証言2(014年3月2日、ソウルで)。    
       「6・25のとき、済州島にいた。海兵隊には士官学校がなかったから、海兵隊から
     の委託生として陸軍士官学校に入り、1950年1月14日に卒業。少尉になって、済州島
     に駐屯していた海兵隊に行き、原隊復帰。じぶんは少尉、小隊長になって海兵隊司令
     部に残り、作戦室で作戦監の任務。そのわたしが6月25日のことを知らなかったのだ。
     韓国側が先に北を攻撃したという人もいるが、それはありえない。
      仁川上陸作戦の時、作戦監として参加。12日に済州で船に乗って釜山に来た。新しい
     制服が用意されていて、左ポケットには、海兵隊と書かれていた。どこに行くのかも何
     をするのかも説明がなかった。14日に艦内で、みな集まれ、仁川上陸作戦に参加する
     と言われた。
      第1大隊第1中隊第1小隊小隊長。戦区は中央庁だったが、26日夜、米軍海兵隊が攻
     撃して西大門刑務所裏のほうに入ることになっていたが、襲撃を受けて打撃を受け裏
     山に陣地を張り、動けなかった」。

     丁炳碩さん(1936年12月生)の証言」(2010年12月4~5日)。
      「(朝鮮戦争時住んでいた江原道麟蹄郡麟蹄面院岱里の家の)隣の家は、38度線の
     北側だった。
      石橋のむこうは、北韓。オモニの実家は、1000メートルくらい離れた北側にあった。
     農業をしていて、外祖父母、叔父さん。こっちの石橋向こうは、南側。
      7歳のとき、アボヂが日本に連れていかれた。一年生のときだった。学校では、朝鮮
     語を使えなかった。学校では日本語だけ、家ではもちろん朝鮮語だ。
      朝鮮は解放されたが、38度線で南北に分けられた。わたしの家の中を38度線が通っ
     ていた。畑は北にあった。それから3年半後に朝鮮戦争がはじまった。わたしが13歳
     の時だった。オモニ、弟たち、妹たちは、家から8キロほど離れた山の中に避難した。
     わたしは南西に60キロほどの洪川に行った。アボヂも洪川にきた。いっしょに松の木
     で薪をつくって売って生活した。
      1951年のはじめころ、洪川で、韓国軍にスカウトされた。14歳になったばかりだ
     ったが、地理にくわしかったからだ。入ったのは、韓国軍第3師団第3大隊11中隊8ミ
     リ砲部隊だった。わたしは、部隊の案内をした。銃は使ったことはなかった。まだ14
     歳だったから。
      1953年7月、休戦になったときには、江陵にいた。帰郷証明書をもって故郷に戻
     った」。

  2 日本で
     가 在日朝鮮人の志願兵
         1950年 7月5日:民団、在日本韓国学生同盟(韓学同)、朝鮮建国促進青
        年同盟(建青)ら在日本韓国民族総決起民衆大会で、義勇軍募集決定
         642人、135人が戦死あるいは消息不明、242人が日本への再入国を拒否さ
        れる。
        (参照 金賛汀『在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史』岩波書店、2007年)
     나 朝鮮戦争反対行動
         ・1951年12月1日:「東成警察署襲撃事件」
         ・1951年12月16日:「親子爆弾事件」
         ・1952年5月1日:血のメーデー
         ・1952年5月25日〜26日:「高田事件」
         ・1952年5月30日:「大梶南事件」
         ・1952年6月24日〜25日:「吹田事件」
         ・1952年6月24日:「枚方事件」
         ・1952年7月7日:「大須事件」
                  ・1952年7月2:日:「破壊活動防止法」施行
            参考:朝鮮戦争にたいする日本共産党の立場
                「在日朝鮮人運動について」日共臨時指導部発指令第
               415号、1950年9月3日
                「武器の生産と輸送を阻止するための在日朝鮮人の闘争
               は、日本から帝国主義勢力を一掃し、その傀儡国内反動
               共を打倒粉砕する闘争と一致している。この点を充分認
               識して祖国の防衛に奮起した在日朝鮮人の大きな動きと、
               青年行動隊の勇敢な行動性を党が指導運用するようにしな
               ければならない」、「党民族対策部全国会議の決定、即ち
               「臨時中央指導部の指導の下に党各級機関と協力して分派
               主義者を粉砕し、それらから朝鮮人党員を引きはなし、……
               日本共産党の強化のために全力を尽すこと」をすべての朝
               鮮人党員に徹底させなければならない」。

     다 日本の朝鮮戦争参戦
         ◇掃海艇の派遣(「特別掃海隊」)
         ◇港湾労働者
         ◇従軍看護婦
            肥後喜久恵さん(1924年生、日赤従軍看護婦の会)
            「敗戦から十三年後、ようやく日本に帰ってきた私は、「二度と
            戦争に協力したくない」、「“生きる”手助けをする看護婦が患者
            を戦地に送りたくない」と願って生きてきました。
             残念なことに、五〇年に始まった朝鮮戦争では、九州地方の看護
            婦に再び招集がかかり、米軍博多キャンプの野戦病院に勤務させら
            れました。
             日赤、国立、公立、民間から千人以上の看護婦が、米軍看護婦の
            指揮下で傷病兵の治療にあたらせられたといいます」。
                       (『しんぶん赤旗』2002年2月27日)

