三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

一九一〇年・二〇一〇年 5

2010年05月28日 | 個人史・地域史・世界史
■妄言。それを支持する者たち、それを許容しつづける者たち
 発言者の本質を示す決定的なコトバがある。
 政治家や軍人やイデオローグたちの本質を示す決定的なコトバを無視あるいは軽視して、かれらの他の発言から何かを学ぼうとすることはもちろん、その発言を分析することも無意味である。
 一九四五年八月以前において、形成期いらいの国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を問おうとしないで、多くの日本人文筆者が発言してきた。その発言は、国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪を支えてきた。かれらは、主体的に国民国家日本の国家犯罪、侵略犯罪に加担してきた。同じことが、多くの日本人文筆者によって、一九四五年八月以後もつづけられてきた。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の尖兵であった日本人文筆者の多くは、一九四五年八月以後も、日本国家と自分自身の侵略犯罪の実態を明らかにしようとせず、日本人が国民国家の他地域・他国侵略、植民地支配の歴史的責任を自覚することを妨害してきた。
 たとえば、竹内好は、兵士として、そして「日本文学報国会」に所属する文筆者として、アジア太平洋侵略を主体的におこなっていた。一九四五年八月以後も、竹内は、その過去の犯罪の責任をとろうとしないだけでなく、積極的に、日本人が、過去の他地域・他国侵略、植民地支配を認識しその歴史的責任をとろうとすることを妨害していた。
 一九六三年に、竹内好は、
    「朝鮮問題の場合、結果はたしかに「日韓併合」という完全侵略におわったわけだが、その過程は複雑であって、ロ
   シアなり清国なりの「侵略」を共同防衛するという一面も「思想」としてはなかったわけではない」
と言い(「アジア主義の展望」、『現代日本思想大系』第九巻、筑摩書房、一九六三年)、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」、と感想をのべていた(「中国問題についての私的な感想」、『世界』一九六三年六月)。
 竹内が、「チャンコロ時代がなつかしい」と公言できたのは、かれの歴史認識の方法と内容がきわめて粗雑なものであったためだけではなく、かれの言う「チャンコロ時代」に日本人がおこなっていた侵略犯罪を根本的に否定する感性も思想も、もっていなかったからであろう。竹内が「なつかしい」と言っていた一九六三年においても「チャンコロ時代」は終わっていなかった(現在においても、終わっていない)。竹内はその「時代」がいつ開始されたと考えていたのか。夏目漱石は、一九〇九年に、「チャン」・「チャンチャン」と言っていた(「満韓ところどころ」)。
 そのような発言をした竹内好を批判する日本人言論人がほとんどいなかった(いまもほとんどいない)ということは、一九四五年八月以後現在にいたる日本の言論人たちの思想と感性が、国民国家日本の国家犯罪を否定できない質のものであることを示している。「チャンコロ時代がなつかしい」という日本人にとっては、「センジン時代」・「半島人時代」も「土人時代」も「なつかしい」であろう。
 一九六七年に、竹内は、
    「日露戦争には、国際的に見て、アジアの復興と植民地の独立の機運をうながしたという一面の功績も認めなけれ
   ばならない」、
    「日露戦争で日本が負ければ、朝鮮は当然ロシアのものになったかもしれない」
と発言し(「明治維新と中国革命」、『共同研究 明治維新』徳間書店、一九六七年一一月)、さらに一九六八年に、
    「〔日露戦争が〕帝国主義戦争であろうとなかろうと、明治維新革命の有効性を立証し、それによってアジア諸国に
   復興の気運をまきおこしたことは事実であります」、
    「日露戦争で日本の軍隊がツァーの軍隊を破った。……大勝利ではなかったが、ともかく勝利をおさめた。ここまで
   はよいのです」
と語っていた(「中国近代革命の進展と日中関係」、福岡での講演、一九六八年一〇月)。
 竹内好は、「日露戦争には……アジアの復興と植民地の独立の機運をうながしたという一面の功績も……」と言っていたが、「日ロ戦争」直後、日本が朝鮮を植民地とした事実をどのように説明するのだろうか。
 国民国家日本の対ロシア戦争開戦は、日英同盟を前提としていた。
 一九〇三年秋、国民国家日本がロシアとの戦争を準備していたとき、それまで非戦を主張していた『萬朝報』は開戦論を主張しはじめた。記者であった幸徳秋水と堺利彦は非戦論を貫くために朝報社を退社し、一〇月に平民社を結成し、一一月一五日に週刊『平民新聞』を創刊した(一九〇五年一月二九日発行の第六四号で終刊)。
