きょう(2月20日)午後、海南島近現代史研究会の会員4人が、滋賀県近江八幡市に住む阿津川俊宏さんを訪ねました。
阿津川さん(1926年5月生)は、海南師範学校3期生だった人です。海南師範学校については、このブログに2008年9月9日に掲載した「『海南島三省連絡会議決議事項抄録』 6」、2011年7月15日〜8月21日、2012年2月5日に掲載した「「海南師範学校」(1〜15)」をみてください。
阿津川さんは、つぎのように話しました。
“八日市中学校を卒業する1944年のはじめに、海南師範学校の入学試験を京都で受けた。
海軍に入れば兵隊にいかなくてもよい。滋賀県では兵隊に徴集されると敦賀の部隊に入れられて北の寒いところに行かされる。このあたりの者はみんな満州に行かされる。南の海南島にいけば寒くないし兵隊にいかなくてもいいと考えて試験を受けた。
八日市中学校からは、わたしと塚本の2人が合格した。塚本は早く死んだ。
1944年3月に九州の八幡製鉄のなかにあった海軍連絡所に集まって、門司沖から出る輸送船団に乗って沿岸ぞいに海南島に向かった。
途中台湾に寄って、三亜に着いた。三亜港は日本海軍の軍港だった。
三亜から海口に行って、師範学校に入学した。海南海軍特務部政務局第3課海軍理事生としてだった。4月はじめだった。生徒は100人だった。
そこで、海南語などを勉強した。銃の使い方も習った。
6か月の特訓のあと、海口から海軍のトラックで陵水に行って、陵水小学校の教師になった。東京から来た押尾忍といっしょだった。
陵水は、海南海軍第16警備隊陵水派遣隊の警備地区だった。
校舎はレンガづくりで、2階が教員の宿舎になっていた。
日本人教師は、わたしと押尾の2人。中国人教師が5人いた。みんな海南島の人だった。
名まえは、ようじゅたく、こうかいめい、おうしょうへい、たんとくちん、ちょうこくきん。
こうかいめい、おうしょうへいは女性だった。みんな年は若かった。若いといってもわしらよりは上だったが。
こうかいめいには、戦後海南島に行ったときに会った。最近亡くなった。押尾も死んだ。
校長は台湾からきていた日本人だった。名まえは覚えていない。台湾に長いこと住んでいて先生をしていたようだ。
自分は子どもたちに日本語を教えることに使命感のようなものはなかった。
近くに台湾拓殖の農場があった。農作物を日本軍におさめていた。その農場から生徒が2人かよっていた。
1945年3月になると戦況が悪くなって、郊外の山麓に日本軍が食料貯蔵用の横穴をつくりはじめた。
掘ったのは、みんな地元の人たちだ。日本軍の分遣隊が警備をしていた。
わたしも、そこに行って警備をしたことがある。銃をもっていたが、撃ったことはなかった。
陵水に慰安所があった。女性は台湾人だった。日本人がいたかどうかはわからない。朝鮮人がいたかもしれない。
慰安所にいた女性は5人くらいだった。
台湾人の女性は見たことがある。
毎日アルミニウムのバッカンに入れて食料(コメや肉など)を軍隊の建物から、2〜3人の女性が慰安所に運んでいた。
わたしたちの食料も軍の建物から運んできた。
運んだのは、給仕だった。給仕は、男もいたし女もいた。
水も給仕が井戸から運んだ。洗濯も給仕にしてもらった。
給仕は残飯でくらしていた。お金をもらわないで……。
学校の先生は、兵士より扱いがよかった。わたしは、給料を軍票でもらった。
日本の両親には手紙を書いたことはあったが、仕送りをしたことはなかった。
1945年4月に徴兵され、陵水から海口に行き、海口から雷州半島に行った。
雷州半島から広州に行く途中で日本の敗戦を知った。
1946年4月に海南島の海口に戻され、海口から日本に戻った。そのときの船は大きかった。
着いたのは浦賀だった。日本兵ばかりで一般人はいなかった。
政府から浦賀で家にもどる旅費をもらったように思う。
陵水小学校にいるとき、あいつら(日本軍)、日本の国旗を揚げよといった。
子どもたちが、なんで上げんならんと言った。子どもたちは、どうして日本の国旗を揚げるのかと聞いた。
日本軍は、東方遥拝もやるように言ってきた。
子どもたちが東方に誰がいるのかと聞いたので、返答に困った。
わしは、東からお日様がでるから拝むのだと言った。
天皇がおるからだと言っても子どもたちが解るわけがない。
子どもに東方遥拝の意味が解るわけがない。子どもたちは、反抗しないヨ。子どもは正直だ。
だから、自分の判断で東方遥拝をやめた。いっしょにいた教師はなにも言わなかった。
校長がくる前だ。校長は東方遥拝をやめたことを知らない。
自分は、東方遥拝をやっていた。
軍隊はなにも言わなかった。あのときは軍隊はそこまでの元気がなかった。
負けいくさ、だったから。
負けいくさだったことは、だいたいわかっていた。戦争に勝つとはあまり思っていなかった。
子どもたちが、日本がどこどこで負けた……と教えてくれた。子どもたちは、戦況をよく知っていた。
子どもたちは、なついてくれた。
わたしも、日本が勝つとはあまり思っていなかった”。
阿津川さんが陵水にいたころ、陵水の近くの后石村で日本海軍が飛行場(現、中国空軍の陵水飛行場の近く)を建設をしており、、「朝鮮報国隊」や「台湾報国隊」の人たちが働かされていました(このブログの2009年10月14日〜17日の「パランオッ・藍色衣服・青い服」2〜5、2009年10月14日2010年11月1日の「「台湾報国隊」について1」などをみてください)。
そのことについて阿津川さんに訊ねましたが、なにも知らないとのことでした。
阿津川さんは、糖尿病が悪化し、目がよく見えなくなり、足も不自由になっていました。
耳も聞こえにくくなっていましたが、大きな声で話すとわかってくれました。
ベッドのそばで、1時間半もの間、話を聞かせてもらいましたが、熱心に話してくれました。
最後に、いま聞いたことを阿津川さんの名を出して公表してもいいか、とたずねました。
阿津川さんは、即座に、いい、と言いました。
佐藤正人