(4)朝鮮戦争前後期の民間人虐殺
  1 韓国軍、警察による
     가 4・3烽起(1948年4月3日~)
       ※「済州4・3事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」2000年1月12日
     나 「保導連盟」関係:1950年7月~8月
       ・慶尚北道慶山  ・忠清北道大田 ・慶尚南道晋州 ・忠清南道洪城
          参考:「慶山コバルト鉱山民間人虐殺、66年ぶりに国家責任認定」、『ハン
           ギョレ』2016年9年16日。 キム・ミンギョン記者
             「韓国戦争の時、軍と警察が1800人以上を虐殺したと推定される慶山コ
            バルト鉱山民間人犠牲事件の国家責任を認める判決が下された。
             慶山コバルト鉱山民間人犠牲事件は、朝鮮戦争勃発後に慶尚北道慶山、
            清道、大邱などから連行され大邱刑務所に収監された国民保導連盟員など
            を警察と軍が1950年7~8月に慶山市のコバルト鉱山などで集団虐殺した
            事件だ。
             国民保導連盟は左翼活動経歴者の思想改造を名分として1949年4月に
            李承晩政権当時に作られた政府系団体で、左翼活動とは関係なく強制加
            入させられたケースも多かった。真実・和解のための過去事整理委員会
            (真実和解委)は、2007~2009年に慶山コバルト鉱山で363体の遺骨を
            発掘し、2009年11月この事件の真実糾明決定を下した。当時、真実和
            解委はこの事件の犠牲者を1800人以上と推定した。
             大法院はこれと共に大邱・慶北刑務所の服役者犠牲事件、軍威・慶州・
            大邱の国民保導連盟事件、慶北・霊泉国民保導連盟事件、朝鮮戦争以
            前の慶山民間人犠牲事件、大邱・高霊・星州・霊泉民間人犠牲事件から
            なる6件の虐殺事件の国家責任も認め、310人余りの犠牲者遺族に117
            億ウォン余の損害賠償金を支払うよう判決した。真実和解委が推定した
            6件の民間人虐殺事件の犠牲者は5000人余に達する」。  
     다 居昌・山清・咸陽の虐殺:1951年2月7日・9日~11日
       ※「居昌事件等関連者の名誉回復に関する特別措置法」1996年1月5日     
       ※「真実・和解のための過去事整理基本法」2005年5月3日、韓国の国会で可決。
        同年12月、「真実・和解のための過去史整理委員会(真実和解委)」発足(→2010年
        6月)。
      参考:「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」
        第1回目:2014年2月24日~3月2日、慶尚南道晋州市鳴石面龍山頭
        第2回目:2015年2月23日~3月1日、忠清南道大田市東区郎月洞(前、忠清
             南道大徳郡山内面朗月里骨嶺谷)
        第3回目:2016年2月24日~29日、忠清南道洪城郡広川邑淡山里
        第4回目:2017年2月24日~3月1日、慶尚南道晋州市鳴石面龍山里
  2 アメリカ合州国軍による
    가 忠清北道永同郡黄澗面老斤里での虐殺:1950年7月
      ※「老斤里事件犠牲者審査および名誉回復に関する特別法」(2004年3月5日)      
    나 生物兵器使用
    다 黄海南道信川での民間人虐殺:1950年10月
    라 慶尚南道馬山、咸安郡
    마 慶尚北道醴泉郡、亀尾市
    바 米軍機、全羅北道裡里駅(現イクサン駅)を爆撃.少なくとも350人の民間人が死傷
    사 忠清北道永春面上里300余名の住民と避難民虐殺:1951年1月20日.
  3 朝鮮民主主義人民共和国人民軍による
    가 「一九五〇年六月、朝鮮半島に戦争が勃発した。……七月には朝鮮人民軍が全羅
     南道をすべて占領した。私か住んでいた面(村)は南労党系列の影響が強かったの
     で、南進した朝鮮人民軍に協調した。占領地域に、北朝鮮の末端行政組織である面
     委員会を組織し、李承晩政権に繋がる勢力を摘発、粛清した。その対象に日本の植
     民地統治下の面長だった朴一東が含まれていた。……北朝鮮人民軍の占領下で朴
     一東は反動分子として捕らえられ、村内を引きずり回された。無残にも朴一東の鼻
     に穴をあけ縄を通して、鼻輪をした農牛のように引きずり回した……。朴一東の家
     族は反動家族として、すべて銃殺された」(朴庸坤『ある在日朝鮮社会科学者の散策
     「博愛の世界観」を求めて』現代企画室、2017年)。
    나 韓国慶尚北道漆谷郡倭館邑(303高地):1950年8月17日

(5)おわりに 南北統一・朝鮮民主主義人民共和国の民主化
    ◇朝鮮分断の根本原因:日本の植民地支配
    ◇朝鮮民衆を犠牲にして日本経済が「復興」(「朝鮮戦争特需」)
      ・1950年6月、横浜にアメリカ合州国軍在日兵站司令部設置。
      ・直接調達方式で大量の物資調達(繊維製品:土嚢用麻袋、軍服、軍用毛布、
      テントなど。鋼材:陣地構築用鋼管、針金、鉄条網など。コンクリート材料:
      セメント、骨材〈砂利・砂〉など。食料品)。
      ・兵器生産:日本企業に兵器や砲弾などの生産許可(実質的命令)。
      車両(戦車など)整備、航空機整備を三菱重工・富士重工・小松製作所などに
      発注。
      ・日本の主要軍事産業は、朝鮮戦争特需と警察予備隊(1950年発足)に供与
      された戦車などの整備をおこない、アメリカ合州国の技術などを獲得し、後に、
      61式戦車などを製造。

    ◇4・19(1960年、李承晩追放)、5・18(1980年、光州民衆抗争)、6月民主
    抗争(1987年→全斗煥死刑判決)、2017年5月(朴槿恵逮捕)

                               金靜美(김정미 キム チョンミ)
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