三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「広東裁判」・「香港裁判」 19

2012年02月19日 | 海南島史研究

 1945年8月の日本敗戦後、中国東北部からシベリアに連行された日本軍将兵(そのなかには、朝鮮人もいました)を除いて、ほとんどの日本人がアジア太平洋各地から日本に帰国しました。そのとき、戦犯容疑者として逮捕された日本軍司令官・参謀はごく少数でした。
 中華民国軍による「上海裁判」で、江陰憲兵分遣隊の軍曹と准尉、上海捕虜収容所の看守、常熟憲兵分遣隊の大尉、寧波陸軍連絡部の軍属、杭州憲兵隊の大尉と軍曹、民間人(「山東自治連軍総司令として中国侵略加担」)が処刑されていますが、日本敗戦時に支那派遣軍総司令官(陸軍大将)であった岡村寧次は、1949年1月26日に無罪判決を受けていました(茶園義男・重松一義『戦犯裁判の実相』下巻〈不二出版、1987年8月〉の「上海軍事法廷」の項、参照)。
 海南島では、日本軍の司令官・参謀は1人も戦犯として逮捕されませんでした。日本敗戦時に海南警備府の司令長官であった伍賀啓次郎中将も参謀たちも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊や舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊などの特別陸戦隊の司令官も、すべて帰国しました(このブログの2010年10月19日の「日本人の海南島からの「帰還」」をみてください )。
 帰国した海南島侵略日本軍の司令官のうち、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の司令官だった青山茂雄大佐と16警備隊の司令官だった能美実大佐は、帰国後日本で戦犯として逮捕されましたが、それは海南島民衆にたいする侵略犯罪・戦争犯罪容疑ではなく、アメリカ合州国軍兵士殺害やオーストラリア軍兵士・オランダ軍兵士虐待容疑による逮捕でした(このブログに2010年5月4日から6回連載した「旧海軍戦犯」、2010年5月13日から7回連載した「海南島第十六警備隊能美事件」、2010年8月16日から5回連載した「能美実らに対する横浜裁判」、2012年2月4日に掲載した「 「広東裁判」・「香港裁判」9」などをみてください)。
 海南島から日本への帰国直前に、約100人の日本人が戦犯容疑者として中華民国軍によって逮捕され広東に送られ、そのうち、海南警備府第15警備隊に所属していた兼石績大尉、富田堯人大尉、望月為吉中尉の3人が処刑されました。海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったん逮捕されましたが数日後に釈放され帰国しました。
 第15警備隊は担当地域の海南島東北部の各地で住民虐殺、家屋焼却、掠奪などの犯罪を繰り返していました。兼石績大尉らの具体的な犯罪容疑には、秀田村での住民虐殺が含まれていました(防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績氏の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス」と書かれています。このブログの2012年2月1日の「「広東裁判」・「香港裁判」6」をみてください)。
 1945年7月30日早朝、第15警備隊に所属する30人余りの日本兵が、2隊に分かれて秀田村を襲撃し、家を焼き、189人の村びとのうち、子どもを含む140人の人びとを殺しました。秀田村のはずれにある犠牲者の墓地には、140人の名を刻ん追悼碑が建てられています(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月発行〉8〜9頁をみてください)。
 岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』(講談社、1995年6月)には、
     「海南島海軍警備隊の派遣隊長・兼石績海軍大尉をはじめ、富田克人海軍大尉、望月為吉海軍
     中尉については、
         「戸口調査、ゲリラ隊員捜査などの口実のもとに計六百六十五名の住民を逮捕し、
        計画的に集団殺人をおこない、家屋六百八十二軒を焼き払った」
    という起訴理由があげられた。数字は正確ではないが、終戦直前、米軍の上陸を前にして玉砕を
    覚悟した日本軍が島内の呼応者や反乱者を逮捕・殺害しようとした作戦で、まさに戦争の悲劇と
    いうしかない悲惨な事件であり、虐殺行為であった」
と書かれています(479頁)。岩川隆氏は、ここで、秀田村での住民虐殺を「米軍の上陸を前にして玉砕を覚悟した日本軍が島内の呼応者や反乱者を逮捕・殺害しようとした作戦」と解説していますが、オキナワをアメリカ合州国軍が占領していた1945年7月の時点では、アメリカ合州国軍が海南島に上陸することを日本軍は想定しておらず、海南島の日本軍は「玉砕を覚悟」していませんでした。また、「玉砕を覚悟」することと住民を虐殺することとは、なんの関係もないことです。日本軍が村を襲って幼い子どもをふくむ住民を虐殺したことを、「まさに戦争の悲劇というしかない悲惨な事件」だと説明することは、戦争犯罪の本質を隠すことだと思います。
 秀田村で生き残った村人(陳貽僑さん〈1925年生〉、陳明宏さん〈1928年生〉、陳貽芳さん〈1933年生〉)の証言は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会2004年制作)、および、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究3」などをみてください。
                                                         佐藤正人

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1945年 アメリカ合州国 中華民国軍 1933年生 オーストラリア軍 防衛研究所 1925年生 1928年生 佐世保鎮守府 アジア太平洋
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