 竹内好の歴史認識・思想は、「日ロ戦争」に反対した幸徳秋水らの対極に位置するものであった。竹内好の思想と発言は、幸徳秋水らに敵対するものであった。
 竹内好の歴史認識は、その方法も内容も空疎であった。竹内は、確実な証拠のないことを事実であるかのように叙述し、アジア侵略を扇動した日本人イデオローグたちの思想と行動を肯定していた。
 竹内好の問題は、現象的にはささいな問題であるが、根深い問題である。この問題を社会的に克服することなしに、日本の言論人たちは、国民国家日本のさらなる侵略犯罪に加担しつづけることになるだろう。
 竹内が「アジア主義」をあらたに宣伝しはじめたのは、安保反対闘争後、韓国と日本のあいだの条約締結策動が進行していた時期だった。韓国と日本では、日本の再侵略に反対する民衆の行動が深まっていた。
 竹内好が、「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある」、「侵略という形を通じてあらわされているアジア連帯感」(「日本人のアジア観」、共同通信配信、一九六四年一月)などと言った翌年、アメリカ合州国軍が、ベトナム北部にたいする無差別爆撃を開始した。その数十年前、日本軍は、重慶地域、蘭州地域……を無差別爆撃していた。竹内にとっては、侵略軍による上空からの無差別爆撃という侵略犯罪もまた「連帯感のゆがめられた表現」なのだろう。
  「チャンコロ時代」に兵士として中国に侵入した国民国家日本の「臣民」は、中国民衆を殺戮した。中国人を「チャンコロ」とよぶ差別意識・差別思想をもつことによって、かれらは、平気で、中国で住民虐殺・放火・略奪……をつづけることができた。
 わたしは、一九八七年に、当時日本アジア・アフリカ作家会議に所属していた栗原幸夫が、
    「一九一〇年の日韓併合条約(植民地化の最終的実現)にいたる過程に、日本と韓国の双方に対等な「合邦」をも
   とめる動きがあったこともひとつの歴史的事実にほかならない」、
    「彼ら〔樽井藤吉、内田良平、李容九ら〕の、日韓の対等合邦をテコにしてアジアを一大連邦と化し西欧帝国主義を
   一掃するという構想は……当時のアジアの現実のなかでは一つの可能な夢であった」、
などと発言していることを批判した(「侵略の構造を破壊するために」、『aala』日本アジア・アフリカ作家会議機関誌、一九九四年Ⅳ号。キムチョンミ『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、一九九六年、に再掲)。
  「日本と韓国の双方に対等な「合邦」をもとめる動きがあった」という「ひとつの歴史的事実」(虚偽)の最初の発見者(宣伝者)は、栗原幸夫ではなく竹内好であった(キムチョンミ「国民国家日本、二〇〇一年  日本人は、いつ、どのように日本国家主義から解放されるのか」、『飛礫』32号、二〇〇一年一〇月)。
 竹内好の言説の一部分をとりだし、「今となってはチャンコロ時代がなつかしい」などという暴言を無視して、肯定的に語る文筆者が、「大逆事件」一〇〇年後においてもなお、あとをたたないのは、日本の思想状況の悪質さを示す事例のひとつである。
 その中には、鶴見俊輔、加々美光行、松本健一、丸川哲史などの日本人だけではなく日本に「留学」したことのある孫歌のような中国人もいるのは、侵略を肯定する日本の状況の反映であろう。孫歌は、竹内好の言説について饒舌に語りながら、竹内の数々の妄言を分析しようとせず、竹内好をほぼ全肯定している(孫歌『竹内好という問い』岩波書店、二〇〇五年)。
 孫歌の日本における役割は、朴裕河などの役割と共通している(朴裕河『和解のために――教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社、二〇〇六年。ここで朴裕河は、「日本学を専攻する者」として「和解成立の鍵は、結局のところ被害者側にあるのではないか」と言っている)。
                                               キム チョンミ
ジャンル:
ウェブログ
コメント   トラックバック (1)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 一九一〇年・二〇一〇年 4 | トップ | 一九一〇年・二〇一〇年 6 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
「アジア主義」再評価論批判?――竹内好のDV史観 (media debugger)
 さて、「論壇」(の一部)にはびこる「アジア主義」再評価のトレンドを効率的に叩くためには、同じく近年再評価が進んでいる別の人物に対...