三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「木本事件」は終っていない 4

2016年11月13日 | 木本事件
「木本事件」は終っていない
     ―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――

■追悼碑のある場所はひとつの根拠地
 1994年5月1日に起工した追悼碑は、10月23日に建ち上がりました。工事をしてくれたのは、極楽寺のすぐ前の松島石材店の松島秀和さんでした。
 松島秀和さんの父、松島繁治さんは、1988年初夏にはじめて会員の金靜美が熊野市を訪れたとき、極楽寺の無縁墓地にふたりの「墓石」があるはずだといい、その場所を教えてくれた人です。そのとき、松島さんは、極楽寺墓地の30段ほどの急な斜面にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかの李基允さんと裵相度さんの「墓石」のありかを教えてくれました。松島繁治さんは、金靜美に、
    「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思って待って
   いた。
     事件のとき、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓からふたり
   の遺体を見たことがある。むしろが、かぶされていた。事件の夜は、こわくて家にかく
   れていた。
     その2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と話しました。
 裵相度さんの娘さんである月淑さんと木本小学校の同級生で仲の良かった橋谷ますえさんは、1989年4月25日に裵相度さんの孫の哲庸さんと会ったとき、月淑さんと「そっくりやのう」と繰り返しました。

 「LUZの熊野古道案内」というブログに2014年 11月 2日に掲載された「熊野の旅 熊野の負の遺産 木本事件」に、つぎのように書かれています。http://je2luz.exblog.jp/21263588
    「木本には世界にも知られている事件の歴史があります。木本事件」と言われるもの
   で、1926年正月に起きた集団殺人事件です。
    今も残る「木本隧道」の工事中に起きた事件で、工事に従事していた朝鮮人労働者
   と地元民との間に諍いが起こり、一部町民の制止にも関わらず、2名の朝鮮人を殺し
   てしまったのです。
    私の祖父はその現場に居て、若い衆を止めようとしても止められなかったそうです。
   「群集心理は怖い物だ・・・」と語ってくれました。
    殺された朝鮮人は日頃は地元の人とも仲良く出来ていて、「良いやつだった」とも聞
   きました」。

 筆者のLUZさんは、これを書いたとき熊野市議会の議員でした。

 当時も現在も、木本町(現、熊野市)に、「木本人」のように朝鮮人を敵視し、差別し、朝鮮人虐殺を肯定する日本人だけが住んでいるのではありません。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、当時の「木本人」によって殺された李基允さん裵相度さんを追悼する碑の碑文の後半に、新聞記事や聞きとりにもとづいて、つぎのように記しています。
   「朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流もうまれていました、裵相度氏の
  長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていました。襲撃
  をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かった
  ひともいました」。
 
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑が建立されてから、22年が過ぎました。これまで、この追悼碑は傷つけられることがありませんでした。追悼碑の近くに住む熊野市民は、追悼碑の維持をたすけてくれています。
 追悼碑と追悼碑のある場所は、民衆の運動のひとつの根拠地となっています。

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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